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第二部・最終章 最高の騎士
第三十話
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二人の会話に含まれる言葉の意味を、セレナはほとんど汲み取ることができなかった。
──別の世界? 既に亡くなっている?
いま、あまねく人界を見通す力を持つ創世神様は、以前から特異な人物として認識していたカズヤの来歴と思しきことを、不思議な言葉で表した。
こことは違う世界。それはつまり、分断の壁の向こう──魔界を指すのだろうか?
いや、創世神様ならば、魔界についても詳細な知識を持っているはずだ。魔界にどんな街があるのか、そこにどのような人々が暮らしているのかを知らないなどということは考えられない。別の世界などという曖昧な言葉を使う必要はないのだ。
ということは、つまり──。
創世神様がその言葉を指し示したのは、彼女の眼すら届かない、こことは全く違う世界……? 魔界でも人界でもない……我々が決して認識することすらできない、もっと遠く、もっとかけ離れた、別の世界とでも言うべき場所……?
セレナにとって、その概念はあまりにも抽象的すぎて、自分の考えを的確に表す言葉すら思いつけなかった。しかし、自分がいま、何か途轍もなく重大な、世界の秘密とでも言うべきものに届きつつあることだけは直感できた。焼け付くようなもどかしさに襲われ、セレナは視線を動かして、巨大な窓の向こうに広がる青空を眺めた。
流れゆく白い雲の切れ間に、蒼く透き通る海が広がっている。
あの空の向こう側……カズヤが生まれた国はそこにあるのだろうか。そこはどのような場所なのだろうか。そしてカズヤ自身はそこで、どのように育ったのだろうか……。
数秒間続いた静寂を破ったのは、ゆっくりと顔を起こした黒髪の少年だった。
「もう……何も分からない」
覇気の欠片もない、情けない一言。
またもや胸に灯る火照りを意識しながら、少年の横顔を見つめた。血の気の失せた悲しみに染まった顔には、一切の希望など存在していなかった。
カズヤの眼が一瞬、ちらりとセレナに向けられた。黒い瞳に浮かぶ幾つもの感情、その中で最も大きいのは、助けを求めている懇願の光であるようにセレナには思えた。
それを読み取った途端、胸中で疼く感情が一際強まった。同時に、この感情がようやく解った。
彼──カズヤを護ってあげたい、助けてあげたいという思い。人族で言うならば、母性本能というべきものなのだろうか。
いつもそうだった。彼が傷つく、苦しむ度に、今と同じ疼きが湧いてくる。
でも……私には、今の彼を励ましてあげれる言葉を持っていない。
人はあまりにも辛いこと、悲しいことが起きると自らその記憶を失い、時には命すら落としてしまうことがある。
自分という存在が造られたモノ。並の人族ならば耐えられない真実を明かされ、自我を失わないのは流石──いや、違う世界の人間だからというべきだろうか。
カズヤのことは助けてあげたい。だが、今の私にはそれができない。
どうすべきが困惑し──答えを直感的に導き出した。
「カズヤ」
隣で未だ落胆する者の名を呼ぶ。
カズヤは、ゆっくりと顔だけをこちらに向けてきた。黒髪の向こうから見える双眸は、まだ助けを求める光が宿っている。だがその光は若干薄れており、今にも消えてしまいそうだった。
私が今からする発言は、もしかしたら事態を悪転させてしまうかもしれない。下手すれば、カズヤを傷つけてしまうかもしれない。
それでも私は彼の──意思の強さを信頼して言わせてもらう。
決心が付くと深く息を吸い、溜めてから、悠然と言い放つ。
「本心を言ってしまえば、私はお前が何者だろうと興味ありません」
辛辣な台詞を聞いたカズヤの眼から、先ほどまでの感情は一気に消え失せた。変わりに、驚愕が支配する。
「違う世界の民だろうと、私の使命は変わらない。特異点であるお前を護ることが私の使命。だから、お前が己の存在に絶望し、命を捨てるような真似をするのでしたら、私は全力で阻止します」
「ちょ、セレナちゃん!?」
向こうから創世神が止めようとする声が聞こえるも、セレナの言葉は止まることはなかった。
「天界の騎士には、召喚された瞬間から課せられる重大な使命があります。使命を任されるというのは、それ相応の強さがなければ為し得ないこと。お前が特異点に選ばれたのも、大いなる使命を果たすだけの力があるからに違いありません」
途端、カズヤは一瞬全身を強張らせ、両眼を見開く。
創世神様も何かを察したのか、今度は止めに入ろうとしなかった。
「たしかに、人界にはお前より優れた民は大勢います。しかし、お前にしかない力があるのも事実。その力があるから、お前は特異点に選ばれた。それだけの話ではないですか」
「そ……それだけだと……?」
「簡単な話じゃないですか。私がお前を邪教神からも、魔界軍からも護り抜けばそれで済む話なのですから。お前は黙って、私の後ろに隠れていればいいんです」
セレナの語り──説教とも取れる──を聞き終える頃には、カズヤの中にあった多くの感情はこの瞬間だけ消えていた。
あるのはただ一つ。裏の顔のセレナと対峙して、よく沸き起こる感情だった。
何かと言うと、具体的にはカチーンときた。
「女騎士団に遅れを取るような奴が随分偉そうな態度だな! この石頭騎士が!」
まるで子供のような難癖にセレナは、先ほどまでの落ち着いた物腰が一変し、白い顔が紅潮するほどの荒ぶりに変わった。
「お前は、また騎士を愚弄しましたね!」
「何度だって馬鹿にしてやるよ! 何が私の後ろに隠れてればいいだよ。女騎士団の時、後ろに隠れてたのはお前の方だろ!」
「あの時は、衛士を守っていただけです! 私だって、お前が来なければ一人で倒せてましたよ!」
「見え見えの嘘ついてんじゃねーよ。満身創痍で満足に剣も振れてなかっただろ!」
「あれは、体力を温存していただけです! 我々が、魔界の民に遅れを取るはずがないでしょう!」
「……二人とも、そこまでにしなさい」
子供の口喧嘩を止めたのは、創世神の一言だった。
二人はまだ言い足りないのかしばし睨み合ったが、少し経つと同時に顔を正面に向けた。
「……とにかく、セレナちゃんの言う通り、あなたが特異点に選ばれたのは、何か特別な理由があるからに違いないわ。それが何かは私には分からないけど、それについては二人で見つければいいわ」
「二人……? 誰ですか?」
カズヤの問いに、創世神は何故か悪戯な笑みを浮かべながら、視線を横に逸らした。それだけの動きで、彼女が考えてることが大体分かってしまった。
創世神は顔をこちらに戻すと、淡々とした表情で語った。
「別に、特異点であることが悪いことばかりじゃありません。あなたの肉体は魔術師が創造した特別性のため、意思の強さが大きく反映されます。具体的には解りませんが、意思の強さによっては騎士すら凌駕するかもしれません」
「へぇ。面白い体だな」
緊張感に欠ける感想を返し、ふと左腕を見下ろす。
今考えれば、全身を切られたり左腕を失ったというのに、たった二刻で完治したのは、造られた体だったからなんだろうか。もし生身ならば、少なくとも傷痕や後遺症は残るはずなのに。
たしかに、悪いことばかりじゃない。人体に魔石が組み込まれているのはあまりいい気分ではないが……。
「それでカズヤくん。もう、決まったかしら?」
物思いに沈むカズヤを呼び起こすように、創世神は訊ねた。
