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第9章 退職
4.ふたりだけの送別会
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4.ふたりだけの送別会
あっという間に半月は過ぎ、――退職の日が、やってきた。
「半年と短い間でしたが、お世話になりました」
起きるまばらな拍手に苦笑いしかできない。
ここにはじめてきた日も同じだった。
不安で不安でしょうがない私に、声をかけてくれたのは、池松さんだった。
あれからいろいろあったけれど、今日で全部おしまい。
「羽坂」
荷物ともらった花束を抱えてエレベーターを待っていたら、池松さんが並んで横に立つ。
「今日、これから予定はあるのか」
「ない、ですけど……」
「なら、送別会をしないか。
……ふたりで」
池松さんはエレベーターの扉を見つめたまま、私の方を見ない。
これはいったい、どういうことなんだろう。
「どうだ?」
「そう、ですね。
……なら」
きっと、もう二度とこの人に会うことはない。
だったら最後にもう少しだけ、想い出を作らせてもらってもいいよね?
「よし、決まりだ」
チン、エレベーターが到着して扉が開く。
私の荷物を取って池松さんはエレベーターへ乗り込んだ。
池松さんが私を連れてきてくれたのは、いつか大河も一緒に連れてきてくれた焼き肉店だった。
「あの……いいんですか、ここ」
「羽坂の送別会だからな。
かまわない」
おしぼりで手を拭きながら池松さんはにかっと悪戯っぽく笑った。
「まずは。
いままでありがとう。
お疲れ様」
「ありがとうございます」
カツン、軽くジョッキをあわせて乾杯する。
ごくごくと一気にビールを飲む池松さんを、ぼーっと見ていた。
「どうした?
飲まないのか?」
「そう、ですね」
私もジョッキに口をつける。
すきっ腹にビールが染みて、悪酔いしそうだった。
「とりあえず食おう。
な」
「はい」
どんどん、お肉を焼き網の上へ池松さんはのせていく。
「次の仕事は決まったのか」
「まだです」
視線は焼き網の上、彼は私と目をあわさない。
私も焼き網の上のお肉を見ていた。
「当てはあるのか」
「そう、ですね……」
当てなどない。
早津さんは自己都合の退職とはいえ事情はわかっているので、できるだけ尽力すると入ってくれた。
けれどそうそう簡単に見つかるはずもない。
「ないなら俺に、紹介させてくれないか」
「え?」
思わず、顔を上げる。
レンズの向こうから池松さんがじっと私を見ていた。
「羽坂が辞めるのはその、……俺のせい、だろ。
だったら次の勤め先、紹介させてほしい」
池松さんは私から視線を逸らさない。
ジュージューと肉の焼ける音だけがふたりの間に響く。
「……池松さんのせいではない、ので。
それにそうだったとしても、池松さんが責任を感じる必要はないので」
つい、目を伏せて視線を逸らしてしまう。
焼き網の上では肉が炭に変わっていく。
「俺は。
……羽坂とこのまま、終わるのは嫌だ」
伸びてきた手が、私の手を掴む。
顔を上げたら真っ直ぐな視線とぶつかった。
「なに、を……」
「まだこのまま、羽坂と繋がっていたい」
「意味が……意味が、わかりません」
手を振り払えばいい、わかっているのにできない。
自分の意思とは関係なく、のどがごくりと唾を飲み込んだ。
「俺は……羽坂を、手放したくない」
肉はとうとう、食べられないほどに真っ黒に焦げてしまった。
池松さんの手が、逃げられないように指を絡めてくる。
じっと見つめるその視線は私を絡め取り、コンマ一ミリも逸らせなかった。
「わがままを言っているのはわかってる。
でも俺はまだ、完全に羽坂との関係を終わらせたくない。
終わらせたく、ないんだ」
池松さんがなにを言っているのか理解できない。
手放したくないだとか、終わらせたくないだとか。
だって、池松さんは世理さんを愛しているから、私の想いには応えられない、って。
「わけがわからないよな。
俺だって、わかららん」
ふっ、泣き出しそうに眼鏡の奥の目を歪め、池松さんは私の手を離した。
そのまま、ジョッキに残っていたビールをごくごくと一気に飲み干す。
「ただ、……このままもう、羽坂と会えないのは嫌だと思ったんだ」
ぼそっと呟いて焼き網の上へ箸を延ばす。
けれどすべて炭に変わっていると気づいて、苦々しそうに眉をひそめた。
「でも羽坂は、もう俺になんか会いたくないよな。
なら、仕方ない」
ぽいぽいと炭になってしまった肉を皿の上に上げ、新しい肉を焼き網の上に池松さんはのせた。
「……それ、は」
「うん?」
「私に少しでも、可能性があると思っていいんですか……?」
「そう、だな。
……離婚届は出したし」
目を伏せて私から視線を逸らし、池松さんは肉をひっくり返した。
「私は、池松さんを諦めなくていいんですか……?」
「そう、だな」
池松さんはじっと、焼ける肉を見つめている。
私もじっと、それを見つめた。
「俺は……」
そこで言葉は途切れ、池松さんはそれっきり黙ってしまった。
また、ジュージューと肉の焼ける音だけがふたりの間に響く。
ただ、さっきと違うのは、今度は肉が焦げないように池松さんはこまめにひっくり返していた。
「……たぶんだいぶ前から、羽坂が好きなんだと思う」
「え?」
「ほら焼けたぞ、食え!」
私に聞き返されないようにか、焼けたお肉をお皿に入れてくる。
気になりながらも、それを口に運んだ。
「……でも、離婚が成立したからなんて割り切れないし」
「……」
もそもそとお肉を食べながら、池松さんはぼそぼそと話している。
「……しかも離婚を言いだしたのは世理だし」
「……」
これは、池松さんも私を想ってくれているということでいいんだろうか……?
