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第1部最終回 魏滅の戦略
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建安十六年、劉備が益州から来た使者、法正と会っていた頃、私にとっての大事件が起こった。
父は甘夫人を亡くした後、孫権の妹と婚姻を結んでいた。
劉家と孫家は、同盟の証として、政略結婚をしたのである。
劉備の新妻は、孫夫人と呼ばれた。このふたりの仲が、あまりよくなかった。
孫夫人は夫が益州を侵攻しようとしていることを知り、呉に対する裏切りであると感じた。彼女は公安から脱出し、呉へ帰ろうとした。そのとき、ついでとばかりに、私を誘拐したのである。
船で逃れ出て、江水を下る孫夫人を、張飛と趙雲が追った。
私は船室の荷箱の中に閉じ込められていた。
張飛が孫夫人の船を停止させ、趙雲が船内を捜索した。
趙雲が荷箱を開けてくれたとき、私は「子龍……」とつぶやいて、泣いて感謝した。
張飛と趙雲のすばやい追尾によって、私は呉へ連れ去られるのをまぬがれたのである。
ふたりには、長坂の戦いにつづいて、二度も命を助けられたことになる。
呉との同盟を維持するため、孫夫人をとがめることはできず、彼女はそのまま呉へ帰った。
さて、父は益州への行軍の準備をしている。龐統と黄忠を連れて出発されてしまうと、劉備軍は龐統を失うことになる。私はそれを阻止したい。
「父上、相談があります」と私は父に向かって言った。
「なんじゃ、言ってみよ」
「魏を滅ぼす戦略を語りたいのです。父上、諸葛亮殿、龐統殿と四人でお話をさせてください」
「魏を滅ぼすじゃと。いまは益州へ行こうとしているところだというのに。大法螺を吹くものではないぞ」
「益州を奪う前に、私たちの進むべき方向性を決めておく必要があると思うのです。ぜひとも四人で内密に話をさせてください」
私は五歳という幼さだが、極めて真剣だった。
父はただならなさを感じて、私の願いを聞き、公安城内で四人だけの会議を開いてくれた。
「なにごとでしょうか」と諸葛亮は問い、「若君と話せるのはうれしいです」と龐統は言った。
私はゆったりと椅子に腰掛けていた。
「天下の大事です」と話し始めた。
「これから父上は、益州を獲ろうとされています。それは達成されるでしょうが、私たちの軍の主力は荊州から益州に移ることになります。当然、荊州に隙ができます。将来、荊州は魏か呉に奪われてしまうでしょう」
「荊州に隙なんかできんわい。わしは孔明、関羽、張飛を公安に置いておくつもりじゃ。わしと龐統、黄忠で益州に向かう」
「父上、成都は簡単には陥落しません。必ず、諸葛亮殿に援軍を頼むことになるでしょう」
「馬鹿な。益州は脆い。容易に落とせる」
「簡単ではないかもしれませんが、この龐統が主を輔弼し、益州軍を撃破してみせます」
父は見通しが甘く、龐統は気負っていた。
「龐統殿、万が一、父が諸葛亮殿を頼る事態が来たとき、あなたは冷静でいられますか」
諸葛亮と龐統が顔を見合わせた。このふたりは劉備の第一の軍師はどちらかを競う関係にあり、仲がよいとは言いがたかった。
「む、そのようなことがないように努めるまでです」と龐統は不機嫌そうに言った。
「龐統殿、あなたらしくないではありませんか。軍師たるもの、最悪の想定もしておくべきではないですか」
龐統は黙った。私はつづけて言った。
「荊州をおろそかにしてはなりません。この遠征、父上は出るべきではないと思うのです」
「なにを言う。劉璋殿はわしを頼っておるのじゃ。わしが行かずしてどうするか」
