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第二部・一章 人界の真実
第三話
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天界の騎士キクノは、自分が置かれた状況を理解・認識することに、数秒も掛けた。
星明かりの美しい夜を、アースリア産五百年物のワインと共に過ごそうとしたが、人界の心臓部で狼藉を働く者が出たとのことで警戒態勢のまま広場で待機。そこで姿を現したのは、狼藉を働く者ではなく、混乱に乗じて脱獄を働いた、三日前に禁書目録違反で連行された囚人だった。
目的こそ違うが、囚人を見逃すほどのお人好しではないキクノは、最初に囚人を牢に連れ戻すことを優先し剣を抜いた。
無論、囚人も無抵抗というわけではなかった。ある程度の抵抗は覚悟していたが、所詮はまだ熟してない学生の生半可な剣術。若輩ではあるが一騎当千を謳われる天界の騎士である私が遅れを取るとは一切考えられず、無意識に相手の力量を侮っていた。
それは大きな誤りだった。
囚人は私が最も得意とする武器・鎖鎌の変幻自在の攻撃を一度見ただけで凌ぎ、自らの得意分野である剣術に誘い込み、私と対峙した。
少なくとも学生相手に負けるわけないと鷹を括っていたことで、愚かにも相手の提案に乗るような真似をした。実際、天界の騎士は剣術・魔術の面でも、一般学生に劣らない。例え相手が、禁書目録を違反した罪人だとしても。
結果は散々だった。
囚人はボロボロの剣が砕けることを一切恐れず、凄まじい動体視力と反射神経で果敢に攻めてきた。そして、私に一撃を入れてきた。
単なる学生、されど学生。私は相手を無意識に過小評価し侮っていたことを恥じた。創世神様は私を召喚した時、こう言っていた。
『人界を守護する騎士として、そこに住む人々を敬い、尊敬してあげなさい。それが、人界を守護するために召喚されたあなたの使命であり、役割でもあります。民はあなたを信じています。あなたも、民を信じ、愛してあげなさい』
相手は囚人である前に、創世神様のご加護を承った人界の民。例え罪人であろうと、如何なる罪を犯していようと、一人の人間として敬意を表してあげなければならない。
絶対の忠誠を誓った創世神様の御言葉を、私は背いた。それはつまり、禁書目録を違反するよりも重罪だ。神の御言葉に背いたのだから。
せめてもの償いとして、私は対峙する囚人を全力で叩き潰そうと決心した。一切の油断も躊躇もなく、一人の騎士として敬意を表して、私の持ち得る全ての技量を持って。
そう思った矢先、予想し得ないことが起きた。
密着に近い状態にいた囚人は、不意に私の鎖鎌を引っ張り体勢を崩させた。
身を上に乗せ、優位な立場から攻撃を繰り出すのかと直感したキクノは、空中で身を反転させた。
だが視界に入ったのは、騎乗位しようとする囚人ではなく、まるで私を守るように覆いかぶさってくる囚人だった。
困惑した次の瞬間──。
先程まで頭部が存在していた空間を、何かが音を立てて通過──放たれた。
放たれたものは盛大な音を立てて、噴水に立つ女神像の頭部を貫いた。
何が起きたのか困惑している中、私を庇うように上に覆い被さる囚人から、ある一声が耳に届いた。
「……魔界の民」
魔界の民……ですって……。
困惑する意識の中で、その名称だけははっきりと聞こえた。
魔界。創世神様のご加護が及ばず、醜い欲求に突き動かされた卑しき亜人や穢らわしい術を要いるデーモンが住む、聖なる人界とは対をなす薄汚い血に塗れた下界。
過去の大戦で、敬愛すべく人界の民を大量虐殺した憎き存在が、人界の心臓部たる中都統制教会にまで侵入し、あまつさえ多くの衛士や獄吏を殺害していたというのか。
そんなこと、あり得るわけがない。囚人が口にした名を必死に否定するも、自分の視界が捉えているのは、明らかに人界の民ではない異質な存在だった。
黒いローブに身を包み、夜の闇に姿を眩ましている。そして、人界の民とは思えないほどの禍々しく不気味な気配。触れる者全てを無に還すようなオーラを纏っている。
間違いない。こいつは魔界の民だ。
だが解らない。何故魔界の民が、人界の中心部にまで到達出来たのか。一年前の報告では、マガツヒなる飛翔生物で分断の壁を横断した暗黒騎士なる者がいたため、分断の壁周囲は常に天界の騎士が交代制で見張りをしている。騎士の警戒体制を突破するのは、上位の魔術師でも難儀だというのに、下賤な闇魔術を使用する魔界の民に突破されるはずがない。
まさか……魔界の勢力は強化されているのか。既に私達天界の騎士が存在を認知できないほどの高位魔術を会得しているというのか。
その時キクノの背後に、おぞましい気配を纏った不気味な何かが接触した感覚に陥る。
今の仮説が事実だとしたら、魔界の民は人知れず人界に侵入できることになってしまう。自らの気配を抹消し、死角から人々の命を奪うことが出来てしまう。
現に私が、そうであったように。
騎士である私が認識出来なかったのだから、戦う力を持たない人界の民など、殺られたことにすら気付かずに、次々と殺戮されてしまう。
それだけはなんとしても阻止しなければならない。人界を守護する者として。
そこでキクノは、ある違和感に気付いた。
私が気付かなかった攻撃を、囚人である少年は気付き、避けられたのか。それ以前に、何故今は敵である私を助けるような真似をしたのか。
脱獄成功のためには、私の存在は邪魔なはず。今の一撃から助けるような真似をしなければ、確実に脱出出来たのに、何故この少年は私を助けたのか。
騎士は戦闘経験から見出すことが出来ない答えに戸惑い、焦っていた。同時に、自分の心境に現れた変化に動揺していた。一体自分が何に動揺しているのか、キクノは理解していなかった。
ただ、他に理解していることはある。それは──
魔界の民を排除する。それ一つだった。
カズヤは、デーモンの台詞に含まれた貴重な情報を全て脳裏に刻み込み、分析を一瞬で始めた。
デーモン部隊副隊長・ザルザード。副隊長ということはこいつの一つ上が存在していることになる。そして隊ということは他の隊員も侵入している可能性が高い。
だがこいつが単体で行動している可能性も同様。最強の存在を仕留めるために息を潜めていたのなら、複数で一気に攻撃すれば成功する確率は高いはず。それを行わないということは、副隊長単体で人界に侵入した可能性がある。
