『魔導書』に転生した俺と、君との日々。

風城国子智

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第四章 帝都の日々

4.2 黒竜騎士団の厨房

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 部屋を出て、長い廊下を慎重に進むサシャを見上げ、小さく頷く。

 現在、サシャが寄宿しているのは、八都はちとを統べる『神帝じんてい』の街、『帝都ていと』にある黒竜こくりゅう騎士団の館。夏炉かろの砦における籠城戦の末、狂信者の長デルフィーノによって危うく燃やされかけたサシャとトールは、神帝猊下より狂信者達を殲滅する命を受けていた黒竜騎士団の長ヴィリバルトによって救われ、この館に運び込まれた。そして、そのヴィリバルトの厚意により、サシャは今、黒竜騎士団の手伝いをしながら帝都の学校に通っている。『変』な人だという評価は変わらないが、ヴィリバルトには感謝してもしきれない。静寂に満ちた殺風景な廊下に、トールは大きく息を吐いた。帝都の南東を守る城壁に沿って建てられているからだろう、この石造りの建物の廊下は、不自然だと思ってしまうほど、長い。

 サシャの胸の鼓動を確かめたトールの幻の鼻が、僅かに漂うお腹が空く匂いを捉える。その匂いにトールが無意識に頷く前に、トールの視界は不意に明るくなった。

「おはよう、サシャ」

 濃くなった水蒸気の向こうから響く声に、顔を上げる。

「今日はグスタフ教授の授業日なのか?」

「はい」

 サシャに向かって笑顔を向けた、サシャより少しだけ年上に見える少年に、トールも小さく頭を下げた。彼の名は、エルチェ。黒竜騎士団の見習いだと聞いている。

「また、パンを焼かせてもらったんだ」

 サシャが腰を落ち着かせた、厨房の隅にある背の高いテーブルの上に、エルチェが持ってきた大きめの椀と小さなパンが置かれる。木製の椀の中にあるのは、とろりとした半透明の液体。黒竜騎士団の厨房の炉にずっと下げてある大きな釜で煮込まれた野菜スープだと教えてくれたのは、エルチェ。

「感想、聞かせてくれ」

「上手く焼けてると良いな」

 サシャを見て笑うエルチェの向こうから、厨房専門の騎士の揶揄を含んだ声が響く。美味しくなくても「美味しい」と言ってしまうのがサシャなのだが。椀の中の野菜スープを半分飲み、サシャの小さな手に余るエルチェ謹製のパンを手にしたサシャを、トールははらはらしながら見守った。

「美味しい」

 小さくちぎったパンを口に入れたサシャの唇の綻びと、ふっくらと焼けているように見えるパンの断面を同時に確かめる。

「お世辞は言うなよ」

 懐疑が漂う視線でサシャを見下ろしたエルチェの瞳を、トールはサシャのエプロンのポケットの中から見返した。サシャの表情を見れば、正直に『美味しい』と思っていることは自明の理。それを、疑うなんて。トールがむっと唇を横に引き結ぶ前に、エルチェの口の端は不意に上がった。

「良かった」

 実は、焼き上がりに自信が無かった。小さくなったエルチェの声に笑って頷いたサシャに、トールの唇も綻ぶ。厨房の炉の前に戻るエルチェの背を見守ってから、サシャは椀の中のスープを飲み干し、少しだけ残った椀のスープに残りのパンを浸して口に入れた。

「今日がグスタフ教授の授業の日なら、明日は洗濯の日か」

 サシャがパンを咀嚼する音を聞いていたトールの耳に、厨房を仕切る騎士の声が響く。

「……面倒」

 すぐに響いたエルチェの唸り声に、トールは肩を竦めた。

 黒竜騎士団におけるサシャの仕事は、騎士達が作成する報告書の清書と、休みの日の掃除と洗濯。北辺ほくへんでジルドに扱き使われていた頃に比べれば負担は格段に減っているが、それでも、洗濯は一日仕事。北都ほくとでトールがサシャに教え、サシャの叔父ユーグの手を経て作成された、平らな木板の表面をギザギザにした洗濯板は、ユーグが送ってくれたサシャの荷物の中に入っていたが、洗濯板では脱水はできない。洗濯日の度に全身の血の気が無くなるほど疲労してしまうサシャの伏せた瞳を思い出し、トールは首を横に振った。

 ワインやオリーブオイルはあるのだから、それを作る際に使う『絞り器』を応用すれば、脱水装置を作ることができるかもしれない。厨房奥の戸棚に並ぶ壺の多様な形に、大きく頷く。今は学校に慣れることが最優先だが、落ち着いたら、サシャに脱水装置のことを提案してみよう。空になった椀をエルチェに渡したサシャの赤い頬に、トールはもう一度頷いた。

「弁当も、忘れるなよ」

 そのトールの前に、少し大きめの布包みが現れる。

「いつものパンとチーズに、今日は干葡萄を少し入れといた」

「あ、ありがとう」

 エルチェが差し出した昼食用の布包みを、サシャは大切そうに肩掛け鞄の中に収めた。

「夜はパイを焼くぜ」

「上手く焼けると良いな」

 エルチェに頭を下げたサシャが踵を返すと、エルチェの姿は見えなくなる。そのエルチェと、エルチェを揶揄する厨房専門騎士の声に、トールの幻の唇は無意識に上がっていた。
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