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幸福と絶望
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陽光をいっぱいに浴びた広大な斜面に、たわわに実る紫紺の宝石。
リンガー子爵領が誇る葡萄畑は、この季節になると甘く芳醇な香りに包まれる。
「メルローズ! こっちだ、一番いい実がなっているぞ!」
快活な声に振り向くと、そこには金色の髪をなびかせた少年が立っていた。シモン・ローデン伯爵令息。隣領の後継ぎであり、私のたった一人の幼馴染だ。
「待って、シモン! そんなに走ったら転んでしまうわ」
十歳の私は、ドレスの裾を摘みながら彼を追う。
我がリンガー子爵家は、代々最高級の葡萄を育てる生産の家。そしてシモンの実家であるローデン伯爵家は、それを王都や国外へ流通・販売させる販路の家。
お父様と、シモンのお父様は、学校時代からの親友だと聞いている。生産と流通、切っても切れない関係にある両家は、まるで一つの家族のように寄り添って生きてきた。
「ほら、見てみろ。この輝き……お前の瞳の色によく似ている」
追いついた私に、シモンが収穫したばかりの一房を差し出す。
深い紫色の実は、露に濡れて宝石のように輝いていた。シモンは当然のようにその一粒をもぎ取ると、私の口元へと運ぶ。
「あ……」
甘酸っぱい果汁が口の中に弾けた。
「……美味しい。去年のものより、ずっと甘いわ」
「だろう? 俺が毎日、こっそり畑の様子を見に来ていたんだからな。リンガー子爵が丹精込めて育てた葡萄を、俺たちが世界中に広める。そして……」
シモンは少し照れくさそうに視線を逸らし、私の小さな手を握りしめた。
「大人になったら、俺がメルローズを守る。俺たちの家が一つになれば、この領地はもっと豊かになるはずだ。父様たちも言っていたよ。いずれ俺たちは『婚約』するんだって」
「婚約……」
十歳の私には、まだその言葉の重みは完全には理解できていなかった。けれど、シモンの隣にいることが当たり前で、彼以外の誰かと人生を歩むことなんて想像もできなかった。
「ええ、嬉しいわ。シモン!」
私たちが微笑み合うと、遠くからお父様たちの笑い声が聞こえてきた。
私の父、ヘンリー・リンガー子爵と、シモンの母、パメラ伯爵夫人だ。二人は畑の端にある東屋で、今年の収穫について楽しげに語らっている。
私の母、アマンダは弟のクロフォードを抱きかかえ、シモンの父、オリビエ伯爵と穏やかに談笑している。
そこには、完璧な幸福があった。
この甘い葡萄の香りが途絶えることなど、世界が滅びてもあり得ないと信じていた。
しかし、運命はあまりにも残酷で、唐突だった。
その年の冬、王都から届いた一通の手紙が、すべての始まりだった。
『王都にて未知の流行病、発生。感染力強く、多くの貴族が倒れる――』
当初は遠い場所の出来事だと思っていた。けれど、仕事のために王都へ向かった私のお父様と、シモンのお母様が、同時にその渦中に飲み込まれてしまったのだ。
「お父様……?」
数週間後、馬車で運び込まれたお父様は、かつての威厳ある姿を失っていた。熱に浮かされ、肌は土気色に沈んでいる。
「メル……ローズ……アマンダ……クロフォード……すまない……」
それが、父様が発した最期の言葉だった。
時を同じくして、隣のローデン伯爵邸からも、絶望に満ちた悲鳴が風に乗って聞こえてきた。パメラ様もまた、同じ病で息を引き取ったという。
葬儀の日は、冷たい雨が降っていた。葡萄の木々は葉を落とし、まるで亡き主を悼むように黒々と濡れている。
私は喪服に身を包み、幼いクロフォードの手を握って立っていた。まだ五歳の弟は、何が起きたのか分からず、ただ私の服を震える手で掴んでいる。
隣には、シモンがいた。かつての快活さは消え失せ、彼の瞳は暗い絶望に沈んでいる。
「シモン……」
私がそっと呼びかけると、彼は振り向かずに私の手を、砕けそうなほど強く握り返した。
「……メルローズ。俺、誓ったんだ。お前を守るって」
その声は、震えていた。
「俺はもう、子供じゃいられない。母様を救えなかった。だから、お前だけは……お前だけは、俺が絶対に……」
彼の誓いは、悲しみゆえのものだと思っていた。
けれど、握られた手の熱さは、ただの慰めにしてはあまりに強烈で、どこか狂気にも似た執念を孕んでいるように感じられた。
悲しみに暮れるリンガー子爵家。後継ぎのクロフォードはまだ幼く、お母様の実家であるアマンド伯爵家が後見人として入ることになった。
そして、独り身となったお母様と、妻を亡くしたオリビエ伯爵。残された二つの家族を繋ぎ止めるように、大人たちの間で静かに「ある話」が進んでいく。