問いの意味は解ってる。このまま大人しく凍結処理され、勝敗が決まった世界で静かに暮らしていくか、特異点としての使命を見つけ出し、邪教神の野望を止めるのか、どちらを選ぶのかを聞いているのが。
「俺は……」
脳裏に、様々な葛藤や迷いが出てくる。
しかし、それらの思慮は全て捨て、カズヤは宣言した。
「俺は戦います。邪教神を倒して、魔界軍の侵攻も退けるために」
選択肢にない第三の道に、流石の創世神は驚きを隠せないのか、両眼を見開いている。隣も同様──此方は、呆れていると言った方が合っているが。
「特異点の使命が何かは解りません。解ってるのは、邪教神の思い通りにことを進ませてはいけないということです。付け足すなら、魔界軍の侵攻で人界を滅ばせるわけにもいきません」
まるで人界を救うのはおまけのような言い方に、創世神は耐えられなかったのか、
「ふふふ……」
短い笑い声を漏らした。
「随分と欲張ったわね。世界を救うついでに、民の命まで守るなんて、人とは思えないほどの欲望よ」
「どうせ、一度死んでるんです。だったら、何を望んでも構いませんよね」
不謹慎な自虐だと自覚しながら宣言すると、笑いが収まった創世神が、セレナに顔を向けた。
「セレナちゃんも、カズヤくんの力になってあげて。一人では難しくても、あなたたち二人なら……どんな苦難も乗り越えられるはずだから」
思慮深い台詞と、慈愛に満ちた声でそう告げる。セレナは微かに頰を緩めてから、凛とした声を返した。
「お任せください。我が身を賭けてでも、カズヤを護り切ってみせます」
右手を心臓の位置する箇所に添え、頭を下げながら宣言するセレナを見て、彼女は優しく微笑んだ。
騎士は創世神の使い魔という記憶が埋め込まれているが、絶対服従という指示までは出していない。それなのに、誇り高い彼女が一切の抵抗なく頭を下げるということは、それだけ彼女を尊敬していることになる。
──と、一瞬でも考えたのが馬鹿らしく思える台詞を、創世神は発した。
「頼もしいわね。その調子で、カズヤくんと夜の営みに励んじゃいなさい」
「「はっ!?」」
二人の驚愕した声が、完全に一致した。だが創世神は一切気にせず世迷言を続けた。
「何驚いてるのよ。二人はこれから何処に行くにも一緒に行動するのよ。セレナちゃんはカズヤくんの心身をケアする必要もあるし」
「何を仰るのですか創世神様! 悪い冗談はおやめください!」
顔を真っ赤にしながら物申すも、聞く耳を持たずに戯言を続けている。
「……もう知らん」
カズヤは素っ気ない一言を呟き、謎の口論を続ける二人に一瞥してから部屋を出て行った。
突然、激しい身震いに襲われて、俺は両眼を見開いた。
空中庭園にそびえ立つ樹に背中を預けて瞼を閉じていただけのつもりが、いつのまにか寝入ってしまったのだろうか。怖い夢を見て飛び起きた途端に、夢の内容を忘れてしまった……とでも言うかのように、恐怖と焦燥の余韻だけが頭の内側にこびり付いている。
神の庭園を降りてから、特に用事もないカズヤは、幼竜を空中庭園に置いてきたのを思い出し戻ってきた。その際、処理しきれない情報量が今になって一気に押し寄せてしまい、吐き気や頭痛が生じた。
そのため少しだけ仮眠を取ろうとしたが、まさか本気寝になってしまうとは……。
上体を起こしながらちらりと周囲を確認したが、変わったことは何一つなさそうだった。
しかし、一体何時間寝ていたんだろう。起きる前は太陽がまだ空にあったというのに、今は墨を刷いたような闇に覆われている。どれだけ視線を巡らせても、雲の隙間から幾つかの星が見えるだけで月の姿はない。
体感的には午前二時辺りだから、十時間以上は確実に寝ている、気がする。
でも、納得はいく。
邪教神と戦って体を乗っ取られたり、騎士長に殴られたり、衝撃の真実を告げられたりと、体と精神が休む暇がなかったんだから。
自分の体が作り物だった真実には心底驚いたが、セレナの言葉で大した問題に思えなくなったのは素直に凄いと思う。とはいえ、簡単に飲み込めない話なのは変わらないが。
だが着目する点は他にある。
それは、この体の特性について。
創世神の話では、意思の強さで身体能力が左右すると言われた。どれほど作用されるのかは自分でも詳しくは知らないでいるが、幸いにも体の使い方なら大体知ってる。知り得た方法は、あまり嬉しくはないが……。
「と、いけないな」
一人になると深く考えてしまう悪い癖が出てしまいそうになり、なんとか抑制する。休憩のために寝たのに、これではまた頭を使う羽目になる。
「……しかし、微妙な時間に起きたな」
今からもう一度寝るにも時間が掛かるし、すぐ起きてしまう気がする。教会内を彷徨くわけにはいかないし、一人で外に出るのも出来れば避けたい。
……仕方ないか。
何もせずぼーっと過ごすぐらいなら、体を動かしていた方がいい。そう判断したカズヤは、その場から立ち上がろうとし──。
自分に掛けられた白布に気付いた。
「なんだ、これ?」
白布を手に取り、注意深く観察する。細かいレースの縁取りがされた、染みひとつない純白の布は、温度調整の構文を書き加えた炎素が掛けられているらしく、丁度良い暖かさが保たれている。
──寝る前はこんもの掛けていなかったのに、一体誰が。
ここに立ち寄ったヒサカゲ……あの人の場合、俺を叩き起こしてすぐに修行させるに決まってる。創世神だとしても、彼女の場合はここではなく自室のベッドに連れて行ってくれる気がする。
そんなことを考えていると、視界の右端で煌めくものがあった。条件反射で顔を右に逸らし、
「──ッ!?」
思わず、絶句する。
微かな月明かりでも優美な輝きを放つ金髪の持ち主──セレナが、自分の肩に頭を乗せながら膝を抱えて座り、瞼を閉じている。スゥ、スゥ、と可愛らしい吐息を規則的に吐いているのを見る限り、彼女も寝ているんだろう。
──なんで!? なんで隣にセレナがいるんだ!?
突然すぎる事態に動揺しながら、どうにかして冷静さを取り戻すために、一度深呼吸する。のだが──。
「……カズ、ヤ」
急に名を呼ばれてしまい、吸った空気を吐き出さずに飲み込んでしまった。
息苦しさを無理矢理抑えながら、セレナの方を向く。どうやら寝言だったらしく、瞼は下されたままだった。
ふぅー、と胸を撫で下ろしながら、セレナの寝顔を無言で見つめる。
考えてみると、セレナと再会してから、彼女の姿を落ち着いて見たことがなかった。今まで何かと慌ただしかったせいもあるが、今の本人の性格がそれを許さないから。
──改めて見ると、本当に綺麗になったな。
一年半前は年相応の可愛らしい見た目だったのに、今では大人びた可憐さと凛とした美しさが備わっている。
一応は同い年だというのに、彼女の方が何倍も大人に見えてくる。単に俺が子供すぎるのもあるけど。
冷たい性格も影響して、より大人びた雰囲気を醸し出しているのかもしれない。でも、今の容姿で昔みたいに笑ってくれたら、それはそれで良い……。
「って、何考えてんだ俺」
セレナを目の前に変な妄想をしてしまった自分を恥じていると、
「クシュン……」
隣から、はっきりと聞こえるほどのくしゃみが聞こえた。よく見ると、寒さのせいか肩が震えている。
自分に掛けられていた白布をセレナに掛けると、震えはピタっと止まり、心地良さそうで幸せそうな顔で眠っている。
普段は辛辣なくせに、こういった所はまだ年相応の可愛らしい部分はあるんだなぁ、などと感慨深くなりながら頷くと、先ほどの疑惑の答えが直感的に導き出された。
まさか、こいつが白布を掛けてくれたのか?
