この歌声が届くまで

蒼村 咲

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10月3日 金曜日

最終話 夢の翼と覚める夢

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 直前のチームの歌、「紅葉の渦」が終わった。退場の間際、そのチームの中にいた乾と目が合う。
 彼は「がんばれよ」と口だけ動かした。エールを受け取ったことを伝えたくて、私は小さくうなずく。
 待機場所には最後のチームの列ができはじめていた。そこに塚本くんと一緒に加わる──私はソプラノの最後列に、塚本くんはテノールの最後列に。

(ああ、始まる。始まってしまう……)

 私たちのチームの入場を誘導してくれたのは中村くんだった。その表情が妙に真剣で、私もつられて表情を引き締める。
 全員が入場し終えると、輝の声で曲名がアナウンスされた。

「ついに最後の一曲となりました。『夢の翼』です。作詞、元山早紀。作曲、樫田琢郎。指揮、佐藤梨花。伴奏、宮下幸穂」

 結局チームリーダーと指揮者を兼任することになった梨花は、少なくとも私の目には緊張しているようには見えない。そのことに密かに安堵しながら、運命の時を待つ。
 指揮台に上った梨花がゆっくりと右腕を上げる。すると講堂には完全な静寂が満ちた。
 まもなく、彼女の腕が振り下ろされるだろう。それまでのこの一瞬が、なぜか永遠のように思える。

(ああ、これだ……)

 目には見えない、手にも触れない高揚で全身の肌が粟立つような、快とも不快とも言いがたいこの感覚。
 緊張とも違う。興奮とも違う。ただ得体の知れない、でも毎年慣れ親しんだこの感覚に、全身が、ステージ上の全員が包まれる。
 と、ついに梨花の手が空を切った。そしてその四拍後、幸穂ちゃんが奏でるピアノがキラキラと流れ出す。

(わあ……)

 全パートで合わせる合同練習には、私もちゃんと参加した。だから彼女の伴奏を聴くのは初めてではない。
 それなのに私は、幸穂ちゃんの奏でる音にまるで心臓をきゅっと掴まれたような気持ちになってしまった。
 やはり上手だ──そして彼女は、合唱曲のピアノ伴奏というものをよくわかっている。聴衆を引きつけるこの前奏のキラキラを、歌が始まればすっと引っ込められるのだから。
 お気に入りのこの歌を、彼女のこの伴奏に乗せて歌える幸せをかみしめる。
 さあ、もうすぐだ──心にあふれる想いを、身体に宿る高揚を、すべてを解き放つように、私は大きく息を吸い込んだ。

♪吹きつける風に 身を任せたい
 まぶしい太陽に ふと目を細める

 幸穂ちゃんの奏でるピアノと私たちの歌声が、梨花の指揮でひとつになる。
 どうしよう、まだ始まったばかりなのにもう胸が熱くなってきた。

♪振り返ることなく 歩いてきたけれど
 なくしたものは 数知れない

 この合唱だって、「音」である以上は波のように空気を伝わっていくだけの「振動」にすぎないのだろう。それでも私には、目には見えないけれど、光り輝く音の粒が一斉に宙を舞い、そして講堂に降り注ぐイメージが浮かぶ。

♪たどり着きたい あの美しい場所
 それはいつも この 心の中に

 きっと私は、ずっとこれを追いかけていたのだ。合唱祭が中止を宣告されたあの日から、ずっと。そしてようやく、今日という日を掴んだのだ。合唱祭実行委員会のみんな、生徒会執行部のみんな、合唱祭開催を後押ししてくれたみんな、そして、合唱祭に参加してくれたみんなとともに。

♪この翼だけは 折れることはない
 力振り絞って 羽ばたいてみようよ
 信じ合える 今のこの瞬間を
 私はいつだって 忘れないから

 ああ、もうこんなところまできてしまった──ちゃんと一音一音、一言一句歌ってきたはずなのに、まるで時間が飛んだかのような錯覚に陥る。
 あの日屋上で、私はひとり諦念に包まれながらこの歌を口ずさんでいた。塚本くんが来てくれるまでは本当にひとりだった。
 でも今私たちはこのフレーズを、五十人で歌っている。独唱でも重唱でもない合唱が、講堂に響いている。

♪風に乗り舞い上がる いつか見たあの夢へ
 届かぬ不安もまた 力へと変えられる

 力強いフォルティシモは、まるで夜空に咲いた花火だった。祭りを、祭りのフィナーレを彩る花火──でもそれを見上げている間だけは、みんなその後に待っている「終わり」に気づかないふりをする。
 だから私たちは、ただひたすらに美しい花火を打ち上げ続けるのだ。みんなに終わりを見てほしくないから。そして私たちも終わりを見たくないから。その終わりは遠からずやってくると、たとえ本当は知っているのだとしても。

♪はためく希望とともに
 どこまでも 飛んでいこう

 リタルダンドで引き伸ばされた最後の音が、だんだんと薄くなっていく。そう、まるで打ち上げられた最後の花火の火の粉が、濃紺の夜空にキラキラと溶けていくように。
 歌は残らない。どんなに美しいハーモニーも、力強いメロディも、歌ったそのそばから虚空へと消えていってしまう。
 それなのに同じ歌は一つとして生み出せない。たとえ同じ時間に同じ場所で、同じ人と何度歌ったとしても、同じ歌などありえないのだ。どんなに緻密に計算しても、全く同じ混色が不可能であるように。

 この世界は日々変化していて、その中で生きる私たちも変わらずにはいられない。それは良い変化ばかりではないかもしれないけれど、それでも恐れてばかりいてはいけないのだ。
 そう思った瞬間、梨花の両手が空中でふわりと揺らぎ、きゅっと拳を作った。その動きに連動して、すべての音がふっと消える。
 そしてその一拍後に、割れんばかりの拍手が沸き起こった。

 今の今まで存在を意識すらしなかった講堂の照明が、潤みかけた私の目をまっすぐに射る。眩しい──まるで心地よいまどろみから突然揺り起こされたような気分だ。

(まどろみ……? ああ、そうだったんだ……)

 鼻の奥がツンとして、胸が締め付けられる。
 この、時間にしてたった二時間にも満たない非日常は、「合唱祭」と名づけられた夢だったのだ。そして、その夢から覚める時がとうとう来てしまった──…。
 指揮台を下りた梨花の動きに合わせて、全員で礼をする。

 頭を下げた瞬間、私の目からは透明なしずくが落ちた。


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