無論、単体ならばそれに越したことはないが、望みある理想論は期待しないのが、異世界での鉄則としている。
咄嗟に騎士を庇うような真似をしてしまった。人界の守護者を見殺しにしてしまうのはまずいし、目の前で死なれても目覚めが悪い。きっと俺の判断は間違っていないはず。
鎖を解き、密接体勢を解除する。すぐに騎士から離れ、眼前に立つザルザードを見据える。
身長は、現在百七十センチほどある俺より更に三センチばかりも高い。黒いローブで顔は見えないが、フードの闇から煌く真紅の両眼は人族とは異なる。口角を吊り上げており、不気味な笑みを刻んでいるのが判る。
そして何より、相手の力量が感じ取れる。
──強敵だ。かなりの。
天界の騎士にも気付かれずに闇魔術を放ったのも見事だが、既に数人の衛士を殺害している以上、相当の実力者であることは容易に想像出来る。
だが勝ち目がないわけではない。
デーモン関連の情報は、学園の書庫室で閲覧済みだ。弱点も知っているし、こちらには頼もしい助っ人がいるんだ。協力してくれるかは定かではないが、多分協力してくれる。騎士は恩に報いる誇り高き戦士なんだから。
勝手な解釈と願望を押し退けると、未だ身を伏している騎士に歩み寄り、片膝を突き囁いた。
「キクノさん……こんな提案出来る立場じゃありませんが、一時休戦にしましょう」
身を伏す騎士は一瞬、ビクッと反応を示したが、何の返事も返さなかった。俺はなおも一方的な主張を述べた。
「キクノさんにとって、禁書目録違反者であり脱獄囚人である俺は許せない存在でしょうが、今俺たちの目の前にいるのは、過去の大戦で多くの民を虐殺した魔界の民です。人界を守護するために召喚されたあなたならば、まずどちらを先に排除すべきは判断出来るはずです」
長広舌になっていると、キクノはゆっくりと顔を上げ、朧げな眼をこちらに向けてきた。
一瞬騎士ではなく一人の女性と思い見惚れてしまったが、すぐに表情を引き締め直し、石畳に落ちた騎士の剣を拾い差し出す。
「騎士には、民に仇なす者を倒さなければならない使命がある。それを果たすためにも、今は一時休戦にし、目の前に立つ敵に対して、共に剣を向けて下さい」
嘘偽りのない瞳を向けると、眼前の騎士はしばらくの間沈黙した。
キクノは今、葛藤しているんだ。
禁書目録に背いた罪人と協力して戦うことに、少なからず抵抗があるんだ。きっとすぐには答えが見出せずに迷い続ける。
と思っていたのだが、意外にも騎士は即座に答えを出した。
顔を俯かせた騎士はすぐに顔を上げ、強い意志を放つ碧い瞳をまっすぐ見据え、差し出された剣を摑んだ。
こちらから剣を取り上げると、唇を微かに緩め、微笑ましい微笑を浮かべた。
「良いわよ。坊やの提案に乗ってあげる」
「……本当ですか?」
「ええ。一時的な休戦及び協定関係を築いてあげる。あなたに助けられた恩もあるし、私自身、魔界の民を許せないからね」
立ち上がり、鞘から剣を抜刀すると、先端をデーモンに指し、広場全体に響き渡るほどの声で宣言した。
「我が名は天界の騎士キクノ! 創世神様に召喚されし、人界の守護者! 薄汚い下賤の輩が、我が絶対の忠誠を誓いし創世神様が愛する民の領域に踏み込んだ罪、汝の汚れた魂を持って償うがいい!」
長舌な演説らしき宣言が終わると、デーモンはまず不気味な笑い声を高らかに上げ、次いで極低温の響きを纏った声色で告げた。
「貴様……余程死にたいらしいな……ならお望み通り、最高の死をくれてやろう」
死の宣告に対して、騎士は一切の戸惑いや恐怖などを表さずに、ふっ、と鼻で笑って見せた。
「ありがとうございます、騎士のお姉さん。あなたが賢明な騎士で助かりました」
隣に並び立ち囁くと、キクノはくすっと微笑み、髪の毛をくしゃくしゃと撫で回した。
「素直にお礼が出来て偉いわね。あとでお姉さんが、坊やにご褒美をあげようか?」
「子供扱いしないでください。今は、奴を倒すことの方が先決です」
「そうね……一応言っておくけど、ザルザードを倒したあとはあなただから、覚悟していてね」
俺は騎士の忠告に、無言で頷いた。
「坊や、名前は?」
「……カズヤです」
唐突の問いに一瞬唖然としながら、仮初の共闘なのだから一応名乗っておいた方がいいと思い、答えた。
「カズヤ……どこかで聞いたことが……」
俺の名を聞いた途端騎士が何やらぶつぶつと言い始めたが、それを追求するより先に、不快な声が轟いた。
「覚悟はいいか貴様ら!」
ザルザードは両手を突き上げると、両掌に黒い球体を生成した。明らかに闇魔術を使用しているのを確認すると、カズヤはボロボロになった剣を中段に構えた。
「行きますよキクノさん。遅れないでくださいよ」
「あなたこそね、カズヤくん。ピンチになっても、お姉さん助けられないから」
仮初の共闘関係を結んだカズヤとキクノは、魔界の民であるデーモン・ザルザードを仕留めるために、両サイドから回り込むように接近した。
デーモンの弱点は、接近戦の弱さ。闇魔術に特化した戦闘スタイル故に、術の詠唱に時間を掛けている間に、至近距離から攻撃を繰り出せば仕留めることが出来る。
無論、それは騎士も存じている。こちらが弱点を知らせる前に、何の迷いもなくデーモンに接近したのが証拠だ。
流石は魔界で何体もの亜人やデーモンを仕留めてる騎士なだけはある。心の中で絶賛しながら、ボロボロになった剣に意識を集中させる。
獄吏の剣は、騎士との戦闘で大分限界が来ている。恐らく次の一撃で完膚なきまでに砕け散るだろう。
最後の一撃でデーモンを仕留めなければ、こちらの武器が腕に巻いた鎖だけになってしまう。そうなれば攻撃を仕掛けるのは困難になってしまう。
──確実に倒す。
意を決し、剣を再度握り直す。
ザルザードが動いたのは、二人が半ばまで接近した時だった。フードの奥から開かれた真紅の両眼から、一切の感情を窺わせない氷の瞳が二人をじっと見据える。
途端、まるで視線に何らかの術でも掛けられているかのように、両足がずしりと重くなる。足がこれ以上奴に接近することを拒んでいるようにも感じられた。たった一度放たれた闇魔術だけで、体に恐怖を刻まれてしまったのか。
「……当初の目的は騎士だけだったが、小僧も一緒に死んでもらおうか」