冷徹無情の騎士が、俺の身を案じてくれたというのか。信じられないが、それ以外あり得ない。
「……ありがとう」
眠る騎士の頭を撫でながら囁くと、騎士は小さな声で応えた。
「う……ううん……」
身動ぎする騎士の息づかいが、俺の首筋をくすぐる。
「……いけない……つい、眠ってしまった……」
という呟きを漏らしてから、セレナは起き上がろうとしたようだが、自分に掛けられた布がずり落ちるのを見て、動きを止めた。
「この布は……カズヤ……お前、まさか、私の身を案じてくれたのですか……?」
その通り、少しは感謝してくれよ。と一人ごちたのも束の間。
「いやだ、お前、汗びっしょりじゃないですか! 私の服に染みが! 早く離れなさい!」
そんな叫びとともに布を投げられ、強力な力で押し出された。そのまま何の抵抗もできずに斜面を滑っていき、俺は後頭部を床に思い切りぶつけた。
「ひでえよ……あんまりだ……」
辛うじて登り切った俺は、樹に寄りかかって嘆いた。
しかし騎士様のほうは、俺に一切の興味を示さず、顔をしかめて白い布をパタパタ払っている。その手を止めたと思ったら、肩に乗せていた金髪をつまみ、鼻先に持っていっている。そんな様子を見れば、俺とても軽めの憎まれ口を叩かずにはいられない。
「そんなに気になるなら、お風呂でも入ってきたらどうですか、騎士どの?」
潔癖癖のあるセレナへの皮肉のつもりだったのだが、言われたほうは首を傾げ、思わぬ言葉を付け加えた台詞を放った。
「一理ありますね。なら、早く行きますよ」
「……え? なんで俺まで行く必要が?」
「忘れたのですか。お前は私の護衛対象なのだから、常に二人で行動するようにと創世神様が仰っていたではありませんか」
それもそうだけど……流石に教会内は大丈夫なんじゃないかな。
と、物申す寸前。
ぐぅ、と確かに聞こえる音が、俺の腹部周辺から情けなく鳴ってしまった。
よく考えれば、丸一日何も食ってない。最後に食したのは、昨日の朝に野営地で食べた質素な朝食だ。空っぽの胃をきりきりと苛む空腹もそろそろ限界に達しつつある。
右手でこっそり腹のあたりを押さえながら、俺は可能な限り真面目な顔と声で答えた。
「激闘の連続と、精神が支配されたりとかで心身ともに疲れ切ってるせいかなぁ……目が回りそうなくらい腹が減ってるんだよねぇ」
「……言っておきますが、教会内の食堂はこの時刻ではやってませんよ。開くのは、八時の鐘が鳴ってからです」
「マジかよー、なんとかならないのセレナ様ー」
「一度や二度食事が取れないくらいなんですか、子供じゃあるまいし」
「はいはい、どうせ子供ですよ。何せこちとら、まだぎりぎり育ち盛りの範疇なんでね。騎士様と違って、食べなきゃ動けないんだよ」
「言っておきますが、騎士とてお腹は空くし、食べねば満足に動くこともできません!」
きっと眦を吊り上げ、セレナはそう言い放った。
途端、くう、という可愛らしいサウンドが彼女の腹部周辺から発生し、俺は思わずふっと笑いをこぼしてしまった。
騎士様の顔は瞬時に赤くなり、次いで右手が素早く剣の柄を握るのを見て、慌てて五十センチほど後退る。
「ちょっと待って、俺が悪かった! そりゃそうだよな、騎士といえども人だもんな。そりゃ腹も減るし、眠くもなるよな」
白々しい言葉を並べながら身を縮めると、ロングスカートの右ポケットに何かが押し込まれている感触に気付いた。はて何を入れたっけと手を突っ込み、指先に触れたものの正体を思い出して、己の意地汚さに感謝する。
「見ろよこれ。いいものがあったぞ」
引っ張り出したのは、包装紙に巻かれた、二つの肉饅頭だった。神の庭園から退出する時に、ポケットに詰め込んでおいたのだ。半分は戴天にあげようと思っていたが、目の前に腹を空かせてる女の子がいるのだから、今回ばかりは流石に譲る。
「……なぜそんなものがポケットから出てくるのです」
セレナは心底呆れ返ったような顔になり、剣から手を離した。
「天の恵み、神の慈悲ってことだ」
絶対に違うフレーズで煙を巻きながら、包装紙を丁寧に剥がしていく。見た目はみすぼらしいが、空腹状態のせいか凄く美味しそうに見える。
とは言え、冷え切って固くなってしまった饅頭をそのまま齧っても美味くはあるまい。少し考えてから、左手を広げて炎素を唱える。
空中庭園は全体を支配するほどの植物があるせいか、新鮮で豊潤な空間魔素が漂っている。すぐに綺麗なオレンジ色の光点が掌の上に出現する。右手で摑んだ二つの饅頭を炎素に近づけ、解放構文を口にする。
「バー……」
スト、と続ける前に、横合いから稲妻の如く伸びた手が俺の口を押さえた。
「むぐっ!?」
「馬鹿ですかお前は! 解放したら、一瞬で黒焦げです!」
怒りと呆れと蔑みを等分ずつ瞳に浮かべて俺を罵ると、セレナは右手から饅頭をかっ攫った。ああっ、と情けない声を出した途端、左手の炎素も空気に溶けるように消えてしまう。騎士は、俺にはもう目もくれず、しなやかな左手を閃かせながら歌うように術式を口ずさむ。
親指から中指までの三本の指先に、炎素、水素、風素の光点が現れる。何をするつもりか、と首を傾げていると、セレナは追加の術式構文と指の動きで三つの素因に複雑な操作を加えた。まず風素で球形の渦を作り、二個の饅頭をその中に浮かべる。次いで、炎素と水素も渦に投じ、それらが触れ合った瞬間、解放。
じゅっ! という音とともに、風のバリアはたちまち真っ白に染まった。見た目は穏やかだが、バリアの内部は高温の蒸気が渦巻いているはずだ。
セレナは、複合魔術で蒸し器と同じ効果を発生させたというわけだ。
三十秒ほどで三つの素因は役割を終え、拡散するように消えた。空中からセレナの手に落ちてきた二つの饅頭は、まるで出来たてのように真ん丸く膨らみ、ほかほかと湯気を上げている。
空腹の絶頂に達した胃袋には殺人的な衝撃に、俺は思わず口走った。
「は、早くそれをくれ……って、あ、ああああ!?」
手を伸ばしかけた俺は、セレナが両手に持った二つの饅頭をいっぺんに食べようとするのを見て、かなり情けない悲鳴を発した。しかし幸い、騎士は直前で口を停止させ、真顔で「冗談です」と呟くと片方を俺に向けて突き出した。胸を撫で下ろしながら素早く受け取り、ふうふうと吹いてから大きく囓る。
蒸したての饅頭の、柔らかい皮と汁気たっぷりの肉餡の舌触りは俺をしばし桃源郷へと誘った。わずか三口で貴重な食料は胃へと到達してしまい、充足感と物足りなさを同時に味わいながら、俺はふぅーっと長い息をついた。
隣のセレナも、こちらは四口で饅頭を平らげ、俺と同じように切なげなため息を漏らした。戦闘の権化のような騎士にも、やはりそれなりに女の子らしいところはあるのだ、という感慨を覚えながら、俺は何気なく言った。
「なるほどね……。魔道具なしに、素因だけで饅頭を蒸せるとは思わなかったな。流石は、シスターの元で魔術の勉強をしてた、というところ……」
そう口にしかけた、その瞬間。
またしても猛烈なスピードで伸びた手が、俺の襟首を強く摑んだ。しかし今度は、セレナの顔に浮かんでいるのは呆れでも蔑みでもなかった。
瞳は火花の如き強烈な光を浮かべ、頬は蒼白に染まり、唇が小刻みに震えている。右手一本で俺をほとんど吊り上げながら、騎士は掠れた声を発した。
「お前、いま、何と言いました」
ここで俺はようやく、自分がとんでもない失言をしてしまったことを、余りにも遅まきながら自覚する。
二十センチの距離から俺を睨む天界の騎士が、コドールの見習い修道士のセレナだということは間違いないのだが、本人にその記憶はない。一年半前、俺が旅立ってから芽生えた新たな人格によって、本当の自分を見失ってしまったセレナには、俺と過ごして記憶など一切残ってない。