「劉璋様は漢中の張魯を討ってほしいのです。父上が出陣なさらずとも、張魯を討つことができれば、あの方は満足するでしょう」
「若君、主は漢中へは行きません。狙いは成都です」と諸葛亮が言った。
「益州攻略は簡単ではないのみならず、その維持は奪取以上の難事です。いきなり成都を落としても、益州の民は父上に服しないと考えます。それよりも、劉璋様の要請どおり、まずは漢中郡を獲るのが上策です。それだけなら、荊州の全力を注がなくとも、可能でありましょう」
諸葛亮と龐統が、はたと膝を打った。
「漢中郡を獲り、そのまま居座り、その民を慰撫します。やがて機を見て、荊州と漢中から出陣して益州を挟撃し、劉璋様を降伏させるのが、もっとも手堅い作戦であると思っております」
漢中郡は益州の北部にある。そこを獲れば、成都を南北から挟み撃ちにできるのである。
父がうなずいた。
「わかった。しかし、わしが漢中へ行けばよいのではないか」
「父上には要石のごとく、荊州にいてほしいのです。私を益州へ派遣してください」
「なんだと。幼いおまえを行かせたら、劉璋殿は、わしの正気を疑うであろう」
「初めはそうであると思いますが、会って話をすれば、劉璋様は私が父上の代理として十分な能力を持っているとわかってくださる筈です」
「ふむう、どうかのぉ」
「父上、私を行かせてください。龐統殿を軍師として、張飛殿、趙雲殿、魏延殿を将軍として、私にお貸しくださるようお願い申し上げます」
私は、劉備と諸葛亮と関羽がいれば、荊州は保全できると考えていた。また、私の下に龐統、張飛、趙雲、魏延がいれば、漢中郡や益州を獲れるだけでなく、将来の魏との戦いも優勢にやれるのではないかと期待していた。彼らが欲しかった。
父は腕組みをした。
「よろしいのではないですか」
諸葛亮が穏やかに微笑んだ。
「話はここからが本番です。魏を滅ぼす戦略を語らせてください」
三人は、私に鋭く目を向けた。
「三年後には、益州を奪っていることとします。荊州と益州が父上の領土となっております。益州は戦乱で荒廃していると考えられますから、二年ほど民を慰め、富国強兵に努めます。魏と戦うのは、おおよそ五年後となりましょう」
「五年か、遠いな」
「五年間、荊州を安らかに治めれば、かなりの兵力と兵糧を蓄えることができます。父上と諸葛亮殿、関羽殿の徳と力で堅実に守り、呉とのよしみを深めておいてください」
「おまえはどうするのだ」
「龐統殿、張飛殿、趙雲殿、魏延殿と協力して、益州で力を蓄えます」
「すると、益州の主はおまえということか」
父がぎろりと私を睨んだ。
「私は父上の代理人です」
諸葛亮と龐統は黙って、父と私の睨み合いを見ていた。私は目に気迫を込めた。
「まあよい。それで、その先はどうする」
「荊州軍、益州軍、呉軍がときを揃えて北伐を行います。荊州軍が洛陽を落とし、益州軍が長安を占領し、呉軍が許昌に至れば、魏は転覆したも同然です。これが私の魏滅の戦略です」
「うーむ、机上の空論のように思えるがのぉ」
「その空論に思えるような奇跡を成し遂げなければ、私たちは魏に勝てないのです」
私は力を込めて言葉を紡いだ。
父はふっと笑った。
「してその先は」
「劉家と孫家の死闘の時代に入るでしょう。しかし、そのときには、ここにいる四人全員が死んでいるかもしれません。とにかく、私たちは魏を倒すことに全力を尽くせばよいと考えます。そして、漢の帝室を再興させるのです」
漢の帝室の再興とは、建前だ。
本音は、劉備王朝の創建が目的。そのことは明言しなくても、この場にいる全員がわかっているであろう。
「わっはははは」と劉備が大笑いをした。
諸葛亮は微笑んで羽毛扇を振り、龐統は不敵に笑った。
「若君は五歳とは思えませんな」と龐統が言った。
私には六十五年に渡る前世がある。精神年齢は七十歳である。