三年の月日が流れ、私たちが十三歳になった頃。本当の悪夢は、甘い誘惑の顔をして、私たちの前に現れたのである。
______________
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リンガー子爵領が誇る葡萄畑は、この季節になると甘く芳醇な香りに包まれる。
「メルローズ! こっちだ、一番いい実がなっているぞ!」
快活な声に振り向くと、そこには金色の髪をなびかせた少年が立っていた。シモン・ローデン伯爵令息。隣領の後継ぎであり、私のたった一人の幼馴染だ。
「待って、シモン! そんなに走ったら転んでしまうわ」
十歳の私は、ドレスの裾を摘みながら彼を追う。
我がリンガー子爵家は、代々最高級の葡萄を育てる生産の家。そしてシモンの実家であるローデン伯爵家は、それを王都や国外へ流通・販売させる販路の家。
お父様と、シモンのお父様は、学校時代からの親友だと聞いている。生産と流通、切っても切れない関係にある両家は、まるで一つの家族のように寄り添って生きてきた。
「ほら、見てみろ。この輝き……お前の瞳の色によく似ている」
追いついた私に、シモンが収穫したばかりの一房を差し出す。
深い紫色の実は、露に濡れて宝石のように輝いていた。シモンは当然のようにその一粒をもぎ取ると、私の口元へと運ぶ。
「あ……」
甘酸っぱい果汁が口の中に弾けた。
「……美味しい。去年のものより、ずっと甘いわ」
「だろう? 俺が毎日、こっそり畑の様子を見に来ていたんだからな。リンガー子爵が丹精込めて育てた葡萄を、俺たちが世界中に広める。そして……」
シモンは少し照れくさそうに視線を逸らし、私の小さな手を握りしめた。
「大人になったら、俺がメルローズを守る。俺たちの家が一つになれば、この領地はもっと豊かになるはずだ。父様たちも言っていたよ。いずれ俺たちは『婚約』するんだって」
「婚約……」
十歳の私には、まだその言葉の重みは完全には理解できていなかった。けれど、シモンの隣にいることが当たり前で、彼以外の誰かと人生を歩むことなんて想像もできなかった。
「ええ、嬉しいわ。シモン!」
私たちが微笑み合うと、遠くからお父様たちの笑い声が聞こえてきた。
私の父、ヘンリー・リンガー子爵と、シモンの母、パメラ伯爵夫人だ。二人は畑の端にある東屋で、今年の収穫について楽しげに語らっている。
私の母、アマンダは弟のクロフォードを抱きかかえ、シモンの父、オリビエ伯爵と穏やかに談笑している。
そこには、完璧な幸福があった。
この甘い葡萄の香りが途絶えることなど、世界が滅びてもあり得ないと信じていた。
しかし、運命はあまりにも残酷で、唐突だった。
その年の冬、王都から届いた一通の手紙が、すべての始まりだった。
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「お父様……?」
数週間後、馬車で運び込まれたお父様は、かつての威厳ある姿を失っていた。熱に浮かされ、肌は土気色に沈んでいる。
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それが、父様が発した最期の言葉だった。
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葬儀の日は、冷たい雨が降っていた。葡萄の木々は葉を落とし、まるで亡き主を悼むように黒々と濡れている。
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隣には、シモンがいた。かつての快活さは消え失せ、彼の瞳は暗い絶望に沈んでいる。
「シモン……」
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「……メルローズ。俺、誓ったんだ。お前を守るって」
その声は、震えていた。
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けれど、握られた手の熱さは、ただの慰めにしてはあまりに強烈で、どこか狂気にも似た執念を孕んでいるように感じられた。
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そして、独り身となったお母様と、妻を亡くしたオリビエ伯爵。残された二つの家族を繋ぎ止めるように、大人たちの間で静かに「ある話」が進んでいく。
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