今のセレナは、自分が人界の平和と秩序を保ち、魔界の侵略と戦うために天界から召喚された騎士だと信じて──いや、そう思い込んでいる。ゆえに彼女は、自分が天界から召喚された存在と信じ込んでいる。
そんな相手に──そもそも、どれほど言葉を尽くそうと、それだけではセレナを納得させることはできないと予想したからこそ、彼女の意思を信じて待っていたのだ。心の支えになっていたらしい俺と一緒にいることで、セレナの失われた自我が蘇ると、創世神自身が言っていたのに。
たった一言で作戦をぶち壊しつつあるという焦りの中で、俺は、必死に頭を回転させた。セレナの表情を見れば、もはや言い間違いで押し通せる状況ではないことは明らかだ。
どう考えても、覚悟を決めて全てを話す以外に、選択肢はない。
数秒間の苦慮の経て、俺は決断を下した。セレナの、青い炎の如き視線を正面から受け止めながら口を開く。
「話すよ……君について、俺が知り得る限りのことを全部。君が受け入れるかどうかは判らないけど」
俺の短い言葉に何がしかのものを感じたのか、今度はセレナが数秒間逡巡してから、いきなり右手を開いた。
地面にどすんと尻餅を突く俺を、騎士は両膝立ちのままじっと見下ろしている。恐らく、俺同様に自分という存在に疑問を持ち始めているんだろう。騎士として、創世神の命令にのみ従う理性か、自分の知らないことを知りたいと欲する感情がせめぎ合っているはずだ。
やがて心を決めたのか、セレナはゆっくりと腰を落として正座に似た姿勢になると言った。
「……話しなさい。ただし……お前の言葉に、偽りが紛れ込んでると判断したら、その時点で斬り捨てます」
低く押し殺したセレナの声を聞き、俺は長々と息を吸い込んで腹に力を溜めてから、ぐっと頷いた。
「構わない。俺を斬るという判断が、本当の君自身の意思から出たものならな。何故そんなことを言うかというと……君の中には、君じゃない存在がいるからだ」
「……どういう、意味ですか。私の中に、私以外の者がいるというのですか」
「その通りだ」
頷いた途端、セレナの瞳が敵意を宿してすうっと細まる。しかし同時に、瞳の奥には仄かな感情の揺らぎも見て取れる。
あれこそが、セレナ本人の意思だろう。そこに向けて語りかければ、目覚めるかもしれない。
「天界の騎士は、神の代行者たる創世神によって、人界内の平和と秩序を維持するために人界から召喚された存在……と君たちは認識している。しかし、そう信じているのは、騎士だけだ。君たちは全員、元は人界の民なんだ」
「何を……馬鹿なことを」
「事実だ。創世神によって認められた善なる魂を持つ人間、禁書目録を違反するだけの意思を持つ者を選び抜き、それらから人界で暮らしていた人格と記憶を抜き取り、騎士という偽りの人格を植え付けられ存在……いうならば、俺と同じ偽りの存在なんだよ」
「我々騎士も、お前と同じ偽りの存在……? あるはずがない、そんな愚かしいこと。私は多くの騎士たちと接してきましたが、誰一人として、自分は元々人界の民だったと言った者などいませんでした」
「さっきも言ったろ。君らは人だから、腹も減るし、眠らなきゃ満足に動けないんだって」
俺は背筋をまっすぐに伸ばし、騎士の瞳を覗き込んだ。その奥に必ずあるはずの、セレナの失われた人としての心に向かって懸命に呼びかける。
「だが君は、創世神の手によって偽りの人格を植え付けられていない」
「なんですって……? なら私は、本当に天界から……」
「違う。君は天界で生まれても、育ってもいない。君は、人界の辺境地に位置する小さな村・コドールにある教会の見習い修道士なんだ」
「…………それが、先程お前が言っていた言葉の意味ですか」
「ああ。俺が君を知っているのは、そこで君と一緒に暮らしていたからだ」
「……嘘は、やめなさい。私は、お前と過ごした記憶も……コドールと呼ばれる村で過ごした記憶も、ありません……」
白銀騎士の毅然たる声は、尻すぼみに揺らいで消えた。
瞬間、俺は悟った。失われた自我は、村での記憶を、本人も自覚できない心の深奥で強く求めている。
慎重に言葉を選びながら、俺は説明を再開した。
「厳しい言い方をさせてもらうけど、村でのセレナは君とは真逆の性格で、誰にでも優しい女の子だった。でも今の君は、あの頃のセレナの面影を一切感じない。まるで、全く別の人格が植え付けられたように」
「どうゆうことですか……先程、お前自身が言ったではありませんか。私には、偽りの人格が植え付けられていないと。お前の話が真実なのだとしたら、今の私はどこから来たと言うのですか!」
「君は、本当のセレナが作り出した、もう一つの人格……騎士たちと同じ、本来存在しちゃいけない存在なんだ」
「……信じられない……お前の話に、信憑性の欠片もない……そんな話、到底受け入れられない」
これまで、創世神と騎士の無垢の神聖性を信じて疑わなかったのであろう天界の騎士は、いやいやをする子供のように首を左右に振った。
「他の騎士たちが、記憶を弄ばれて造られた虚像で、私自身も、本当はいてはいけない存在だったなんて……」
「今すぐには受け入れられない話かもしれないが、全部本当のことだ。俺がこの真実を知っているのは、他でもない創世神自身が話してくれたからだ」
「そんな……認めない。私は、人界の平和と秩序を維持するために、民が安心して過ごせる明日を守るために召喚されたのに……」
それは違う。と即座に否定しかけたが、少し開いた口をすぐに閉じる。
騎士は本来、存在してはならない存在であるのは事実だ。だが、彼らがいてくれたから、人界の平和と秩序が保たれていたのもまた事実。如何なる理由があろうと、彼らが人界にもたらした功績は、決して虚像のものではない。
目の前で困惑する彼女は、何かを思い出したように顔を上げ、震えた唇を必死に動かした。
「お前は先程、騎士に選ばれるのは、禁書目録を違反した者も含まれると言いましたね。……まさか、私も、その業を犯したのですか……?」
彼女の問いに、カズヤは少し不安そうに眼を伏せ、躊躇うように頷く。
「君は禁書目録を違反した。何をしたまでは解らないが、自分の意思で故意的に違反し、教会に連行されてきたと、創世神自らが言っていた」
「そんな……じゃあ、私はお前と同じ、罪人だというのですか……?」
眉をひそめ、セレナは再び口を閉じた。星明かりの下で青ざめて見える顔にまっすぐ視線を向け、懸命に語りかける。
「勘違いしないでほしい。君は比較的軽い罪を犯して、教会に連行されたんだ。そして、罪を犯したのは君自身が正しいと信じた正義を実現させるためにした、苦渋の決断なんだ。元のセレナは、自分の周りの人が傷つくのを恐れて、力を欲した。でも、村の修道士の彼女では限界がある。……だからセレナは、禁書目録を違反してまで力を手に入れた。自分が護りたい人を護るための、力を……」
ここからは、完全に自分の憶測が混じっていた。でも、絶対に間違っていないと断言できる。
彼女の性格や意思を信じる者ならば、誰でも容易に考察できる話を聞いた騎士は、蒼ざめた頬がかすかに震え、ほとんど声にならない声が、か細く流れた。
「……如何なる理由があろうと、罪は罪です。……例えそれが、正しいと言われようが……私は、罪人です……私という存在が、民を不安に……」
己に落胆したように視線を落とす彼女に、俺は無意識に発した
「それは違う。君がいなければ、救えなかった人が沢山いる。騎士セレナという存在がいたから、多くの人は救われているんだ。君自身がそれを否定してしまっては、救われた人たちは誰に感謝すればいいんだ」
「ですが、お前のいうことが真実ならば、私はセレナという少女の体を支配していることは変わりません! 本来なら、コドールでお前の帰りを待つはずだったのに……」
そこで、セレナが口をつぐんだ。
