実兄の嘘で悪女にされた気の毒な令嬢は、王子に捨てられました

恋せよ恋

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完璧な王女の毒

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 昨夜は一睡もできなかった。
 まぶたの裏に浮かぶのは、エイドリアン殿下の冷酷な蔑みと、兄ヘンリーの裏切り。そして、中庭で見たあの残酷なほどに美しい光景だ。

 ティファニー・ロレンタは、腫れた目を化粧で懸命に隠し、重い足取りで学園の門をくぐった。

「見て、今日も一人だわ」
「お兄様にも見放されたんですって? 自業自得よね」
 校舎に入れば、昨日よりもさらに露骨な陰口が耳に届く。

 普段なら、友人として寄り添ってくれるはずの令嬢たちも、今は関わりを避けるように足早に通り過ぎていく。学園という名の社交場は、一度「獲物」と定めた相手に対して、どこまでも残酷だ。

 ティファニーが図書室へ向かおうと階段を上っていた、その時だった。

「あら、ティファニー様。おはようございます」
 鈴を転がすような、甘く愛らしい声。
 振り返ると、そこにはフローレンス王女が立っていた。
 ピンク色の柔らかな髪を揺らし、春の陽だまりのような微笑みを浮かべている。その背後には、兄のヘンリーと、護衛騎士のステファン、そして侍女のロレッタが控えていた。

「……おはようございます、フローレンス王女殿下」
 ティファニーが深々と頭を下げると、隣に立つヘンリーが不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「ティファニー。フローレンス王女がお声をかけてくださっているんだ。もっと明るい顔ができないのか。お前のその暗い顔のせいで、フローレンス王女まで気分を害されたらどうする」
「お兄様……。私は、ただ……」

「いいのよ、ヘンリー様。ティファニー様はお疲れなんですわ。きっと、エイドリアン様とのことでお悩みなのでしょう?」
 フローレンスは、いたわるようにティファニーの手に触れた。

 その瞬間。
 ティファニーの背中に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。

(え……?)

 フローレンスの指先が、ティファニーの掌を、鋭い爪で強く、強く抉るように押しつぶしたのだ。

 あまりの痛みにティファニーが手を引こうとすると、フローレンスはさらに力を込め、顔だけは天使のような微笑を保ったまま、小声で囁いた。

「――お可哀想に。お兄様にも婚約者にも愛されない、空っぽなお人形さん」
 その声は、後ろにいるヘンリーには聞こえないほどの、蛇が這うような冷たさだった。

 ティファニーは衝撃に目を見開き、反射的に彼女の手を振り払ってしまった。
「……っ! やめてください!」
 バシッ、と乾いた音が廊下に響く。

 フローレンスは、待っていましたと言わんばかりに、大袈裟にバランスを崩してよろめいた。
「ああ……っ!」

「フローレンス様!」
 ヘンリーが素早く彼女の腰を抱き、支える。

 フローレンスは潤んだ瞳でヘンリーを見上げ、震える声で訴えた。
「ごめんなさい、ヘンリー様……。私が、余計なことを言ったから……ティファニー様を怒らせてしまったみたい……」

「ティファニー! 貴様、何をするんだ!」
 ヘンリーの怒号が飛ぶ。

 ティファニーは激しく首を振った。
「違います、お兄様! 彼女が、今、私の手を……!」

「見苦しい言い訳をするな! フローレンス様がわざわざ歩み寄ってくださったのに、それを暴力で返すとは。お前はロレンタ家の恥だ!」
 ヘンリーの瞳には、もはや妹への愛情など欠片も残っていなかった。

 背後に控える侍女のロレッタが、冷ややかに口を開く。
「……信じられませんわ。我が国の至宝である王女殿下に、これほどの無礼を。ステファン、記録を」

「承知した。本国へ報告せねばなるまいな」
 護衛のステファンもまた、凍りつくような視線をティファニーに投げる。

 彼ら「お目付け役」の言葉は、国際問題に発展しかねない重みを持っている。ティファニーは恐怖で指先が震えた。
「お兄様、信じて……本当なんです。私の手を見てください、爪の跡が……」