ザルザードの淀んだ声が空気を揺らした。そして、両掌の黒い球体を二人に片方ずつ向けてきた。
「ハァッ!!」
次の瞬間、一瞬の閃光を放って、両掌の球体が消滅した。
「────!?」
少し遅れて、鼻につく刺激臭が漂い、そして完全に消えた。
そして、恐ろしい現象が眼前で起きた。
何もなかったはずの両手に、漆黒の刀身をした二本の長剣が現れた。星明かりを全く反射せず、光沢も存在しない、まるで物質が存在しない虚無空間のような剣が、突然二本も現れたのだ。
何が起きたのか、咄嗟には理解できなかった。
黒い球が消えて、剣が現れた。つまり、奴は闇魔術と思しき球体を剣へと変化させたということなのか? しかし、そんな芸当は可能なのだろうか。
人界では、鋼素という素因で剣を生成することは可能だ。しかしそれを成すには、絶大な集中力と意志力を必要とする。
さらに言えば、相手は魔界の民であり闇魔術の使い手。人界の魔術とは根本的に概念が異なる魔術で物質の創造など不可能だ。
「そんなこけおどしなど、私には通用しない!」
答えの導き出されない疑問が消えない中、騎士が叫んだ。その叫びで、迷いも吹き飛んだ。
そうだ。俺は何を迷っている。
闇魔術から剣が創造されたことは驚いたが、魔界だって大戦以降何百年もの時間を過ごしているんだ。当然、魔術の質も上がっていているに決まっている。
やはり人界の守護者が味方で助かった。如何なる時でも冷静に行動出来るなんて、尊敬に値する。
無意味な疑問を脳から振り払い、猛然と突っかける。ザルザードの剣がいかなる力を持つのか不明だが、接近戦が弱点であるデーモンが二人を一気に相手に出来るなど到底思えない。
カズヤとキクノが剣の間合いに入ると、踏み込みと同時に斬撃を繰り出す。カズヤは右上段切りを、キクノは左水平斬りを繰り出した。
「!?」
突然隣から、声にならない呻き声が漏れる。
「なっ!?」
そして俺も同様に、呻き声を漏らした。
会心の一撃とも言える二人の斬撃を、ザルザードは両手の剣で軽々と受け止めている。
「……弱いな」
呆れた物言いで呟くと、受け止めていた剣を上に弾き、カズヤの腹部に向けて剣を突き刺した。
「ぐっ──!」
全身を貫く激痛に耐えかね、短い呻き声を漏らす。
だがカズヤは動きを止めず、ザルザードの腕に足を組み付けた。両足で肩を摑み、第一関節に当たる箇所に両腕を回す。
「うおぁぁ────ッ!!」
気合声を盛大に発しながら、両腕と両足に全力を注ぐ。三秒後、ザルザードの肩から、ゴキッ、と鈍い音が鳴り響いた。
「き……さまッ!」
叫んだザルザードは、空いた方の剣で右腕を切断し、切断した右腕ごと俺を噴水に向けて投げた。
俺はなんとか腹部に刺さる剣から抜け出し、噴水へと背中から落下した。
肺の酸素が一気に吐き出され、意識が軽く飛んだ。だが全身を苛む激痛が意識を連れ戻した。
「カズヤくん!!」
キクノの呼び声に反応する余力などなく、俺は噴水の中で仰向けに倒れたまま、起き上がることが出来なかった。
咄嗟に体術を使用したが、まさか自らの腕を切断するとまでは予想も出来なかったせいで受け身に失敗した。そのせいで、貫かれた腹部からの出血が更に酷くなってしまった。
──駄目だ……早く……治癒術を詠唱しなければ……。
緩慢な動作で右手を傷口にかざし、周囲の薄く漂った空間魔素を必死に集めようとする。だが口が上手く動かず、治癒術を詠唱することが出来ない。
この出血の勢いでいくと、俺は残り数十分で死ぬだろう。現に、徐々に意識が薄れていき、瞼が重くなってきている。
死が明確に近づいているというのに、カズヤは一切焦ることも、恐れることもなかった。
俺は既に、一人の人間を殺している。罪人である俺が死ぬことで、人々の中に蔓延る不安や恐怖が取り除かれるのであれば、それに越したことはない。
それに、ここで死ねば、もしかしたら元の世界に戻れる可能性が僅かながら存在する。
噴水の外から、剣の斬り合う音が聞こえてくる。きっとキクノがザルザードと必死に戦っているんだ。
接近戦が弱いと思っていたデーモンに敗北するのは負に落ちないが、命を賭けてまで片腕を奪ったんだ。悪くない──カッコいい散り際だろう。
人界のために戦うことが出来れば、それは誇らしい功績になるはず。単なる高校生が誰かの役に立って死ねるのであれば、本望だ。
本望…………いや、違う。
カズヤは突然、自分の中にあった人生の答えを全否定した。
俺は人界に貢献するために戦うんじゃない。俺は、人界を正すために戦いたいんだ。
人間の悪のほんの一部しか禁じない禁書目録に対して、愛すべき人界の民の記憶を奪い、空想の世界から召喚したという記憶を擦り込んだ存在を生み出す創世神に対して、間違ってると言うために戦ってきたんだと、今ならば断言出来る。
人界の未来も大事だ。だが、歪みを修正せずに進んだ未来に、真の平和も幸せも存在しない。
ユリの意思を、志を引き継いだ者として、俺はまだ死ねない。死ぬわけにはいかない。皆が自分の未来を自由に選び、幸せを得られる世界を作り上げるためにも、俺は戦ってみせる。
全身を苛み、戦おうとする意思を阻害する激痛を、譲れない確固たる意思で押し退け、腹部を左手で力強く抑え、音を立てながら無理矢理立ち上がる。
少し体を動かすだけでも辛く、意識を失うほどの激痛が走る。真っ直ぐ立つことすらままならず、足元がふらついてしまう。
左腕に巻き付けた鎖を解き、貫かれた腹部を保護するように乱雑に巻き付け、その場凌ぎの止血を試みる。出血の勢いは多少は和らいだが、焼き石に水なのは変わりない。
視線を前に向けると、片腕を失ったデーモンがキクノと凄まじい斬り合いを繰り広げていた。
キクノは、流石は天界の騎士と言うべきか、斬撃の繋ぎ目に一切無駄な動きもなく滑らかに繋げている。先程まで戦っていたのが恐ろしく強い存在なのだと再認識させられる。
だが、対するザルザードも見事と言える。
騎士の無駄がない連撃を全て、片腕だけで捌いている。それどころか、負けじと騎士に勇猛果敢にも攻めている。一瞬の隙間を発見すると、視認不可の速度で連続の突きを繰り出す。
俺では到底介入することの出来ない領域の戦いを、唖然と眺めることしか出来なかった。寧ろあの時、噴水に吹き飛ばされたことで騎士の負担は減り戦いやすくなったと言える。
いや、本当に戦い易くなっているのか?