俺も、彼女が知り得ないはずの言葉に、反射的に答えてしまった。
「何故君が、それを知っているんだ。それは、俺が村を旅立つ時に、セレナと交わした約束だぞ」
先ほどまでの動揺は消え去り、陶器のように白い顔はもう微動だにしない。
セレナの唇が動き、短い音が発せられた。
「分からない」
続けて、もう一度。
「分からない……」
瞳が、頭上の星空に向けられる。
「……思い出せない。でも、頭の中に、誰かの声が響き続けている。あの日の約束を、ずっと待ち続けていると……」
「セレナ……」
俺は息を呑んで呼びかけたが、もはやセレナは俺の存在など目に入らぬ様子で、尚も密やかに囁いた。
「カズヤくん……何度も呼んでいた。毎日、毎晩……出会うまで、顔も、声も覚えていないのに……ずっと、何回も呼んでいた」
セレナの、長い睫毛に透明な液体が珠となって宿り、星の光を受けて煌めきながら零れ落ちるのを、俺は信じられないものを見る気持ちで見詰めた。涙はあとからあとから湧き出して、俺とセレナの間の地面に落下し、かすかな音を立てる。
「以前から……お前に助けられたあの日から、頭の中で声が響いていた。それが誰なのか、ずっと分からなかったけど、今なら分かる。……声の主が、お前と共に過ごした、少女なのだと」
たどたどしいその声は、やがて細い嗚咽へと変わった。
無意識のうちに伸ばした俺の右手を、セレナは自分の手の甲で強く払った。
「見るな!」
濡れた声でそう叫んだセレナは、右手で乱暴に俺の胸を衝き、左手で何度も目許を拭った。しかし涙はいっこうに止まらず、とうとう騎士は両手で顔を押さえつけ、激しく肩を震わせ始めた。
「う……うぐっ……ううっ……」
声を押し殺し、嗚咽を漏らし続ける騎士を見ているうちに、いつしか俺の両眼にも滲むものがあった。
俺は──。
俺は、大馬鹿野郎だ!
どんな形であれ、彼女という人格は生きているのに、存在そのものを否定するような言い方をして。本当のセレナを取り戻すためなら、容赦なく消そうとして、俺は最低だ。
自分が一番よく知ってるじゃないか。本当の自分が、本当ならいない存在だと知らされた時の、哀しみを。
見つけ出すしかない──。
今のセレナが消滅しない方法を。
本来のセレナに戻ることは、騎士セレナという人格の消滅に他ならない。
あるべき形に戻るだけだ。今までそう自分に言い聞かせていたが、俺は、目の前で子供のように泣きじゃくる騎士が憐れだと思うことをやめられなかった。
──別の世界? 既に亡くなっている?
いま、あまねく人界を見通す力を持つ創世神様は、以前から特異な人物として認識していたカズヤの来歴と思しきことを、不思議な言葉で表した。
こことは違う世界。それはつまり、分断の壁の向こう──魔界を指すのだろうか?
いや、創世神様ならば、魔界についても詳細な知識を持っているはずだ。魔界にどんな街があるのか、そこにどのような人々が暮らしているのかを知らないなどということは考えられない。別の世界などという曖昧な言葉を使う必要はないのだ。
ということは、つまり──。
創世神様がその言葉を指し示したのは、彼女の眼すら届かない、こことは全く違う世界……? 魔界でも人界でもない……我々が決して認識することすらできない、もっと遠く、もっとかけ離れた、別の世界とでも言うべき場所……?
セレナにとって、その概念はあまりにも抽象的すぎて、自分の考えを的確に表す言葉すら思いつけなかった。しかし、自分がいま、何か途轍もなく重大な、世界の秘密とでも言うべきものに届きつつあることだけは直感できた。焼け付くようなもどかしさに襲われ、セレナは視線を動かして、巨大な窓の向こうに広がる青空を眺めた。
流れゆく白い雲の切れ間に、蒼く透き通る海が広がっている。
あの空の向こう側……カズヤが生まれた国はそこにあるのだろうか。そこはどのような場所なのだろうか。そしてカズヤ自身はそこで、どのように育ったのだろうか……。
数秒間続いた静寂を破ったのは、ゆっくりと顔を起こした黒髪の少年だった。
「もう……何も分からない」
覇気の欠片もない、情けない一言。
またもや胸に灯る火照りを意識しながら、少年の横顔を見つめた。血の気の失せた悲しみに染まった顔には、一切の希望など存在していなかった。
カズヤの眼が一瞬、ちらりとセレナに向けられた。黒い瞳に浮かぶ幾つもの感情、その中で最も大きいのは、助けを求めている懇願の光であるようにセレナには思えた。
それを読み取った途端、胸中で疼く感情が一際強まった。同時に、この感情がようやく解った。
彼──カズヤを護ってあげたい、助けてあげたいという思い。人族で言うならば、母性本能というべきものなのだろうか。
いつもそうだった。彼が傷つく、苦しむ度に、今と同じ疼きが湧いてくる。
でも……私には、今の彼を励ましてあげれる言葉を持っていない。
人はあまりにも辛いこと、悲しいことが起きると自らその記憶を失い、時には命すら落としてしまうことがある。
自分という存在が造られたモノ。並の人族ならば耐えられない真実を明かされ、自我を失わないのは流石──いや、違う世界の人間だからというべきだろうか。
カズヤのことは助けてあげたい。だが、今の私にはそれができない。
どうすべきが困惑し──答えを直感的に導き出した。
「カズヤ」
隣で未だ落胆する者の名を呼ぶ。
カズヤは、ゆっくりと顔だけをこちらに向けてきた。黒髪の向こうから見える双眸は、まだ助けを求める光が宿っている。だがその光は若干薄れており、今にも消えてしまいそうだった。
私が今からする発言は、もしかしたら事態を悪転させてしまうかもしれない。下手すれば、カズヤを傷つけてしまうかもしれない。
それでも私は彼の──意思の強さを信頼して言わせてもらう。
決心が付くと深く息を吸い、溜めてから、悠然と言い放つ。
「本心を言ってしまえば、私はお前が何者だろうと興味ありません」
辛辣な台詞を聞いたカズヤの眼から、先ほどまでの感情は一気に消え失せた。変わりに、驚愕が支配する。
「違う世界の民だろうと、私の使命は変わらない。特異点であるお前を護ることが私の使命。だから、お前が己の存在に絶望し、命を捨てるような真似をするのでしたら、私は全力で阻止します」
「ちょ、セレナちゃん!?」
向こうから創世神が止めようとする声が聞こえるも、セレナの言葉は止まることはなかった。
「天界の騎士には、召喚された瞬間から課せられる重大な使命があります。使命を任されるというのは、それ相応の強さがなければ為し得ないこと。お前が特異点に選ばれたのも、大いなる使命を果たすだけの力があるからに違いありません」
途端、カズヤは一瞬全身を強張らせ、両眼を見開く。
創世神様も何かを察したのか、今度は止めに入ろうとしなかった。
「たしかに、人界にはお前より優れた民は大勢います。しかし、お前にしかない力があるのも事実。その力があるから、お前は特異点に選ばれた。それだけの話ではないですか」
「そ……それだけだと……?」
「簡単な話じゃないですか。私がお前を邪教神からも、魔界軍からも護り抜けばそれで済む話なのですから。お前は黙って、私の後ろに隠れていればいいんです」
セレナの語り──説教とも取れる──を聞き終える頃には、カズヤの中にあった多くの感情はこの瞬間だけ消えていた。
あるのはただ一つ。裏の顔のセレナと対峙して、よく沸き起こる感情だった。
何かと言うと、具体的にはカチーンときた。
「女騎士団に遅れを取るような奴が随分偉そうな態度だな! この石頭騎士が!」
まるで子供のような難癖にセレナは、先ほどまでの落ち着いた物腰が一変し、白い顔が紅潮するほどの荒ぶりに変わった。
「お前は、また騎士を愚弄しましたね!」
