【架空戦記】蒲生の忠

糸冬

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(十五)秀吉の苦悩

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 六月十一日。
「官兵衛よ、儂ぁ、後手に回ったかのう」

 播磨国姫路城の本丸櫓の板間にどかりと腰をおとした羽柴秀吉が、傍らで膝を伸ばして座り込んでいる黒田官兵衛孝高に問うた。

 いつもの陽気な秀吉の大音声も、此度ばかりはどこか空しげに響く。

「恐れながら、ご賢察の通りかと」

「ふん、こんなことで褒められても嬉しゅうはないわ」

 秀吉は官兵衛のつれない言葉を聞き、苦笑混じりに鼻を鳴らす。

「それにしても、どこかで明確にしくじったとも思えんが」
 柄にもない愚痴であるが、紛れもない秀吉の本音である。

 実際、変事以来の流れはやむを得ない面が多いと考えざるを得なかった。

 まず、光秀が放った密使が六月三日の夕刻に毛利陣営に無事に駆け込んだ事により、信長父子が討たれた事実が秀吉より先に毛利勢に知られてしまったことが、齟齬のはじまりだった。

 領土割譲と備中高松城の城主・清水宗治の切腹で決着がつく寸前だったはずの交渉は、信長の死を前にして一挙に振り出しに戻った。

 後詰めが来ないことを見抜かれた秀吉は苦しい立場に追い込まれ、ほぼ現状の領土割をのみ、かつ宗治の助命をも認めざるを得なかった。

 しかも、腰の重い毛利方との折衝に日数を要した結果、明智勢の大坂進出を阻止できず、その間に出陣寸前だった堺の四国遠征軍は瓦解していた。

 元々、この軍勢は畿内各地からの寄せ集めに近かった。

 数こそ揃っていたが、ひとたび防戦を余儀なくされると踏ん張りがきかず、まともな戦さにすらならない有様だった。

 結果、逃亡した兵の少なくない数が、そのまま明智勢の戦力として組み込まれてしまった。

 河内国の国人衆に加え、さらには中国方面への援軍として加わるはずだった摂津国の茨木城主の中川清秀、高槻城主の高山重友らも、他に選ぶ道がないまま、明智勢に降る結果となってしまった。

 中川・高山の両人とも元々、光秀の組下である。明智方に回るのはやむを得ない面もないではない。

 が、軍勢さえ速やかに畿内に戻せさえすれば、大義と利を説いて彼らを味方につなぎとめられる自信が秀吉にはあった。

 それだけに、なんとも悔やみきれない事態と言えた。

 かろうじて尼崎城と伊丹城を抑えて明智勢との徹底抗戦を訴えている池田恒興が、西国において対明智の最前線に立つ格好になっている。

 信長の乳兄弟であり、君臣の間を超えた強い忠誠心を持つ池田恒興については、さすがに光秀も味方に引き入れる術はないものと思われた。

「毛利が約定を守り、撤兵にあたって追撃を受けずに済んだだけでも、ましと思わねばなりますまい」

 どこまで本気なのか、官兵衛が追従めいたことを言う。

 秀吉は不満げに唇をとがらせた。

「ふん。毛利は儂らを蹴散らしたところで得るものは少ないでな。無駄に兵を死なすことを嫌っただけだわ」

「兄者よぉ、文句ばっかり言っておっても始まらんわ。これよりどうするかが肝要でよ」
 すねたような秀吉の態度を見かねてか、秀吉の実弟・小一郎秀長が傍らの口を挟む。

 しばらくの間、じっと天井を睨んだ秀吉はやおら両鼻から大きく息を吐き出し、うなずいた。

「うむ、ともかく我らだけでは手勢が足りぬ。池田殿は無論のこと、大坂に押し込まれておる丹羽殿にも動いてもらわねばな」

 万が一にも違約した毛利に背後を衝かれては全滅の怖れすらあるため、備中高松城から陣を払うにあたって、秀吉は手勢の中から抑えの兵を割かざるを得なかった。

 備前国の宇喜多勢を味方につけ、先代・宇喜多直家の遺児である幼君・八郎を人質として手元に置いているとはいえ、戦況次第ではその向背は定かではなかった。

 なにしろ、先年亡くなった宇喜多直家は、その生涯において大きな戦さを一度しか経験せず、それ以外は全て謀略や暗殺によって敵を排除し続けたという極めつけの危険人物であった。