カズヤは騎士の微かな異変に、客観的視点から気付くことが出来た。
俺と戦闘した時よりも、剣速が格段と落ちている。それに、何故騎士は左手だけで剣を振るっているのか、何故もう片方の手、右手を使わずに戦っているのか。
違う……使わないんじゃない。使えないんだ。
騎士だって気付いている。ザルザードの実力に。だというのに両手を使わないのは、使えない理由が存在するから。
右手の負傷。右手の骨が数本折れていることから、騎士は両手で剣を振ることが出来ず、満足に戦うことが出来ないんだろ。
そして、その直接的原因は俺にある。騎士の右手が負傷したのは、俺が全力の一撃を放ったからだ。
つまり、今騎士が押されているのは、結論を言えば俺のせいだと言える。
そしてこのままザルザードと斬り合いを続けていけば、確実に小ダメージが蓄積していき、いずれ決定的な隙を生まれ殺されてしまう。
だが、騎士はそれに気付いているはず。気付いていながら、逃げずに戦い続けているんだ。それが、騎士の使命なのだから。
奴をここから出せば、何の罪もない民が虐殺されてしまう。それを防ぐために騎士は、自分の身を顧みずに、逃げずに戦っているんだ。一人でも多くの、民を救うために。
俺はその時、騎士の背中姿が美しく見えた。傷付き血に塗れても、民が眠る場所を守るために戦う彼女が、美しく見えた。
──助けなければ……あの人を、ここで死なすわけにはいかない。
誇り高い意志を持つ騎士を助けなければいけない。元はと言えば、俺が脱獄さえしなければ彼女が負傷することもなかったのだから。
騎士を負傷させ、脱獄した罪を償わなければならない。それが──一時的にも共闘関係を結んだ騎士に対する礼儀であり、一人の男としての贖罪だ。
だがどうすればいい。手元に武器はないし、接近したところで今の俺では攻撃を避けることが出来ない。出来ることといえば精々、初歩的な素因を一つ詠唱することだけだ。
しかし、例え炎素を詠唱した所で、魔術構文を書き加えるほどの集中力は無い。単なる素因を飛ばすだけでは奴を仕留める事は出来ない。
必死に脳を回転させながら考えていると、カズヤは噴水近くに転がっているある物に気付いた。そして、転がっている物を利用することで現状打破を可能にすることに気付いた。
俺は音を殺しながら噴水から身を出し、近くに転がっている物──割れた酒瓶の欠片を握る。
複数の欠片を握り込み、あえて血塗れに染める。切れた掌に空間魔素を集中させ、風素に変換する。
握っていた欠片を上に放り投げ、眼前に降りてきた瞬間、
「解放……」
小声で呟き、風素をわざと素因爆発させる。一定方向に吹き荒れる暴風の勢いに乗って、複数の欠片がザルザードに向かって飛翔する。
欠片は血に塗れているため、月明かりを反射せず夜の闇に消えている。更には、一度倒れた俺に意識を向けていない。
ザルザードへの死角からの攻撃に、本人は勿論、騎士自身も気付いていない。酒瓶の欠片はザルザードのある一箇所目指して飛翔していく。
欠片が刺さった所で仕留められるほどの負傷は望めない。だが、ある一箇所に一つでも命中することで、勝利する可能性が一気に跳ね上がる。
その箇所とは、フードの奥から覗き込む、真紅の両眼。ご丁寧に存在を主張している両眼に一つでも命中すれば、大きな隙が生まれる。
その願いは、見事に叶った。
「グアッ!?」
野太い声を上げたザルザードは、突然顔を仰け反り、数歩後ろに後退した。目を凝らすと、左眼からぽたぽたと血を垂らしている。
「これは……ガラスの破片。まさか……」
左眼を抑えながらこちらに意識を向けると、視線を浴びただけで身震いしてしまうほどの憎悪を滲ませながら叫んだ。
「この餓鬼が! 殺してやる!」
殺意に満ちた声を上げ、ザルザードは剣を振り上げ、勢いよく投擲した。空気を斬り裂く音を立てながら接近する剣を、俺はただ真っ直ぐに見据えた。逃げる必要も、怯える必要もない。だって
頼りになる騎士が、仲間なのだから。
一切動じずに剣を見詰めていると、回転する剣を追いかけるように、一本の鎖が伸びてきた。鎖は剣に巻き付くと、後方へと投げ飛ばした。
「なにッ!?」
驚愕する声が鳴る直後、
「感謝するわカズヤくん。お陰で……」
次に聞こえたのは、騎士の剣がザルザードを斬る音だった。
右水平斬りが直撃したザルザードは、悲鳴一つ上げずに、背中から噴出する血の勢いに負けたのか、勢いよく地面に伏した。
そして、血濡れた剣を片手に持つキクノが、顔に付着した血を拭い、可憐な笑みをこちらに向けながら言った。
「下賤な輩に、一矢報いることが出来た」
星明かりの美しい夜を、アースリア産五百年物のワインと共に過ごそうとしたが、人界の心臓部で狼藉を働く者が出たとのことで警戒態勢のまま広場で待機。そこで姿を現したのは、狼藉を働く者ではなく、混乱に乗じて脱獄を働いた、三日前に禁書目録違反で連行された囚人だった。
目的こそ違うが、囚人を見逃すほどのお人好しではないキクノは、最初に囚人を牢に連れ戻すことを優先し剣を抜いた。
無論、囚人も無抵抗というわけではなかった。ある程度の抵抗は覚悟していたが、所詮はまだ熟してない学生の生半可な剣術。若輩ではあるが一騎当千を謳われる天界の騎士である私が遅れを取るとは一切考えられず、無意識に相手の力量を侮っていた。
それは大きな誤りだった。
囚人は私が最も得意とする武器・鎖鎌の変幻自在の攻撃を一度見ただけで凌ぎ、自らの得意分野である剣術に誘い込み、私と対峙した。
少なくとも学生相手に負けるわけないと鷹を括っていたことで、愚かにも相手の提案に乗るような真似をした。実際、天界の騎士は剣術・魔術の面でも、一般学生に劣らない。例え相手が、禁書目録を違反した罪人だとしても。
結果は散々だった。
