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◇ 二章七話 懐かしの川 * 慶応元年 四月
いざ過去へ
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「土方さんは……葛という方を、ご存知ですよね」
言った瞬間、土方は表情を変えないまま、口だけを呆けたように小さく開けて動きを止めた。
かと思えば、一瞬苦虫をつぶしたような顔になり、しかし直後今度は何かを訝るように眉をひそめ、それから思案するように視線を横に流す。
随分な百面相に斎藤が口をつぐんでいると、土方は流していた視線をぐるりと一度天井にまで回して、それから改めて斎藤へと視線を戻してきた。
「……お前に葛の話をしたのはどうせ総司だろうが、それはそれとして、今のお前の訊き方は妙に引っかかる」
なるほど、故の百面相かと納得し、斎藤は思わず小さく鼻を鳴らしてしまう。
「特に引っかかっていただく必要はないかと。私自身、葛様とは幼い頃の知己であった、というだけですので」
こればかりは偽らず告げると、土方は今度こそ言葉を失ったように口をつぐんだ。
斎藤は普段通りの抑揚のない声で「驚きますよね。私も驚きました」と小さくあごを引き、話を切り出す前に無意識に少しばかり詰めていた息を、改めてゆっくりと吐き出す。
「昔は私にも守りたいものがあった、ということを……以前、土方さんにはお話ししたことがあったと思うのですが」
覚えておいでですかと問えば、土方はさしたる間を置くこともなく目を伏せ、ハ、と薄く口の端を上げた。
「なるほどなァ……葛のことだったわけか」
土方は細い息を吐き、背を丸めてあぐらをかいた膝の上に頬杖をついた。「改まって何かと思えば」と独り言ちて、そんな体勢のまま再び斎藤を見る。
「何でまた、今さらンなってそんな懐かしい名前を出してきやがる」
「何故、今……と問われると、今だから、としか言いようがないのですが」
動揺ゆえかあるいは別の意図か、何かを探るように見てくる土方の目を真っ直ぐ見返しながら、斎藤はゆるくあごを引いた。
「……私が葛様と共にあったのは、葛様が土方さんにお会いになるよりも以前のことでした。当然、あの方が土方さんと交流があったことも、最近になって沖田さんから話を聞くまで知りませんでした」
「最近?」
「そうです。ですからその最近まで、私は己と別れた後の葛様が、亡くなるまでの間、江戸にいたことも知らなかったのです」
答えれば、今だから、と言った意味が土方には正しく伝わったようだった。
土方は目を瞬かせ、前傾していた上体を軽く上げると、「ああ」と妙に間の抜けた声を上げる。
その虚を衝かれたような顔に向かって、斎藤は改めて本題を切り出した。
「……土方さん。もし暇があるならば……私を連れていって、教えていただけませんか。かつて葛様がどこで過ごし、あなたとどこで出会い……どう、生きておられたのか」
返答は、すぐにはなかった。
ただ、開け放たれたままになっていた斎藤の背後の障子から、さわさわと、青くさい初夏の風が室内に吹き込んできた。
言った瞬間、土方は表情を変えないまま、口だけを呆けたように小さく開けて動きを止めた。
かと思えば、一瞬苦虫をつぶしたような顔になり、しかし直後今度は何かを訝るように眉をひそめ、それから思案するように視線を横に流す。
随分な百面相に斎藤が口をつぐんでいると、土方は流していた視線をぐるりと一度天井にまで回して、それから改めて斎藤へと視線を戻してきた。
「……お前に葛の話をしたのはどうせ総司だろうが、それはそれとして、今のお前の訊き方は妙に引っかかる」
なるほど、故の百面相かと納得し、斎藤は思わず小さく鼻を鳴らしてしまう。
「特に引っかかっていただく必要はないかと。私自身、葛様とは幼い頃の知己であった、というだけですので」
こればかりは偽らず告げると、土方は今度こそ言葉を失ったように口をつぐんだ。
斎藤は普段通りの抑揚のない声で「驚きますよね。私も驚きました」と小さくあごを引き、話を切り出す前に無意識に少しばかり詰めていた息を、改めてゆっくりと吐き出す。
「昔は私にも守りたいものがあった、ということを……以前、土方さんにはお話ししたことがあったと思うのですが」
覚えておいでですかと問えば、土方はさしたる間を置くこともなく目を伏せ、ハ、と薄く口の端を上げた。
「なるほどなァ……葛のことだったわけか」
土方は細い息を吐き、背を丸めてあぐらをかいた膝の上に頬杖をついた。「改まって何かと思えば」と独り言ちて、そんな体勢のまま再び斎藤を見る。
「何でまた、今さらンなってそんな懐かしい名前を出してきやがる」
「何故、今……と問われると、今だから、としか言いようがないのですが」
動揺ゆえかあるいは別の意図か、何かを探るように見てくる土方の目を真っ直ぐ見返しながら、斎藤はゆるくあごを引いた。
「……私が葛様と共にあったのは、葛様が土方さんにお会いになるよりも以前のことでした。当然、あの方が土方さんと交流があったことも、最近になって沖田さんから話を聞くまで知りませんでした」
「最近?」
「そうです。ですからその最近まで、私は己と別れた後の葛様が、亡くなるまでの間、江戸にいたことも知らなかったのです」
答えれば、今だから、と言った意味が土方には正しく伝わったようだった。
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「……土方さん。もし暇があるならば……私を連れていって、教えていただけませんか。かつて葛様がどこで過ごし、あなたとどこで出会い……どう、生きておられたのか」
返答は、すぐにはなかった。
ただ、開け放たれたままになっていた斎藤の背後の障子から、さわさわと、青くさい初夏の風が室内に吹き込んできた。
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