「よし劉禅よ、益州へ行け」と父が叫んだ。
「はい」
魏滅の戦略を持ち、私はこれから行動する。
洛陽、長安、許昌の同時攻略など達成困難であるということくらいわかっている。
しかし、その難事に向かって動かなければ、強大な魏を揺るがすことはできない。
父は甘夫人を亡くした後、孫権の妹と婚姻を結んでいた。
劉家と孫家は、同盟の証として、政略結婚をしたのである。
劉備の新妻は、孫夫人と呼ばれた。このふたりの仲が、あまりよくなかった。
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私は船室の荷箱の中に閉じ込められていた。
張飛が孫夫人の船を停止させ、趙雲が船内を捜索した。
趙雲が荷箱を開けてくれたとき、私は「子龍……」とつぶやいて、泣いて感謝した。
張飛と趙雲のすばやい追尾によって、私は呉へ連れ去られるのをまぬがれたのである。
ふたりには、長坂の戦いにつづいて、二度も命を助けられたことになる。
呉との同盟を維持するため、孫夫人をとがめることはできず、彼女はそのまま呉へ帰った。
さて、父は益州への行軍の準備をしている。龐統と黄忠を連れて出発されてしまうと、劉備軍は龐統を失うことになる。私はそれを阻止したい。
「父上、相談があります」と私は父に向かって言った。
「なんじゃ、言ってみよ」
「魏を滅ぼす戦略を語りたいのです。父上、諸葛亮殿、龐統殿と四人でお話をさせてください」
「魏を滅ぼすじゃと。いまは益州へ行こうとしているところだというのに。大法螺を吹くものではないぞ」
「益州を奪う前に、私たちの進むべき方向性を決めておく必要があると思うのです。ぜひとも四人で内密に話をさせてください」
私は五歳という幼さだが、極めて真剣だった。
父はただならなさを感じて、私の願いを聞き、公安城内で四人だけの会議を開いてくれた。
「なにごとでしょうか」と諸葛亮は問い、「若君と話せるのはうれしいです」と龐統は言った。
私はゆったりと椅子に腰掛けていた。
「天下の大事です」と話し始めた。
「これから父上は、益州を獲ろうとされています。それは達成されるでしょうが、私たちの軍の主力は荊州から益州に移ることになります。当然、荊州に隙ができます。将来、荊州は魏か呉に奪われてしまうでしょう」
「荊州に隙なんかできんわい。わしは孔明、関羽、張飛を公安に置いておくつもりじゃ。わしと龐統、黄忠で益州に向かう」
「父上、成都は簡単には陥落しません。必ず、諸葛亮殿に援軍を頼むことになるでしょう」
「馬鹿な。益州は脆い。容易に落とせる」
「簡単ではないかもしれませんが、この龐統が主を輔弼し、益州軍を撃破してみせます」
父は見通しが甘く、龐統は気負っていた。
「龐統殿、万が一、父が諸葛亮殿を頼る事態が来たとき、あなたは冷静でいられますか」
諸葛亮と龐統が顔を見合わせた。このふたりは劉備の第一の軍師はどちらかを競う関係にあり、仲がよいとは言いがたかった。
「む、そのようなことがないように努めるまでです」と龐統は不機嫌そうに言った。
「龐統殿、あなたらしくないではありませんか。軍師たるもの、最悪の想定もしておくべきではないですか」
龐統は黙った。私はつづけて言った。
「荊州をおろそかにしてはなりません。この遠征、父上は出るべきではないと思うのです」
「なにを言う。劉璋殿はわしを頼っておるのじゃ。わしが行かずしてどうするか」
「劉璋様は漢中の張魯を討ってほしいのです。父上が出陣なさらずとも、張魯を討つことができれば、あの方は満足するでしょう」
「若君、主は漢中へは行きません。狙いは成都です」と諸葛亮が言った。