囚人はボロボロの剣が砕けることを一切恐れず、凄まじい動体視力と反射神経で果敢に攻めてきた。そして、私に一撃を入れてきた。
単なる学生、されど学生。私は相手を無意識に過小評価し侮っていたことを恥じた。創世神様は私を召喚した時、こう言っていた。
『人界を守護する騎士として、そこに住む人々を敬い、尊敬してあげなさい。それが、人界を守護するために召喚されたあなたの使命であり、役割でもあります。民はあなたを信じています。あなたも、民を信じ、愛してあげなさい』
相手は囚人である前に、創世神様のご加護を承った人界の民。例え罪人であろうと、如何なる罪を犯していようと、一人の人間として敬意を表してあげなければならない。
絶対の忠誠を誓った創世神様の御言葉を、私は背いた。それはつまり、禁書目録を違反するよりも重罪だ。神の御言葉に背いたのだから。
せめてもの償いとして、私は対峙する囚人を全力で叩き潰そうと決心した。一切の油断も躊躇もなく、一人の騎士として敬意を表して、私の持ち得る全ての技量を持って。
そう思った矢先、予想し得ないことが起きた。
密着に近い状態にいた囚人は、不意に私の鎖鎌を引っ張り体勢を崩させた。
身を上に乗せ、優位な立場から攻撃を繰り出すのかと直感したキクノは、空中で身を反転させた。
だが視界に入ったのは、騎乗位しようとする囚人ではなく、まるで私を守るように覆いかぶさってくる囚人だった。
困惑した次の瞬間──。
先程まで頭部が存在していた空間を、何かが音を立てて通過──放たれた。
放たれたものは盛大な音を立てて、噴水に立つ女神像の頭部を貫いた。
何が起きたのか困惑している中、私を庇うように上に覆い被さる囚人から、ある一声が耳に届いた。
「……魔界の民」
魔界の民……ですって……。
困惑する意識の中で、その名称だけははっきりと聞こえた。
魔界。創世神様のご加護が及ばず、醜い欲求に突き動かされた卑しき亜人や穢らわしい術を要いるデーモンが住む、聖なる人界とは対をなす薄汚い血に塗れた下界。
過去の大戦で、敬愛すべく人界の民を大量虐殺した憎き存在が、人界の心臓部たる中都統制教会にまで侵入し、あまつさえ多くの衛士や獄吏を殺害していたというのか。
そんなこと、あり得るわけがない。囚人が口にした名を必死に否定するも、自分の視界が捉えているのは、明らかに人界の民ではない異質な存在だった。
黒いローブに身を包み、夜の闇に姿を眩ましている。そして、人界の民とは思えないほどの禍々しく不気味な気配。触れる者全てを無に還すようなオーラを纏っている。
間違いない。こいつは魔界の民だ。
だが解らない。何故魔界の民が、人界の中心部にまで到達出来たのか。一年前の報告では、マガツヒなる飛翔生物で分断の壁を横断した暗黒騎士なる者がいたため、分断の壁周囲は常に天界の騎士が交代制で見張りをしている。騎士の警戒体制を突破するのは、上位の魔術師でも難儀だというのに、下賤な闇魔術を使用する魔界の民に突破されるはずがない。
まさか……魔界の勢力は強化されているのか。既に私達天界の騎士が存在を認知できないほどの高位魔術を会得しているというのか。
その時キクノの背後に、おぞましい気配を纏った不気味な何かが接触した感覚に陥る。
今の仮説が事実だとしたら、魔界の民は人知れず人界に侵入できることになってしまう。自らの気配を抹消し、死角から人々の命を奪うことが出来てしまう。
現に私が、そうであったように。
騎士である私が認識出来なかったのだから、戦う力を持たない人界の民など、殺られたことにすら気付かずに、次々と殺戮されてしまう。
それだけはなんとしても阻止しなければならない。人界を守護する者として。
そこでキクノは、ある違和感に気付いた。
私が気付かなかった攻撃を、囚人である少年は気付き、避けられたのか。それ以前に、何故今は敵である私を助けるような真似をしたのか。
脱獄成功のためには、私の存在は邪魔なはず。今の一撃から助けるような真似をしなければ、確実に脱出出来たのに、何故この少年は私を助けたのか。
騎士は戦闘経験から見出すことが出来ない答えに戸惑い、焦っていた。同時に、自分の心境に現れた変化に動揺していた。一体自分が何に動揺しているのか、キクノは理解していなかった。
ただ、他に理解していることはある。それは──
魔界の民を排除する。それ一つだった。
カズヤは、デーモンの台詞に含まれた貴重な情報を全て脳裏に刻み込み、分析を一瞬で始めた。
デーモン部隊副隊長・ザルザード。副隊長ということはこいつの一つ上が存在していることになる。そして隊ということは他の隊員も侵入している可能性が高い。
だがこいつが単体で行動している可能性も同様。最強の存在を仕留めるために息を潜めていたのなら、複数で一気に攻撃すれば成功する確率は高いはず。それを行わないということは、副隊長単体で人界に侵入した可能性がある。
無論、単体ならばそれに越したことはないが、望みある理想論は期待しないのが、異世界での鉄則としている。
咄嗟に騎士を庇うような真似をしてしまった。人界の守護者を見殺しにしてしまうのはまずいし、目の前で死なれても目覚めが悪い。きっと俺の判断は間違っていないはず。
鎖を解き、密接体勢を解除する。すぐに騎士から離れ、眼前に立つザルザードを見据える。
身長は、現在百七十センチほどある俺より更に三センチばかりも高い。黒いローブで顔は見えないが、フードの闇から煌く真紅の両眼は人族とは異なる。口角を吊り上げており、不気味な笑みを刻んでいるのが判る。
そして何より、相手の力量が感じ取れる。
──強敵だ。かなりの。
天界の騎士にも気付かれずに闇魔術を放ったのも見事だが、既に数人の衛士を殺害している以上、相当の実力者であることは容易に想像出来る。
だが勝ち目がないわけではない。