「何度だって馬鹿にしてやるよ! 何が私の後ろに隠れてればいいだよ。女騎士団の時、後ろに隠れてたのはお前の方だろ!」
「あの時は、衛士を守っていただけです! 私だって、お前が来なければ一人で倒せてましたよ!」
「見え見えの嘘ついてんじゃねーよ。満身創痍で満足に剣も振れてなかっただろ!」
「あれは、体力を温存していただけです! 我々が、魔界の民に遅れを取るはずがないでしょう!」
「……二人とも、そこまでにしなさい」
子供の口喧嘩を止めたのは、創世神の一言だった。
二人はまだ言い足りないのかしばし睨み合ったが、少し経つと同時に顔を正面に向けた。
「……とにかく、セレナちゃんの言う通り、あなたが特異点に選ばれたのは、何か特別な理由があるからに違いないわ。それが何かは私には分からないけど、それについては二人で見つければいいわ」
「二人……? 誰ですか?」
カズヤの問いに、創世神は何故か悪戯な笑みを浮かべながら、視線を横に逸らした。それだけの動きで、彼女が考えてることが大体分かってしまった。
創世神は顔をこちらに戻すと、淡々とした表情で語った。
「別に、特異点であることが悪いことばかりじゃありません。あなたの肉体は魔術師が創造した特別性のため、意思の強さが大きく反映されます。具体的には解りませんが、意思の強さによっては騎士すら凌駕するかもしれません」
「へぇ。面白い体だな」
緊張感に欠ける感想を返し、ふと左腕を見下ろす。
今考えれば、全身を切られたり左腕を失ったというのに、たった二刻で完治したのは、造られた体だったからなんだろうか。もし生身ならば、少なくとも傷痕や後遺症は残るはずなのに。
たしかに、悪いことばかりじゃない。人体に魔石が組み込まれているのはあまりいい気分ではないが……。
「それでカズヤくん。もう、決まったかしら?」
物思いに沈むカズヤを呼び起こすように、創世神は訊ねた。
問いの意味は解ってる。このまま大人しく凍結処理され、勝敗が決まった世界で静かに暮らしていくか、特異点としての使命を見つけ出し、邪教神の野望を止めるのか、どちらを選ぶのかを聞いているのが。
「俺は……」
脳裏に、様々な葛藤や迷いが出てくる。
しかし、それらの思慮は全て捨て、カズヤは宣言した。
「俺は戦います。邪教神を倒して、魔界軍の侵攻も退けるために」
選択肢にない第三の道に、流石の創世神は驚きを隠せないのか、両眼を見開いている。隣も同様──此方は、呆れていると言った方が合っているが。
「特異点の使命が何かは解りません。解ってるのは、邪教神の思い通りにことを進ませてはいけないということです。付け足すなら、魔界軍の侵攻で人界を滅ばせるわけにもいきません」
まるで人界を救うのはおまけのような言い方に、創世神は耐えられなかったのか、
「ふふふ……」
短い笑い声を漏らした。
「随分と欲張ったわね。世界を救うついでに、民の命まで守るなんて、人とは思えないほどの欲望よ」
「どうせ、一度死んでるんです。だったら、何を望んでも構いませんよね」
不謹慎な自虐だと自覚しながら宣言すると、笑いが収まった創世神が、セレナに顔を向けた。
「セレナちゃんも、カズヤくんの力になってあげて。一人では難しくても、あなたたち二人なら……どんな苦難も乗り越えられるはずだから」
思慮深い台詞と、慈愛に満ちた声でそう告げる。セレナは微かに頰を緩めてから、凛とした声を返した。
「お任せください。我が身を賭けてでも、カズヤを護り切ってみせます」
右手を心臓の位置する箇所に添え、頭を下げながら宣言するセレナを見て、彼女は優しく微笑んだ。
騎士は創世神の使い魔という記憶が埋め込まれているが、絶対服従という指示までは出していない。それなのに、誇り高い彼女が一切の抵抗なく頭を下げるということは、それだけ彼女を尊敬していることになる。
──と、一瞬でも考えたのが馬鹿らしく思える台詞を、創世神は発した。
「頼もしいわね。その調子で、カズヤくんと夜の営みに励んじゃいなさい」
「「はっ!?」」
二人の驚愕した声が、完全に一致した。だが創世神は一切気にせず世迷言を続けた。
「何驚いてるのよ。二人はこれから何処に行くにも一緒に行動するのよ。セレナちゃんはカズヤくんの心身をケアする必要もあるし」
「何を仰るのですか創世神様! 悪い冗談はおやめください!」
顔を真っ赤にしながら物申すも、聞く耳を持たずに戯言を続けている。
「……もう知らん」
カズヤは素っ気ない一言を呟き、謎の口論を続ける二人に一瞥してから部屋を出て行った。
突然、激しい身震いに襲われて、俺は両眼を見開いた。
空中庭園にそびえ立つ樹に背中を預けて瞼を閉じていただけのつもりが、いつのまにか寝入ってしまったのだろうか。怖い夢を見て飛び起きた途端に、夢の内容を忘れてしまった……とでも言うかのように、恐怖と焦燥の余韻だけが頭の内側にこびり付いている。
神の庭園を降りてから、特に用事もないカズヤは、幼竜を空中庭園に置いてきたのを思い出し戻ってきた。その際、処理しきれない情報量が今になって一気に押し寄せてしまい、吐き気や頭痛が生じた。
そのため少しだけ仮眠を取ろうとしたが、まさか本気寝になってしまうとは……。
上体を起こしながらちらりと周囲を確認したが、変わったことは何一つなさそうだった。
しかし、一体何時間寝ていたんだろう。起きる前は太陽がまだ空にあったというのに、今は墨を刷いたような闇に覆われている。どれだけ視線を巡らせても、雲の隙間から幾つかの星が見えるだけで月の姿はない。
体感的には午前二時辺りだから、十時間以上は確実に寝ている、気がする。
でも、納得はいく。
邪教神と戦って体を乗っ取られたり、騎士長に殴られたり、衝撃の真実を告げられたりと、体と精神が休む暇がなかったんだから。
自分の体が作り物だった真実には心底驚いたが、セレナの言葉で大した問題に思えなくなったのは素直に凄いと思う。とはいえ、簡単に飲み込めない話なのは変わらないが。
だが着目する点は他にある。
それは、この体の特性について。
創世神の話では、意思の強さで身体能力が左右すると言われた。どれほど作用されるのかは自分でも詳しくは知らないでいるが、幸いにも体の使い方なら大体知ってる。知り得た方法は、あまり嬉しくはないが……。
「と、いけないな」
一人になると深く考えてしまう悪い癖が出てしまいそうになり、なんとか抑制する。休憩のために寝たのに、これではまた頭を使う羽目になる。
「……しかし、微妙な時間に起きたな」
今からもう一度寝るにも時間が掛かるし、すぐ起きてしまう気がする。教会内を彷徨くわけにはいかないし、一人で外に出るのも出来れば避けたい。
……仕方ないか。
何もせずぼーっと過ごすぐらいなら、体を動かしていた方がいい。そう判断したカズヤは、その場から立ち上がろうとし──。
自分に掛けられた白布に気付いた。
「なんだ、これ?」
白布を手に取り、注意深く観察する。細かいレースの縁取りがされた、染みひとつない純白の布は、温度調整の構文を書き加えた炎素が掛けられているらしく、丁度良い暖かさが保たれている。
──寝る前はこんもの掛けていなかったのに、一体誰が。
ここに立ち寄ったヒサカゲ……あの人の場合、俺を叩き起こしてすぐに修行させるに決まってる。創世神だとしても、彼女の場合はここではなく自室のベッドに連れて行ってくれる気がする。
そんなことを考えていると、視界の右端で煌めくものがあった。条件反射で顔を右に逸らし、
「──ッ!?」
思わず、絶句する。
微かな月明かりでも優美な輝きを放つ金髪の持ち主──セレナが、自分の肩に頭を乗せながら膝を抱えて座り、瞼を閉じている。スゥ、スゥ、と可愛らしい吐息を規則的に吐いているのを見る限り、彼女も寝ているんだろう。
──なんで!? なんで隣にセレナがいるんだ!?