けれど、いままでのことからまだ気持ちの整理がつかないだけで。
「……きっと、羽坂を待たせると思う。
それでいいなら、……待っていて、ほしい」
池松さんの姿が滲んでいく。
これは煙が目に染みるから?
なんだか胸がいっぱいで箸を置いた。
「羽坂?」
「なんでもない、です。
……あ、ジョッキ、もう空ですよね?
なに飲みますか?
ビールでいいですか」
慌てて鼻を啜り、笑って誤魔化す。
「そうだな」
眼鏡の下で、眩しそうに目が細められた。
タクシーで家まで、池松さんは送ってくれた。
「近いうちに連絡するから」
「はい、よろしくお願いします」
再就職先は、池松さんに紹介してもらうことにした。
私は――池松さんを待つと決めたから。
「羽坂」
ちょいちょいと池松さんが手招きする。
顔を寄せると、……ちゅっと一瞬だけ、唇が触れた。
「おやすみ」
「……おやすみな、さい」
ぼーっとタクシーを見送る。
見えなくなってようやく我に返った。
……池松さんが、キス、してくれた。
奥さんの代わりでないその口付けは酷く甘くて。
きっとこれから、明るい未来が待っていると私に確信させた。
あっという間に半月は過ぎ、――退職の日が、やってきた。
「半年と短い間でしたが、お世話になりました」
起きるまばらな拍手に苦笑いしかできない。
ここにはじめてきた日も同じだった。
不安で不安でしょうがない私に、声をかけてくれたのは、池松さんだった。
あれからいろいろあったけれど、今日で全部おしまい。
「羽坂」
荷物ともらった花束を抱えてエレベーターを待っていたら、池松さんが並んで横に立つ。
「今日、これから予定はあるのか」
「ない、ですけど……」
「なら、送別会をしないか。
……ふたりで」
池松さんはエレベーターの扉を見つめたまま、私の方を見ない。
これはいったい、どういうことなんだろう。
「どうだ?」
「そう、ですね。
……なら」
きっと、もう二度とこの人に会うことはない。
だったら最後にもう少しだけ、想い出を作らせてもらってもいいよね?
「よし、決まりだ」
チン、エレベーターが到着して扉が開く。
私の荷物を取って池松さんはエレベーターへ乗り込んだ。
池松さんが私を連れてきてくれたのは、いつか大河も一緒に連れてきてくれた焼き肉店だった。
「あの……いいんですか、ここ」
「羽坂の送別会だからな。
かまわない」
おしぼりで手を拭きながら池松さんはにかっと悪戯っぽく笑った。
「まずは。
いままでありがとう。
お疲れ様」
「ありがとうございます」
カツン、軽くジョッキをあわせて乾杯する。
ごくごくと一気にビールを飲む池松さんを、ぼーっと見ていた。
「どうした?