デーモン関連の情報は、学園の書庫室で閲覧済みだ。弱点も知っているし、こちらには頼もしい助っ人がいるんだ。協力してくれるかは定かではないが、多分協力してくれる。騎士は恩に報いる誇り高き戦士なんだから。
勝手な解釈と願望を押し退けると、未だ身を伏している騎士に歩み寄り、片膝を突き囁いた。
「キクノさん……こんな提案出来る立場じゃありませんが、一時休戦にしましょう」
身を伏す騎士は一瞬、ビクッと反応を示したが、何の返事も返さなかった。俺はなおも一方的な主張を述べた。
「キクノさんにとって、禁書目録違反者であり脱獄囚人である俺は許せない存在でしょうが、今俺たちの目の前にいるのは、過去の大戦で多くの民を虐殺した魔界の民です。人界を守護するために召喚されたあなたならば、まずどちらを先に排除すべきは判断出来るはずです」
長広舌になっていると、キクノはゆっくりと顔を上げ、朧げな眼をこちらに向けてきた。
一瞬騎士ではなく一人の女性と思い見惚れてしまったが、すぐに表情を引き締め直し、石畳に落ちた騎士の剣を拾い差し出す。
「騎士には、民に仇なす者を倒さなければならない使命がある。それを果たすためにも、今は一時休戦にし、目の前に立つ敵に対して、共に剣を向けて下さい」
嘘偽りのない瞳を向けると、眼前の騎士はしばらくの間沈黙した。
キクノは今、葛藤しているんだ。
禁書目録に背いた罪人と協力して戦うことに、少なからず抵抗があるんだ。きっとすぐには答えが見出せずに迷い続ける。
と思っていたのだが、意外にも騎士は即座に答えを出した。
顔を俯かせた騎士はすぐに顔を上げ、強い意志を放つ碧い瞳をまっすぐ見据え、差し出された剣を摑んだ。
こちらから剣を取り上げると、唇を微かに緩め、微笑ましい微笑を浮かべた。
「良いわよ。坊やの提案に乗ってあげる」
「……本当ですか?」
「ええ。一時的な休戦及び協定関係を築いてあげる。あなたに助けられた恩もあるし、私自身、魔界の民を許せないからね」
立ち上がり、鞘から剣を抜刀すると、先端をデーモンに指し、広場全体に響き渡るほどの声で宣言した。
「我が名は天界の騎士キクノ! 創世神様に召喚されし、人界の守護者! 薄汚い下賤の輩が、我が絶対の忠誠を誓いし創世神様が愛する民の領域に踏み込んだ罪、汝の汚れた魂を持って償うがいい!」
長舌な演説らしき宣言が終わると、デーモンはまず不気味な笑い声を高らかに上げ、次いで極低温の響きを纏った声色で告げた。
「貴様……余程死にたいらしいな……ならお望み通り、最高の死をくれてやろう」
死の宣告に対して、騎士は一切の戸惑いや恐怖などを表さずに、ふっ、と鼻で笑って見せた。
「ありがとうございます、騎士のお姉さん。あなたが賢明な騎士で助かりました」
隣に並び立ち囁くと、キクノはくすっと微笑み、髪の毛をくしゃくしゃと撫で回した。
「素直にお礼が出来て偉いわね。あとでお姉さんが、坊やにご褒美をあげようか?」
「子供扱いしないでください。今は、奴を倒すことの方が先決です」
「そうね……一応言っておくけど、ザルザードを倒したあとはあなただから、覚悟していてね」
俺は騎士の忠告に、無言で頷いた。
「坊や、名前は?」
「……カズヤです」
唐突の問いに一瞬唖然としながら、仮初の共闘なのだから一応名乗っておいた方がいいと思い、答えた。
「カズヤ……どこかで聞いたことが……」
俺の名を聞いた途端騎士が何やらぶつぶつと言い始めたが、それを追求するより先に、不快な声が轟いた。
「覚悟はいいか貴様ら!」
ザルザードは両手を突き上げると、両掌に黒い球体を生成した。明らかに闇魔術を使用しているのを確認すると、カズヤはボロボロになった剣を中段に構えた。
「行きますよキクノさん。遅れないでくださいよ」
「あなたこそね、カズヤくん。ピンチになっても、お姉さん助けられないから」
仮初の共闘関係を結んだカズヤとキクノは、魔界の民であるデーモン・ザルザードを仕留めるために、両サイドから回り込むように接近した。
デーモンの弱点は、接近戦の弱さ。闇魔術に特化した戦闘スタイル故に、術の詠唱に時間を掛けている間に、至近距離から攻撃を繰り出せば仕留めることが出来る。
無論、それは騎士も存じている。こちらが弱点を知らせる前に、何の迷いもなくデーモンに接近したのが証拠だ。
流石は魔界で何体もの亜人やデーモンを仕留めてる騎士なだけはある。心の中で絶賛しながら、ボロボロになった剣に意識を集中させる。
獄吏の剣は、騎士との戦闘で大分限界が来ている。恐らく次の一撃で完膚なきまでに砕け散るだろう。
最後の一撃でデーモンを仕留めなければ、こちらの武器が腕に巻いた鎖だけになってしまう。そうなれば攻撃を仕掛けるのは困難になってしまう。
──確実に倒す。
意を決し、剣を再度握り直す。
ザルザードが動いたのは、二人が半ばまで接近した時だった。フードの奥から開かれた真紅の両眼から、一切の感情を窺わせない氷の瞳が二人をじっと見据える。
途端、まるで視線に何らかの術でも掛けられているかのように、両足がずしりと重くなる。足がこれ以上奴に接近することを拒んでいるようにも感じられた。たった一度放たれた闇魔術だけで、体に恐怖を刻まれてしまったのか。
「……当初の目的は騎士だけだったが、小僧も一緒に死んでもらおうか」
ザルザードの淀んだ声が空気を揺らした。そして、両掌の黒い球体を二人に片方ずつ向けてきた。
「ハァッ!!」
次の瞬間、一瞬の閃光を放って、両掌の球体が消滅した。
「────!?」
少し遅れて、鼻につく刺激臭が漂い、そして完全に消えた。
そして、恐ろしい現象が眼前で起きた。
何もなかったはずの両手に、漆黒の刀身をした二本の長剣が現れた。星明かりを全く反射せず、光沢も存在しない、まるで物質が存在しない虚無空間のような剣が、突然二本も現れたのだ。