突然すぎる事態に動揺しながら、どうにかして冷静さを取り戻すために、一度深呼吸する。のだが──。
「……カズ、ヤ」
急に名を呼ばれてしまい、吸った空気を吐き出さずに飲み込んでしまった。
息苦しさを無理矢理抑えながら、セレナの方を向く。どうやら寝言だったらしく、瞼は下されたままだった。
ふぅー、と胸を撫で下ろしながら、セレナの寝顔を無言で見つめる。
考えてみると、セレナと再会してから、彼女の姿を落ち着いて見たことがなかった。今まで何かと慌ただしかったせいもあるが、今の本人の性格がそれを許さないから。
──改めて見ると、本当に綺麗になったな。
一年半前は年相応の可愛らしい見た目だったのに、今では大人びた可憐さと凛とした美しさが備わっている。
一応は同い年だというのに、彼女の方が何倍も大人に見えてくる。単に俺が子供すぎるのもあるけど。
冷たい性格も影響して、より大人びた雰囲気を醸し出しているのかもしれない。でも、今の容姿で昔みたいに笑ってくれたら、それはそれで良い……。
「って、何考えてんだ俺」
セレナを目の前に変な妄想をしてしまった自分を恥じていると、
「クシュン……」
隣から、はっきりと聞こえるほどのくしゃみが聞こえた。よく見ると、寒さのせいか肩が震えている。
自分に掛けられていた白布をセレナに掛けると、震えはピタっと止まり、心地良さそうで幸せそうな顔で眠っている。
普段は辛辣なくせに、こういった所はまだ年相応の可愛らしい部分はあるんだなぁ、などと感慨深くなりながら頷くと、先ほどの疑惑の答えが直感的に導き出された。
まさか、こいつが白布を掛けてくれたのか?
冷徹無情の騎士が、俺の身を案じてくれたというのか。信じられないが、それ以外あり得ない。
「……ありがとう」
眠る騎士の頭を撫でながら囁くと、騎士は小さな声で応えた。
「う……ううん……」
身動ぎする騎士の息づかいが、俺の首筋をくすぐる。
「……いけない……つい、眠ってしまった……」
という呟きを漏らしてから、セレナは起き上がろうとしたようだが、自分に掛けられた布がずり落ちるのを見て、動きを止めた。
「この布は……カズヤ……お前、まさか、私の身を案じてくれたのですか……?」
その通り、少しは感謝してくれよ。と一人ごちたのも束の間。
「いやだ、お前、汗びっしょりじゃないですか! 私の服に染みが! 早く離れなさい!」
そんな叫びとともに布を投げられ、強力な力で押し出された。そのまま何の抵抗もできずに斜面を滑っていき、俺は後頭部を床に思い切りぶつけた。
「ひでえよ……あんまりだ……」
辛うじて登り切った俺は、樹に寄りかかって嘆いた。
しかし騎士様のほうは、俺に一切の興味を示さず、顔をしかめて白い布をパタパタ払っている。その手を止めたと思ったら、肩に乗せていた金髪をつまみ、鼻先に持っていっている。そんな様子を見れば、俺とても軽めの憎まれ口を叩かずにはいられない。
「そんなに気になるなら、お風呂でも入ってきたらどうですか、騎士どの?」
潔癖癖のあるセレナへの皮肉のつもりだったのだが、言われたほうは首を傾げ、思わぬ言葉を付け加えた台詞を放った。
「一理ありますね。なら、早く行きますよ」
「……え? なんで俺まで行く必要が?」
「忘れたのですか。お前は私の護衛対象なのだから、常に二人で行動するようにと創世神様が仰っていたではありませんか」
それもそうだけど……流石に教会内は大丈夫なんじゃないかな。
と、物申す寸前。
ぐぅ、と確かに聞こえる音が、俺の腹部周辺から情けなく鳴ってしまった。
よく考えれば、丸一日何も食ってない。最後に食したのは、昨日の朝に野営地で食べた質素な朝食だ。空っぽの胃をきりきりと苛む空腹もそろそろ限界に達しつつある。
右手でこっそり腹のあたりを押さえながら、俺は可能な限り真面目な顔と声で答えた。
「激闘の連続と、精神が支配されたりとかで心身ともに疲れ切ってるせいかなぁ……目が回りそうなくらい腹が減ってるんだよねぇ」
「……言っておきますが、教会内の食堂はこの時刻ではやってませんよ。開くのは、八時の鐘が鳴ってからです」
「マジかよー、なんとかならないのセレナ様ー」
「一度や二度食事が取れないくらいなんですか、子供じゃあるまいし」
「はいはい、どうせ子供ですよ。何せこちとら、まだぎりぎり育ち盛りの範疇なんでね。騎士様と違って、食べなきゃ動けないんだよ」
「言っておきますが、騎士とてお腹は空くし、食べねば満足に動くこともできません!」
きっと眦を吊り上げ、セレナはそう言い放った。
途端、くう、という可愛らしいサウンドが彼女の腹部周辺から発生し、俺は思わずふっと笑いをこぼしてしまった。
騎士様の顔は瞬時に赤くなり、次いで右手が素早く剣の柄を握るのを見て、慌てて五十センチほど後退る。
「ちょっと待って、俺が悪かった! そりゃそうだよな、騎士といえども人だもんな。そりゃ腹も減るし、眠くもなるよな」
白々しい言葉を並べながら身を縮めると、ロングスカートの右ポケットに何かが押し込まれている感触に気付いた。はて何を入れたっけと手を突っ込み、指先に触れたものの正体を思い出して、己の意地汚さに感謝する。
「見ろよこれ。いいものがあったぞ」
引っ張り出したのは、包装紙に巻かれた、二つの肉饅頭だった。神の庭園から退出する時に、ポケットに詰め込んでおいたのだ。半分は戴天にあげようと思っていたが、目の前に腹を空かせてる女の子がいるのだから、今回ばかりは流石に譲る。
「……なぜそんなものがポケットから出てくるのです」
セレナは心底呆れ返ったような顔になり、剣から手を離した。
「天の恵み、神の慈悲ってことだ」
絶対に違うフレーズで煙を巻きながら、包装紙を丁寧に剥がしていく。見た目はみすぼらしいが、空腹状態のせいか凄く美味しそうに見える。
とは言え、冷え切って固くなってしまった饅頭をそのまま齧っても美味くはあるまい。少し考えてから、左手を広げて炎素を唱える。
空中庭園は全体を支配するほどの植物があるせいか、新鮮で豊潤な空間魔素が漂っている。すぐに綺麗なオレンジ色の光点が掌の上に出現する。右手で摑んだ二つの饅頭を炎素に近づけ、解放構文を口にする。
「バー……」
スト、と続ける前に、横合いから稲妻の如く伸びた手が俺の口を押さえた。
「むぐっ!?」
「馬鹿ですかお前は! 解放したら、一瞬で黒焦げです!」
怒りと呆れと蔑みを等分ずつ瞳に浮かべて俺を罵ると、セレナは右手から饅頭をかっ攫った。ああっ、と情けない声を出した途端、左手の炎素も空気に溶けるように消えてしまう。騎士は、俺にはもう目もくれず、しなやかな左手を閃かせながら歌うように術式を口ずさむ。