飲まないのか?」
「そう、ですね」
私もジョッキに口をつける。
すきっ腹にビールが染みて、悪酔いしそうだった。
「とりあえず食おう。
な」
「はい」
どんどん、お肉を焼き網の上へ池松さんはのせていく。
「次の仕事は決まったのか」
「まだです」
視線は焼き網の上、彼は私と目をあわさない。
私も焼き網の上のお肉を見ていた。
「当てはあるのか」
「そう、ですね……」
当てなどない。
早津さんは自己都合の退職とはいえ事情はわかっているので、できるだけ尽力すると入ってくれた。
けれどそうそう簡単に見つかるはずもない。
「ないなら俺に、紹介させてくれないか」
「え?」
思わず、顔を上げる。
レンズの向こうから池松さんがじっと私を見ていた。
「羽坂が辞めるのはその、……俺のせい、だろ。
だったら次の勤め先、紹介させてほしい」
池松さんは私から視線を逸らさない。
ジュージューと肉の焼ける音だけがふたりの間に響く。
「……池松さんのせいではない、ので。
それにそうだったとしても、池松さんが責任を感じる必要はないので」
つい、目を伏せて視線を逸らしてしまう。
焼き網の上では肉が炭に変わっていく。
「俺は。
……羽坂とこのまま、終わるのは嫌だ」
伸びてきた手が、私の手を掴む。
顔を上げたら真っ直ぐな視線とぶつかった。
「なに、を……」
「まだこのまま、羽坂と繋がっていたい」
「意味が……意味が、わかりません」
手を振り払えばいい、わかっているのにできない。
自分の意思とは関係なく、のどがごくりと唾を飲み込んだ。
「俺は……羽坂を、手放したくない」
肉はとうとう、食べられないほどに真っ黒に焦げてしまった。
池松さんの手が、逃げられないように指を絡めてくる。
じっと見つめるその視線は私を絡め取り、コンマ一ミリも逸らせなかった。
「わがままを言っているのはわかってる。
でも俺はまだ、完全に羽坂との関係を終わらせたくない。
終わらせたく、ないんだ」
池松さんがなにを言っているのか理解できない。
手放したくないだとか、終わらせたくないだとか。
だって、池松さんは世理さんを愛しているから、私の想いには応えられない、って。
「わけがわからないよな。
俺だって、わかららん」
ふっ、泣き出しそうに眼鏡の奥の目を歪め、池松さんは私の手を離した。
そのまま、ジョッキに残っていたビールをごくごくと一気に飲み干す。
「ただ、……このままもう、羽坂と会えないのは嫌だと思ったんだ」
ぼそっと呟いて焼き網の上へ箸を延ばす。
けれどすべて炭に変わっていると気づいて、苦々しそうに眉をひそめた。
「でも羽坂は、もう俺になんか会いたくないよな。
なら、仕方ない」
ぽいぽいと炭になってしまった肉を皿の上に上げ、新しい肉を焼き網の上に池松さんはのせた。
「……それ、は」
「うん?」
「私に少しでも、可能性があると思っていいんですか……?」
「そう、だな。
……離婚届は出したし」
目を伏せて私から視線を逸らし、池松さんは肉をひっくり返した。
「私は、池松さんを諦めなくていいんですか……?」
「そう、だな」
池松さんはじっと、焼ける肉を見つめている。
私もじっと、それを見つめた。
「俺は……」
そこで言葉は途切れ、池松さんはそれっきり黙ってしまった。
また、ジュージューと肉の焼ける音だけがふたりの間に響く。
ただ、さっきと違うのは、今度は肉が焦げないように池松さんはこまめにひっくり返していた。
「……たぶんだいぶ前から、羽坂が好きなんだと思う」
「え?」
「ほら焼けたぞ、食え!」
私に聞き返されないようにか、焼けたお肉をお皿に入れてくる。
気になりながらも、それを口に運んだ。
「……でも、離婚が成立したからなんて割り切れないし」
「……」
もそもそとお肉を食べながら、池松さんはぼそぼそと話している。
「……しかも離婚を言いだしたのは世理だし」
「……」
これは、池松さんも私を想ってくれているということでいいんだろうか……?
けれど、いままでのことからまだ気持ちの整理がつかないだけで。
「……きっと、羽坂を待たせると思う。
それでいいなら、……待っていて、ほしい」
池松さんの姿が滲んでいく。
これは煙が目に染みるから?
なんだか胸がいっぱいで箸を置いた。
「羽坂?」
「なんでもない、です。
……あ、ジョッキ、もう空ですよね?
なに飲みますか?
ビールでいいですか」
慌てて鼻を啜り、笑って誤魔化す。
「そうだな」
眼鏡の下で、眩しそうに目が細められた。
タクシーで家まで、池松さんは送ってくれた。
「近いうちに連絡するから」
「はい、よろしくお願いします」
再就職先は、池松さんに紹介してもらうことにした。
私は――池松さんを待つと決めたから。
「羽坂」
ちょいちょいと池松さんが手招きする。
顔を寄せると、……ちゅっと一瞬だけ、唇が触れた。
「おやすみ」
「……おやすみな、さい」
ぼーっとタクシーを見送る。
見えなくなってようやく我に返った。
……池松さんが、キス、してくれた。
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きっとこれから、明るい未来が待っていると私に確信させた。
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