何が起きたのか、咄嗟には理解できなかった。
黒い球が消えて、剣が現れた。つまり、奴は闇魔術と思しき球体を剣へと変化させたということなのか? しかし、そんな芸当は可能なのだろうか。
人界では、鋼素という素因で剣を生成することは可能だ。しかしそれを成すには、絶大な集中力と意志力を必要とする。
さらに言えば、相手は魔界の民であり闇魔術の使い手。人界の魔術とは根本的に概念が異なる魔術で物質の創造など不可能だ。
「そんなこけおどしなど、私には通用しない!」
答えの導き出されない疑問が消えない中、騎士が叫んだ。その叫びで、迷いも吹き飛んだ。
そうだ。俺は何を迷っている。
闇魔術から剣が創造されたことは驚いたが、魔界だって大戦以降何百年もの時間を過ごしているんだ。当然、魔術の質も上がっていているに決まっている。
やはり人界の守護者が味方で助かった。如何なる時でも冷静に行動出来るなんて、尊敬に値する。
無意味な疑問を脳から振り払い、猛然と突っかける。ザルザードの剣がいかなる力を持つのか不明だが、接近戦が弱点であるデーモンが二人を一気に相手に出来るなど到底思えない。
カズヤとキクノが剣の間合いに入ると、踏み込みと同時に斬撃を繰り出す。カズヤは右上段切りを、キクノは左水平斬りを繰り出した。
「!?」
突然隣から、声にならない呻き声が漏れる。
「なっ!?」
そして俺も同様に、呻き声を漏らした。
会心の一撃とも言える二人の斬撃を、ザルザードは両手の剣で軽々と受け止めている。
「……弱いな」
呆れた物言いで呟くと、受け止めていた剣を上に弾き、カズヤの腹部に向けて剣を突き刺した。
「ぐっ──!」
全身を貫く激痛に耐えかね、短い呻き声を漏らす。
だがカズヤは動きを止めず、ザルザードの腕に足を組み付けた。両足で肩を摑み、第一関節に当たる箇所に両腕を回す。
「うおぁぁ────ッ!!」
気合声を盛大に発しながら、両腕と両足に全力を注ぐ。三秒後、ザルザードの肩から、ゴキッ、と鈍い音が鳴り響いた。
「き……さまッ!」
叫んだザルザードは、空いた方の剣で右腕を切断し、切断した右腕ごと俺を噴水に向けて投げた。
俺はなんとか腹部に刺さる剣から抜け出し、噴水へと背中から落下した。
肺の酸素が一気に吐き出され、意識が軽く飛んだ。だが全身を苛む激痛が意識を連れ戻した。
「カズヤくん!!」
キクノの呼び声に反応する余力などなく、俺は噴水の中で仰向けに倒れたまま、起き上がることが出来なかった。
咄嗟に体術を使用したが、まさか自らの腕を切断するとまでは予想も出来なかったせいで受け身に失敗した。そのせいで、貫かれた腹部からの出血が更に酷くなってしまった。
──駄目だ……早く……治癒術を詠唱しなければ……。
緩慢な動作で右手を傷口にかざし、周囲の薄く漂った空間魔素を必死に集めようとする。だが口が上手く動かず、治癒術を詠唱することが出来ない。
この出血の勢いでいくと、俺は残り数十分で死ぬだろう。現に、徐々に意識が薄れていき、瞼が重くなってきている。
死が明確に近づいているというのに、カズヤは一切焦ることも、恐れることもなかった。
俺は既に、一人の人間を殺している。罪人である俺が死ぬことで、人々の中に蔓延る不安や恐怖が取り除かれるのであれば、それに越したことはない。
それに、ここで死ねば、もしかしたら元の世界に戻れる可能性が僅かながら存在する。
噴水の外から、剣の斬り合う音が聞こえてくる。きっとキクノがザルザードと必死に戦っているんだ。
接近戦が弱いと思っていたデーモンに敗北するのは負に落ちないが、命を賭けてまで片腕を奪ったんだ。悪くない──カッコいい散り際だろう。
人界のために戦うことが出来れば、それは誇らしい功績になるはず。単なる高校生が誰かの役に立って死ねるのであれば、本望だ。
本望…………いや、違う。
カズヤは突然、自分の中にあった人生の答えを全否定した。
俺は人界に貢献するために戦うんじゃない。俺は、人界を正すために戦いたいんだ。
人間の悪のほんの一部しか禁じない禁書目録に対して、愛すべき人界の民の記憶を奪い、空想の世界から召喚したという記憶を擦り込んだ存在を生み出す創世神に対して、間違ってると言うために戦ってきたんだと、今ならば断言出来る。
人界の未来も大事だ。だが、歪みを修正せずに進んだ未来に、真の平和も幸せも存在しない。
ユリの意思を、志を引き継いだ者として、俺はまだ死ねない。死ぬわけにはいかない。皆が自分の未来を自由に選び、幸せを得られる世界を作り上げるためにも、俺は戦ってみせる。
全身を苛み、戦おうとする意思を阻害する激痛を、譲れない確固たる意思で押し退け、腹部を左手で力強く抑え、音を立てながら無理矢理立ち上がる。
少し体を動かすだけでも辛く、意識を失うほどの激痛が走る。真っ直ぐ立つことすらままならず、足元がふらついてしまう。
左腕に巻き付けた鎖を解き、貫かれた腹部を保護するように乱雑に巻き付け、その場凌ぎの止血を試みる。出血の勢いは多少は和らいだが、焼き石に水なのは変わりない。
視線を前に向けると、片腕を失ったデーモンがキクノと凄まじい斬り合いを繰り広げていた。
キクノは、流石は天界の騎士と言うべきか、斬撃の繋ぎ目に一切無駄な動きもなく滑らかに繋げている。先程まで戦っていたのが恐ろしく強い存在なのだと再認識させられる。
だが、対するザルザードも見事と言える。
騎士の無駄がない連撃を全て、片腕だけで捌いている。それどころか、負けじと騎士に勇猛果敢にも攻めている。一瞬の隙間を発見すると、視認不可の速度で連続の突きを繰り出す。
俺では到底介入することの出来ない領域の戦いを、唖然と眺めることしか出来なかった。寧ろあの時、噴水に吹き飛ばされたことで騎士の負担は減り戦いやすくなったと言える。
いや、本当に戦い易くなっているのか?