 そのような男の遺臣が相手となれば、人質をとった程度で心から信用するほうが間抜けであろう。

 結果、股肱の一人である前野長康が五千の兵を率い、事と次第よっては捨て駒になりかねない抑えの任に当たっている。

 味方を増やしている光秀に対抗するには、秀吉の指揮下にある戦力だけではただでさえ不足している。

 そのうえ、有力な味方と五千もの兵を割くのは痛かったが、背に腹は代えられなかった。

 しかし、対明智戦への出遅れと兵数の不足は、悪循環となって秀吉を苦しめる。

 まがりなりにも既に明智勢とやりあった戦功を残している丹羽長秀や池田恒興に対して、後塵を拝する秀吉が主導権を握れるか微妙なところだった。

「西国にて最も多くの兵数を動かせるのは我らです。うまく説いて、我らの味方につくような形にもっていかねばなりますまい」
 官兵衛が深刻な面持ちで説く。

「儂も、ただの増援として使われる立場におかれるつもりはねぇでよ、この後のふるまいが肝心だわ」

 秀吉は感情が高ぶったか、強い語気で言い放つ。既に、信長の死という衝撃からは立ち直っている。

 その姿を、秀長はどこか不安げに、対照的に官兵衛は頼もしげに見つめている。

 官兵衛は不自由な膝を板間に投げ出したまま、身体を傾けて秀吉ににじりよった。

「幸い、明智勢はこれ以上西に出てくる動きはみせておりませぬ。おそらく、いったん兵を京に戻し、安土攻めを行うのではないかと」

「安土か。蒲生の息子が、まだ踏ん張っておるらしいのう。今頃はどうなっておるか判らぬが」
 秀吉は顎を撫でた。

 蒲生賦秀の奮戦は、風の噂程度の者として姫路にも届いている。

 だが、さほど喜んでいる表情にはみえなかった。

 信長の死を知って号泣していた男とは思えぬほどの切り替えの早さ。
 悪く言えば薄情さとも言えた。

 もっとも、明智の勢力圏を挟んでさらに向こう側の出来事だけに、それ以上の確たることはなにも判らないのが実情だった。

 無論、秀吉も独自の諜報網は有しているが、さすがに先日まで対毛利に振り向けられていた調者の再配置がまだ完了していない。

 秀吉の居城である長浜城が、明智方についた京極勢に奪われたことはかろうじて掴んでいたが、未だ愛妻の寧々や母親をはじめ、一族の消息すら聞こえてこないのが実情だった。

「どっちにしろ、このままでは終わらんでよ」
 信長の仇を討つ。
 秀吉のその思いに嘘はない。

 だが、この機をさらなる己の立身に結びつける意欲もまた、並々ならぬものがあった。



 六月十三日。
 明智光秀の本隊が後巻きして秀満勢に合流し、さらに南下した柴田勝家との後詰め決戦になる、との賦秀の読みは意外な形で外れることになった。

「間違いないのだな? 湖西の街道に入ったのは柴田勢の物見のみ、などではないのじゃな」

 賦秀は困惑の体で、前田屋敷の広縁で自ら引見した甲賀忍びの団七に念を押した。

 団七に限って見誤った報告を寄越すはずがないと頭では判っているが、問い返さずにはいられない。

「わずかな番兵を残し、府中を発した柴田修理亮様の本隊はすでに杉津あたりに達しておるはずにござります。敦賀街道を下って大溝に向かうこと、まず間違いはございませぬ」

 庭で平伏したまま、押し殺した声で団七が応じる。

 府中から柴田勝家率いる軍勢が、栃木峠を越えて琵琶湖東岸を走る北国街道から東山道を経て安土へと至る道ではなく、敦賀を経て琵琶湖西岸の大溝に向かう進路を取っている。

 この報せはきわめて重要な意味を持っていた。

 団七の淡々とした態度は、己の報告が疑われていることに対する憤りもなく、意に沿わぬ報せをもたらしたことに対する恐れもない。何の感情も感じさせなかった。

