清貧秘書はガラスの靴をぶん投げる

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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第三章 ノブレス・オブリージュ

3-3

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「清子さんのご両親はどういう方なんですか?」

興奮を収めるようにお茶を飲んでいるお母さんの隣で、お父さんが穏やかに聞いてくる。
一般家庭でも気にするところだし、相手がセレブとなると家族のことは大きな問題になるというのは想定していた。

「実母は私が五歳のときに事故で他界しました」

「まあ……!」

両手で口もとを押さえた、お母さんの目がみるみる潤んでいく。

「それはご苦労なさったのね」

「していないといえば嘘になります。
父は海外を飛び回っていましたので、九つのときに父が再婚するまでは施設で育ちましたし」

これだと父の職業は外交官か海外出張の多いビジネスマンに誤解されそうだが、嘘は言っていない。
父はだいたい、海外をふらついている。

「まあ、まあ……!」

お母さんはとうとう、ハンカチで目もとを拭いだした。

「お父さまは今、どちらに?」

……きた。
心の中でごくりと唾を飲む。

「父は……」

そこで言葉を途切れさせ、言いにくそうに目を伏せる。

「母さん。
清子の父親については聞かないでやってください。
まだ、思い出すのもつらいんです」

「まあ……」

彪夏さんのフォローでとうとうお母さんははらはらと涙をこぼしだした。
彼らは勝手に誤解しているだけだが、それでも騙しているようで心は痛む。
私の都合で亡き者にされた父は今頃、地球の裏側あたりでくしゃみでもしているだろうか。

「それは本当にご苦労なさったのね。
彪夏さん、清子さんを絶対に幸せにしてあげなきゃダメよ?」

「はい、絶対に幸せにします」

お母さんどころかお父さんまで涙を拭っていて感動的な場面ではあるが、私は当事者であるにもかかわらずテレビドラマでも見ているかのような気分だった。

夕食までごちそうになり、御子神邸をあとにする。
ご両親は困ったことがあればなんでも頼りなさいとまで言ってくれて、さらに心が痛む。
――それでも。

「この時間だと肉屋、閉まってますね」

わざとそんなことを言い、憂鬱な気分を振り払う。

「そうだな。
明日、どこかで肉屋に寄ろう。
それくらい時間取れるだろ?」

「はい、それで調整します。
それはいいんですが、これはどちらに向かわれているんですか?」

このルートはどう考えても私のアパートよりも、彪夏さんのレジデンスに向かっている。

「今日から俺の家で暮らせ」

「は?」

さらりと決定事項のように言われたが、懸念していた事態だけに頭が痛い。

「いろいろ困るんですけど、いろいろ。
それに私とあなたは嘘の婚約なので、同居なんて嫌なんですが」

家族から離れるのは困るし、それに好きでもない相手と一緒の家に住むなんて嫌だ。
別室ならまだしも、昨夜の様子からして一緒のベッドの可能性が高いし。
狼の巣に自ら飛び込むバカがどこにいる?

「清子のあの部屋、セキュリティがないに等しいから心配なんだ」

「鍵ならちゃんとかけているから大丈夫ですが?」

ひとり暮らしを始めてから弟たち、特に巧に口酸っぱくしっかり施錠しろと言われているので、注意していた。
なのに。

「はぁっ」

呆れたようにため息を落とされ、カチンときた。
さらになにか言おうとするより早く、彪夏さんが口を開く。

「悪いけど俺ならあの鍵、五分とかからず開けられるぞ」

「え?」

いくらなんでもそんなはずは……。

「でもチェーン、かけてますし」

「チェーンは訪問販売でドアを開けて入られないようにするものであって、それ以外では防犯能力は薄い。
あれならそれ用のカッターで切断して一発だな」

もしかしてあの鍵は、かけていてもかけていないのと同じ?
さらに私の不安を煽るように彼が続ける。

「しかも一階だろ?
裏は街灯も少ない通りだし、ガラスを破って容易に侵入できる」

「嘘……」

もしかして今までなにもなかったのはただの偶然?
急に恐怖が身体を襲ってきた。

「だから俺の家に引っ越せ。
清子だけじゃない、家族もだ。
同じレジデンスで空いている部屋があるから、すぐに手配する」

私の部屋がそういう状態ならば、ほとんど同じ建築の実家だって同様だろう。
健太も巧も高校生になったとはいえ、まだまだ大人の男には敵わない。
望と美妃だって小さい。
貧乏な我が家に盗みに入るような間抜けはいないと思うが、それでも女子供だけでは油断はできなかった。
なので、彪夏さんの申し出は嬉しいけれど。