カズヤは騎士の微かな異変に、客観的視点から気付くことが出来た。
俺と戦闘した時よりも、剣速が格段と落ちている。それに、何故騎士は左手だけで剣を振るっているのか、何故もう片方の手、右手を使わずに戦っているのか。
違う……使わないんじゃない。使えないんだ。
騎士だって気付いている。ザルザードの実力に。だというのに両手を使わないのは、使えない理由が存在するから。
右手の負傷。右手の骨が数本折れていることから、騎士は両手で剣を振ることが出来ず、満足に戦うことが出来ないんだろ。
そして、その直接的原因は俺にある。騎士の右手が負傷したのは、俺が全力の一撃を放ったからだ。
つまり、今騎士が押されているのは、結論を言えば俺のせいだと言える。
そしてこのままザルザードと斬り合いを続けていけば、確実に小ダメージが蓄積していき、いずれ決定的な隙を生まれ殺されてしまう。
だが、騎士はそれに気付いているはず。気付いていながら、逃げずに戦い続けているんだ。それが、騎士の使命なのだから。
奴をここから出せば、何の罪もない民が虐殺されてしまう。それを防ぐために騎士は、自分の身を顧みずに、逃げずに戦っているんだ。一人でも多くの、民を救うために。
俺はその時、騎士の背中姿が美しく見えた。傷付き血に塗れても、民が眠る場所を守るために戦う彼女が、美しく見えた。
──助けなければ……あの人を、ここで死なすわけにはいかない。
誇り高い意志を持つ騎士を助けなければいけない。元はと言えば、俺が脱獄さえしなければ彼女が負傷することもなかったのだから。
騎士を負傷させ、脱獄した罪を償わなければならない。それが──一時的にも共闘関係を結んだ騎士に対する礼儀であり、一人の男としての贖罪だ。
だがどうすればいい。手元に武器はないし、接近したところで今の俺では攻撃を避けることが出来ない。出来ることといえば精々、初歩的な素因を一つ詠唱することだけだ。
しかし、例え炎素を詠唱した所で、魔術構文を書き加えるほどの集中力は無い。単なる素因を飛ばすだけでは奴を仕留める事は出来ない。
必死に脳を回転させながら考えていると、カズヤは噴水近くに転がっているある物に気付いた。そして、転がっている物を利用することで現状打破を可能にすることに気付いた。
俺は音を殺しながら噴水から身を出し、近くに転がっている物──割れた酒瓶の欠片を握る。
複数の欠片を握り込み、あえて血塗れに染める。切れた掌に空間魔素を集中させ、風素に変換する。
握っていた欠片を上に放り投げ、眼前に降りてきた瞬間、
「解放……」
小声で呟き、風素をわざと素因爆発させる。一定方向に吹き荒れる暴風の勢いに乗って、複数の欠片がザルザードに向かって飛翔する。
欠片は血に塗れているため、月明かりを反射せず夜の闇に消えている。更には、一度倒れた俺に意識を向けていない。
ザルザードへの死角からの攻撃に、本人は勿論、騎士自身も気付いていない。酒瓶の欠片はザルザードのある一箇所目指して飛翔していく。
欠片が刺さった所で仕留められるほどの負傷は望めない。だが、ある一箇所に一つでも命中することで、勝利する可能性が一気に跳ね上がる。
その箇所とは、フードの奥から覗き込む、真紅の両眼。ご丁寧に存在を主張している両眼に一つでも命中すれば、大きな隙が生まれる。
その願いは、見事に叶った。
「グアッ!?」
野太い声を上げたザルザードは、突然顔を仰け反り、数歩後ろに後退した。目を凝らすと、左眼からぽたぽたと血を垂らしている。
「これは……ガラスの破片。まさか……」
左眼を抑えながらこちらに意識を向けると、視線を浴びただけで身震いしてしまうほどの憎悪を滲ませながら叫んだ。
「この餓鬼が! 殺してやる!」
殺意に満ちた声を上げ、ザルザードは剣を振り上げ、勢いよく投擲した。空気を斬り裂く音を立てながら接近する剣を、俺はただ真っ直ぐに見据えた。逃げる必要も、怯える必要もない。だって
頼りになる騎士が、仲間なのだから。
一切動じずに剣を見詰めていると、回転する剣を追いかけるように、一本の鎖が伸びてきた。鎖は剣に巻き付くと、後方へと投げ飛ばした。
「なにッ!?」
驚愕する声が鳴る直後、
「感謝するわカズヤくん。お陰で……」
次に聞こえたのは、騎士の剣がザルザードを斬る音だった。
右水平斬りが直撃したザルザードは、悲鳴一つ上げずに、背中から噴出する血の勢いに負けたのか、勢いよく地面に伏した。
そして、血濡れた剣を片手に持つキクノが、顔に付着した血を拭い、可憐な笑みをこちらに向けながら言った。
「下賤な輩に、一矢報いることが出来た」
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