 しばし無言でその報せの意味を考えていた賦秀は、ややあって大きく息をつくと、「ご苦労だった。下がってよい」と団七をねぎらった。

 その後、賦秀はただちに軍議をもよおし、家臣に団七がもたらした情報を伝えた。

 家臣達もまた、思いがけぬ知らせに呆然とした様子でみな無言である。

 しばしの沈黙が落ちた。

「そうか、大溝か」
 上座に座るは賦秀は宙を睨み、彼にしては珍しい意味のない呟きを漏らす。

 表情こそ平静をたもっていたが、それほどに内心に受けた衝撃は大きかった。

「なぜ、大溝に向かったのでしょう。柴田様の手勢にとって、山本山城の阿閉がそれほど脅威になるとも思えませぬが……」

 結解十郎兵衛が、賦秀の呟きを聞き、首をひねる。

「あるいは、長浜と佐和山が我が方の手に取り戻されていることを、柴田の親父殿は知らぬのではないか」
 困惑の体の賦秀は、思いつくままに可能性を口にした。

「だとしても、我らがここで明智勢の一手を押しとどめていることまで、知らぬとは考えにくいかと存じますぞ」
 即座に町野幸仍が首を横に振り、賦秀の指摘した可能性を否定する。

 町野幸仍は、合戦の采配にこそ口出しする機会は少ないが、賦秀が信長の人質として岐阜城へ送られる際にも付き従った股肱中の股肱であり、安易な物の見方を許さない芯の強さがある。

「……そうじゃな。お主の申す通り、確かめる術がない以上、全ては推量にすぎぬな」
 賦秀は素直に反省の弁を述べつつ、こちらの戦況を伝える使者を差し向けておくべきだったか、と後悔した。

 とはいえ、そもそも柴田勢の動きを団七配下の忍びがつかんだのもつい先日の話であり、そこから使者を出したところで間に合うはずがなかった。

「恐れながら、柴田様は我らの苦境を知った上で、あえて大溝に向かったのではありませぬか。ここ安土にて明智の一手が手こずり、身動きがとれぬ間に坂本城を抜き、一足飛びに京に討ち入れる策ではないかと」
 一方、横山喜内は、なおも勝家の思惑を推し量ろうと試みていた。

「我らを捨て石、いや見殺しにするというのか。何故だ。これ以上、いい加減な当て推量でものを申すな」

 賦秀が怒気をはらんだ声を放つ。
 かつて勝家の元で幾たびもの合戦に参加しただけに、この切所に見捨てられたなどとは考えたくなかった。

「お許しを。言葉がすぎました」
 横山喜内が恐縮して頭を下げる。

「……あるいは嫉妬って奴かも知れませんな、若旦那」
 賦秀の怒りを意に介する様子もなく、ロルテスが口を挟んだ。

「嫉妬、だと? なんの嫉妬だ」
 賦秀が聞きとがめて問う。

「そりゃあ、目下のところ、若旦那が明智相手に一番の武功を立てているからに決まってますぜ。この城の包囲を破っても若旦那の武名を高めるだけで、シバタさまは引き立て役にしかならない、そう考えてもおかしくありません」

 あけすけな言い回しだったが、不思議とこの異国人が口にすると賦秀は怒りを削がれる思いになる。

「馬鹿な、親父殿はそのような了見で兵を差配するような方ではないわ」
 薄く笑って首を振る賦秀の表情からは怒気が消えていた。

 はらはらしながらやりとりを見守っていた家臣達から、安堵の声が漏れる。

 ぴしゃりと両膝を叩いた賦秀が、配下の顔を見回した。その時点で、既に賦秀の顔からは困惑を伺わせるものは全て消えている。

「どうあれ、いまさら柴田の親父殿の手勢を呼び戻すことはかなわぬ。我らは我らのやれるべきことをやるまでのこと。坂本城の後詰めのために、明智秀満が兵を退くやも知れぬが、その折は追い打ちを掛けねばならん。敵の動きを見逃すでないぞ」

「はっ」
 蒲生家の家臣の声が揃い、賦秀の顔からも迷いは消えた。
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