「家族までお気遣いいただき、ありがとうございます。
でも、引っ越しはできないです」

「なんでだ?」

断られたのが意外だったのか、彼は少し不満そうだ。

「……彪夏さんと別れたあと、困るので」

あんな高級レジデンスの部屋を、私たちでは維持できない。
それに別れあとにまた安アパートを探すにしても、引っ越し費用をまかなえるとも思えなかった。

「俺は」

そこまで言って彪夏さんが止まる。
続く言葉を待ったけれど、なかなか出てこない。
沈黙に居心地の悪さを感じ、なにか言おうと口を開いた瞬間。

「……別れたあとも清子たちが楽に暮らしていけるだけの金は渡す。
まあ、報酬みたいなもんだ」

後半は軽く冗談のように言われたけれど、どこか苦しそうだったのはなんでだろうか。

「お言葉は嬉しいですが、そこまでしていただくわけにはいきません」

彼の両親に会う報酬が黒毛和牛五キロは、まあ妥当なところだ。
しかし婚約者のフリの報酬が家族がこの先も楽に暮らしていけるだけのお金とはいきすぎている。
そんな多額のお金、受け取れない。

「遠慮しているのか?
清子の家族はもう俺の家族だと言っただろ。
家族のためなら俺はなんだってする」

「どうして彪夏さんは、私にそこまでしようとするんですか?
私は偽物の婚約者ですよ?
この関係が終われば、ただの秘書と社長に戻ります。
そんな女にこんなにお金を使おうとするなんてなにを考えているんですか」

私が彪夏さんの本物の婚約者ならば、心苦しく思いながらもありがたく支援を受ける。
しかし私と彼は仮初めの関係なのだ。
なのに彼がここまでしてくれる理由がわからない。

「それは……」

言い淀んで少し止まったと、彪夏さんはなにかを思いついたかのように少しだけ顔を上げた。

「持てるものが持たないものに施しを行うは当たり前だからだ。
ノブレス・オブリージュだ」

「はぁ……」

暗に我が家はド貧乏だとバカにされた気がするが……事実だからなにも言えない。

「それでも。
レジデンスに引っ越しだとか、別れたあとも十分に暮らしていけるだけのお金だとはいきすぎていると思います。
何事もほどほどでいいんです、ほどほどで」

「そうか?」

「はい」

彪夏さんは不思議そうだが、まさかここまでとは。
彪夏さん付きになってからなにかと、経済観念がズレているなとは思っていた。
相手は大会社の御曹司で自分の社長、こちらは庶民とはいえド貧乏。
ズレているのは当たり前だとわかっていたが、これほどまでにズレているとは思わない。

「でもあの部屋は危険だから、絶対に引っ越ししたほうがいい」

彪夏さんの話を聞いて、私もあの部屋の危険性は理解した。
しかし、おいそれと引っ越しするわけにはいかないのだ。

「引っ越し以外の方法でお願いします。
とりあえず補助鍵を取り付けますし、それで妥協しませんか」

その出費は痛いが、なにかあったときを考えれば安くつく。

「そうだなー、早急にホームセキュリティの契約をしよう。
それくらいならいいだろ?」

「そうですね……」

それならこの関係が終わったあと、解約すればいいだけだし、いいか。

「はい、それならいいです」

「よし、決まりだな。
でも契約するまで清子は俺んちな」

「えー」

つい不満の声が出たが、これくらいは妥協してもいいか。
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