「あなたは強いから大丈夫よね」、無自覚に人生を奪う姉

恋せよ恋

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姉の、あまりに綺麗な涙

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「……そんな。あまりに理不尽ではないか!カトリーヌ、お前が何をしたというのだ!」
 アトリー伯爵家の重厚な応接室に、父の悲痛な叫びが響いた。

 私、セリーヌ・アトリーは、その傍らで冷めた紅茶のカップをじっと見つめていた。

 事の起こりは一時間前。
 姉のカトリーヌが十二歳の時から婚約していた、この国でも指折りの名門・クレイグ侯爵家の嫡男、ジェラルド様からの「婚約解消」の通知だった。

「ごめんなさい、お父様。私……ジェラルド様に、ふさわしくなかったのね」
 二歳年上の姉、カトリーヌが顔を覆って泣き崩れる。
 その姿は、はかなく、どこまでも美しかった。透き通るような銀糸の髪が肩にこぼれ、真珠のような涙が頬を伝う。
 
 理由を聞けば、侯爵家側に「真実の愛」に目覚めた相手ができたのだという。いわゆる一方的な心変わりだ。十七歳という、社交界デビューを終え、いよいよ翌年には結婚という時期になっての婚約破棄。本来ならば、アトリー伯爵家が怒り狂って抗議し、相応の慰謝料をふんだくるべき事案である。

「ああ、カトリーヌ。可哀想に……。お前は何も悪くない。あんな男に、お前のような優しい娘をやるのはもったいなかったのだ」
「そうよ、カトリーヌ。あなたはあんなに努力していたのに。神様はなんて残酷なの……!」
 両親は代わる代わる姉を抱きしめ、自分のことのように嘆き悲しんでいる。

 その光景を眺めながら、私は胸の奥でチリリと焼けるような違和感を覚えていた。

(……努力?)

 姉は確かに「美しい、優しくて」だ。誰にでも微笑み、花を愛で、ティータイムを優雅に過ごす。
 けれど、彼女が侯爵夫人に必要な「領地経営」や「魔導契約の知識」「複雑な社交界の派閥図」を学んでいる姿を、私は一度も見たことがない。

 対して、私はどうだったか……。
 次女として生まれた私は、十歳の時に「姉は侯爵家へ嫁ぎ、私が婿養子を取ってアトリー家を継ぐ」と決められた。

 それ以来、私の人生は「家を支えるための義務」一色だった。

 朝は早く起き、家庭教師から領地経営の基礎を叩き込まれる。午後は会計処理の補助と、地味で神経を使う事務作業。週末は、将来の婿養子として紹介された婚約者、クロード様との仲を深めるための交流。

 私の婚約者であるクロード様は、隣領の子爵家の三男だ。誠実で、少し口下手だけれど、私の努力を「立派だね」と静かに肯定してくれる、唯一の心の拠り所だった。

 私が、寝る間を惜しんで数字と格闘し、難解な交渉術を学んでいる間、姉はいつも「セリーヌは凄いわね。私には難しくて分からないわ」と、笑っていた。
 その笑顔の裏で、私がどれほどの娯楽を、どれほどの「少女らしい時間」を犠牲にしてきたか。姉は一度でも考えたことがあるのだろうか。

「お父様、お母様。お姉様のことは私もおいたわしいと思います。ですが、まずは侯爵家への正式な抗議と、今後のアトリー家の体裁を考えなくては……」
 私が冷静に、実務的な提案を口にしたときだった。

 カトリーヌお姉様が、濡れた瞳を上げて私を見た。
「セリーヌ……ごめんなさい。貴女は、私がこんなに悲しい時でも、家のことを考えられるのね。……貴女が、羨ましいわ」

 悪気のない、純粋な感嘆。それが私には、どんな毒よりも鋭く突き刺さった。

 私が家のことを考えているのは、それが「私の役割」だからだ。私がやらなければ、この家は回らない。それを姉は「冷たい人間」であるかのように、無自覚に口にした。

 父がハッとしたように私を睨む。
「セリーヌ! 姉がこれほど傷ついている時に、お前はなんて冷酷なことを言うんだ。抗議など後回しでいい。今はカトリーヌに寄り添うことが先決だろう!」
「ですが、お父様……」

「黙りなさい! お前はいつもそうだ。効率だの義務だの……少しはカトリーヌの優しさを見習ったらどうだ」
 目の前が真っ暗になる。

 私が今日まで、誰のためにその「数字」を扱ってきたと思っているのか。
 姉が着ているその最高級のシルクのドレスも、今飲んでいるお気に入りのハーブティーも、私が領地の無駄を削り、予算を捻出したからこそ維持できているものなのに。

「……申し訳ありません」
 私は深く頭を下げた。震える拳をドレスの裾で隠しながら。

 この時、私はまだ、本当の絶望を知らなかった。
 姉が「嫁がなくなった」ことで、私が五年間積み上げてきた「居場所」が、砂の城のように脆く崩れ去るのだということを。

「セリーヌ。後で、クロード様を呼んでちょうだい」
 姉が、涙を拭きながら、鈴を転がすような声で言った。

「え……? を、ですか?」
「ええ。私、一人でいると怖いの……。クロード様は、私の義理の弟になる方でしょう? 彼なら、今の私の心細さを分かってくれる気がするの」
 無垢な、あまりにも無垢な微笑み。

 姉は本気で信じているのだ。
 自分の悲しみを癒やすために、妹の婚約者の時間を奪うことが、家族として「当然の権利」であると。

 そして、その日の夕方。
 駆けつけたクロード様は、私の前を素通りして、窓際で項垂れるお姉様の元へ迷わず歩み寄った。

「カトリーヌ様。なんてことだ……。貴方のような美しい方が、こんな目に遭うなんて」
 クロード様が、私に向けたこともないような熱い、同情に満ちた眼差しを姉に注ぐのを見た瞬間……。

 私の中で、熱い何かが一瞬で凍りついた。
__________

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