「益州攻略は簡単ではないのみならず、その維持は奪取以上の難事です。いきなり成都を落としても、益州の民は父上に服しないと考えます。それよりも、劉璋様の要請どおり、まずは漢中郡を獲るのが上策です。それだけなら、荊州の全力を注がなくとも、可能でありましょう」
諸葛亮と龐統が、はたと膝を打った。
「漢中郡を獲り、そのまま居座り、その民を慰撫します。やがて機を見て、荊州と漢中から出陣して益州を挟撃し、劉璋様を降伏させるのが、もっとも手堅い作戦であると思っております」
漢中郡は益州の北部にある。そこを獲れば、成都を南北から挟み撃ちにできるのである。
父がうなずいた。
「わかった。しかし、わしが漢中へ行けばよいのではないか」
「父上には要石のごとく、荊州にいてほしいのです。私を益州へ派遣してください」
「なんだと。幼いおまえを行かせたら、劉璋殿は、わしの正気を疑うであろう」
「初めはそうであると思いますが、会って話をすれば、劉璋様は私が父上の代理として十分な能力を持っているとわかってくださる筈です」
「ふむう、どうかのぉ」
「父上、私を行かせてください。龐統殿を軍師として、張飛殿、趙雲殿、魏延殿を将軍として、私にお貸しくださるようお願い申し上げます」
私は、劉備と諸葛亮と関羽がいれば、荊州は保全できると考えていた。また、私の下に龐統、張飛、趙雲、魏延がいれば、漢中郡や益州を獲れるだけでなく、将来の魏との戦いも優勢にやれるのではないかと期待していた。彼らが欲しかった。
父は腕組みをした。
「よろしいのではないですか」
諸葛亮が穏やかに微笑んだ。
「話はここからが本番です。魏を滅ぼす戦略を語らせてください」
三人は、私に鋭く目を向けた。
「三年後には、益州を奪っていることとします。荊州と益州が父上の領土となっております。益州は戦乱で荒廃していると考えられますから、二年ほど民を慰め、富国強兵に努めます。魏と戦うのは、おおよそ五年後となりましょう」
「五年か、遠いな」
「五年間、荊州を安らかに治めれば、かなりの兵力と兵糧を蓄えることができます。父上と諸葛亮殿、関羽殿の徳と力で堅実に守り、呉とのよしみを深めておいてください」
「おまえはどうするのだ」
「龐統殿、張飛殿、趙雲殿、魏延殿と協力して、益州で力を蓄えます」
「すると、益州の主はおまえということか」
父がぎろりと私を睨んだ。
「私は父上の代理人です」
諸葛亮と龐統は黙って、父と私の睨み合いを見ていた。私は目に気迫を込めた。
「まあよい。それで、その先はどうする」
「荊州軍、益州軍、呉軍がときを揃えて北伐を行います。荊州軍が洛陽を落とし、益州軍が長安を占領し、呉軍が許昌に至れば、魏は転覆したも同然です。これが私の魏滅の戦略です」
「うーむ、机上の空論のように思えるがのぉ」
「その空論に思えるような奇跡を成し遂げなければ、私たちは魏に勝てないのです」
私は力を込めて言葉を紡いだ。
父はふっと笑った。
「してその先は」
「劉家と孫家の死闘の時代に入るでしょう。しかし、そのときには、ここにいる四人全員が死んでいるかもしれません。とにかく、私たちは魏を倒すことに全力を尽くせばよいと考えます。そして、漢の帝室を再興させるのです」
漢の帝室の再興とは、建前だ。
本音は、劉備王朝の創建が目的。そのことは明言しなくても、この場にいる全員がわかっているであろう。
「わっはははは」と劉備が大笑いをした。
諸葛亮は微笑んで羽毛扇を振り、龐統は不敵に笑った。
「若君は五歳とは思えませんな」と龐統が言った。
私には六十五年に渡る前世がある。精神年齢は七十歳である。
「よし劉禅よ、益州へ行け」と父が叫んだ。
「はい」
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