 ティファニーが自分の掌を見せようとしたとき、フローレンスがその手を優しく(そして誰にも見えない角度で強く)握り直した。

「もういいのよ、ヘンリー様。私なら大丈夫ですわ。ティファニー様、ごめんなさいね。私、あなたのことが大好きだから……仲良くなりたかっただけなの」
 その聖母のような慈愛に満ちた言葉に、周囲で見ていた生徒たちから溜息が漏れる。

「なんてお優しい王女様なんだ」
「それに引き換え、ロレンタ侯爵令嬢の醜いこと……」

 フローレンスは、ヘンリーに支えられながらゆっくりと歩き出す。

 すれ違いざま。
 彼女はティファニーだけに、真っ赤な唇を吊り上げて、勝者の笑みを浮かべて見せた。
 その緑の瞳は、まるで獲物をいたぶるのを楽しむ捕食者のそれだった。

 独り、廊下に取り残されたティファニー。
 掌には、じわりと血が滲んでいる。
 けれど、それを訴える相手はどこにもいない。

「……誰も、信じてくれない」
 涙が溢れそうになるのを必死で堪え、彼女は庭園の隅にある東屋へと逃げ込んだ。
 そこなら、誰にも会わずに済むと思ったから。

 けれど、先客がいた。

「……また、泣いているのですか」
 低く、落ち着いた声。
 昨日、自分を助けてくれた騎士――チャールズだった。
 彼は東屋の柱に背を預け、本を閉じてティファニーを見つめていた。

「チャールズ様……。申し訳ありません、お邪魔でしたらすぐに……」

「いいえ。ここは静かですから。……その手、見せていただけますか」
 チャールズは迷いなく歩み寄り、ティファニーが隠そうとした右手をそっと取った。そこには、フローレンスの執拗な憎悪が刻まれている。

「……これは。もしや、フローレンス王女が?」
「……ええ。でも、お兄様もエイドリアン様も、誰も信じてくれません。私が彼女を虐めていると、そう思われています」
 ティファニーは、自嘲気味に笑った。
 初対面に近い他国の人間に、こんな無様な姿を見せていることが恥ずかしくてたまらない。

 けれど、チャールズの反応は意外なものだった。
「私は、信じますよ」

「え……?」
「彼女……フローレンス王女のやり方は、昔からそうですから。あの方は、自分が最も美しく見える方法を熟知している。そのためなら、他者の心を踏みにじることなど、呼吸をするよりも容易い」

 チャールズの瞳に、深い軽蔑の光が宿った。それはティファニーに向けられたものではなく、王女に向けられたものだった。
「あなたは、ただ巻き込まれただけだ。……ひどい傷だ。手当しましょう」
 チャールズは懐から清潔なハンカチを取り出し、手際よくティファニーの傷を包んでくれた。その指先は驚くほど優しく、温かい。

「なぜ、私を助けるのですか? 私はもう、この学園で一番の嫌われ者ですわ」
「嫌われ者、ですか。……私の目には、そうは見えませんが」
 彼は一瞬、言葉を切り、ティファニーの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私は騎士です。守るべきものを間違えないように、常に目を凝らしているつもりですよ。……ロレンタ嬢。あなたは、自分が思うよりもずっと、気高く美しい人だ」
 その言葉が、凍りついていたティファニーの心を、微かに溶かしていく。


 けれど、事態はティファニーが思うよりもずっと速く、破滅へと突き進んでいた。

 その日の午後。
 学園の掲示板には、フローレンス王女に対する「ティファニーの数々の嫌がらせ」を告発する匿名の手紙が貼り出された。

 さらに、エイドリアン王子が、フローレンス王女を慰めるために、今夜の晩餐会に彼女を「特別なパートナー」として招待したという噂が、学園中を駆け巡る。

 婚約者であるはずのティファニーを差し置いて。
 そして、兄ヘンリーもまた、婚約者のエリザベスを放置し、王女の部屋に入り浸っているという。

 ティファニーの耳に届くのは、周囲の冷笑と、崩れ落ちる日常の音ばかり。
 誰もいない図書室の片隅で、ティファニーはチャールズに巻いてもらったハンカチを、ぎゅっと握りしめた。

「……負けない。私は、何も間違ったことはしていないもの」

 けれど、その決意をあざ笑うかのように、フローレンスの次なる魔の手が、ティファニーの最も大切な「家族」と「誇り」を、じわじわと蝕んでいくのであった。
______________

エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇

作者もティファニーが気の毒で泣けてきます😭 🥀
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