親指から中指までの三本の指先に、炎素、水素、風素の光点が現れる。何をするつもりか、と首を傾げていると、セレナは追加の術式構文と指の動きで三つの素因に複雑な操作を加えた。まず風素で球形の渦を作り、二個の饅頭をその中に浮かべる。次いで、炎素と水素も渦に投じ、それらが触れ合った瞬間、解放。
じゅっ! という音とともに、風のバリアはたちまち真っ白に染まった。見た目は穏やかだが、バリアの内部は高温の蒸気が渦巻いているはずだ。
セレナは、複合魔術で蒸し器と同じ効果を発生させたというわけだ。
三十秒ほどで三つの素因は役割を終え、拡散するように消えた。空中からセレナの手に落ちてきた二つの饅頭は、まるで出来たてのように真ん丸く膨らみ、ほかほかと湯気を上げている。
空腹の絶頂に達した胃袋には殺人的な衝撃に、俺は思わず口走った。
「は、早くそれをくれ……って、あ、ああああ!?」
手を伸ばしかけた俺は、セレナが両手に持った二つの饅頭をいっぺんに食べようとするのを見て、かなり情けない悲鳴を発した。しかし幸い、騎士は直前で口を停止させ、真顔で「冗談です」と呟くと片方を俺に向けて突き出した。胸を撫で下ろしながら素早く受け取り、ふうふうと吹いてから大きく囓る。
蒸したての饅頭の、柔らかい皮と汁気たっぷりの肉餡の舌触りは俺をしばし桃源郷へと誘った。わずか三口で貴重な食料は胃へと到達してしまい、充足感と物足りなさを同時に味わいながら、俺はふぅーっと長い息をついた。
隣のセレナも、こちらは四口で饅頭を平らげ、俺と同じように切なげなため息を漏らした。戦闘の権化のような騎士にも、やはりそれなりに女の子らしいところはあるのだ、という感慨を覚えながら、俺は何気なく言った。
「なるほどね……。魔道具なしに、素因だけで饅頭を蒸せるとは思わなかったな。流石は、シスターの元で魔術の勉強をしてた、というところ……」
そう口にしかけた、その瞬間。
またしても猛烈なスピードで伸びた手が、俺の襟首を強く摑んだ。しかし今度は、セレナの顔に浮かんでいるのは呆れでも蔑みでもなかった。
瞳は火花の如き強烈な光を浮かべ、頬は蒼白に染まり、唇が小刻みに震えている。右手一本で俺をほとんど吊り上げながら、騎士は掠れた声を発した。
「お前、いま、何と言いました」
ここで俺はようやく、自分がとんでもない失言をしてしまったことを、余りにも遅まきながら自覚する。
二十センチの距離から俺を睨む天界の騎士が、コドールの見習い修道士のセレナだということは間違いないのだが、本人にその記憶はない。一年半前、俺が旅立ってから芽生えた新たな人格によって、本当の自分を見失ってしまったセレナには、俺と過ごして記憶など一切残ってない。
今のセレナは、自分が人界の平和と秩序を保ち、魔界の侵略と戦うために天界から召喚された騎士だと信じて──いや、そう思い込んでいる。ゆえに彼女は、自分が天界から召喚された存在と信じ込んでいる。
そんな相手に──そもそも、どれほど言葉を尽くそうと、それだけではセレナを納得させることはできないと予想したからこそ、彼女の意思を信じて待っていたのだ。心の支えになっていたらしい俺と一緒にいることで、セレナの失われた自我が蘇ると、創世神自身が言っていたのに。
たった一言で作戦をぶち壊しつつあるという焦りの中で、俺は、必死に頭を回転させた。セレナの表情を見れば、もはや言い間違いで押し通せる状況ではないことは明らかだ。
どう考えても、覚悟を決めて全てを話す以外に、選択肢はない。
数秒間の苦慮の経て、俺は決断を下した。セレナの、青い炎の如き視線を正面から受け止めながら口を開く。
「話すよ……君について、俺が知り得る限りのことを全部。君が受け入れるかどうかは判らないけど」
俺の短い言葉に何がしかのものを感じたのか、今度はセレナが数秒間逡巡してから、いきなり右手を開いた。
地面にどすんと尻餅を突く俺を、騎士は両膝立ちのままじっと見下ろしている。恐らく、俺同様に自分という存在に疑問を持ち始めているんだろう。騎士として、創世神の命令にのみ従う理性か、自分の知らないことを知りたいと欲する感情がせめぎ合っているはずだ。
やがて心を決めたのか、セレナはゆっくりと腰を落として正座に似た姿勢になると言った。
「……話しなさい。ただし……お前の言葉に、偽りが紛れ込んでると判断したら、その時点で斬り捨てます」
低く押し殺したセレナの声を聞き、俺は長々と息を吸い込んで腹に力を溜めてから、ぐっと頷いた。
「構わない。俺を斬るという判断が、本当の君自身の意思から出たものならな。何故そんなことを言うかというと……君の中には、君じゃない存在がいるからだ」
「……どういう、意味ですか。私の中に、私以外の者がいるというのですか」
「その通りだ」
頷いた途端、セレナの瞳が敵意を宿してすうっと細まる。しかし同時に、瞳の奥には仄かな感情の揺らぎも見て取れる。
あれこそが、セレナ本人の意思だろう。そこに向けて語りかければ、目覚めるかもしれない。
「天界の騎士は、神の代行者たる創世神によって、人界内の平和と秩序を維持するために人界から召喚された存在……と君たちは認識している。しかし、そう信じているのは、騎士だけだ。君たちは全員、元は人界の民なんだ」
「何を……馬鹿なことを」
「事実だ。創世神によって認められた善なる魂を持つ人間、禁書目録を違反するだけの意思を持つ者を選び抜き、それらから人界で暮らしていた人格と記憶を抜き取り、騎士という偽りの人格を植え付けられ存在……いうならば、俺と同じ偽りの存在なんだよ」
「我々騎士も、お前と同じ偽りの存在……? あるはずがない、そんな愚かしいこと。私は多くの騎士たちと接してきましたが、誰一人として、自分は元々人界の民だったと言った者などいませんでした」
「さっきも言ったろ。君らは人だから、腹も減るし、眠らなきゃ満足に動けないんだって」
俺は背筋をまっすぐに伸ばし、騎士の瞳を覗き込んだ。その奥に必ずあるはずの、セレナの失われた人としての心に向かって懸命に呼びかける。
「だが君は、創世神の手によって偽りの人格を植え付けられていない」
「なんですって……? なら私は、本当に天界から……」
「違う。君は天界で生まれても、育ってもいない。君は、人界の辺境地に位置する小さな村・コドールにある教会の見習い修道士なんだ」
「…………それが、先程お前が言っていた言葉の意味ですか」
「ああ。俺が君を知っているのは、そこで君と一緒に暮らしていたからだ」
「……嘘は、やめなさい。私は、お前と過ごした記憶も……コドールと呼ばれる村で過ごした記憶も、ありません……」
白銀騎士の毅然たる声は、尻すぼみに揺らいで消えた。
瞬間、俺は悟った。失われた自我は、村での記憶を、本人も自覚できない心の深奥で強く求めている。
慎重に言葉を選びながら、俺は説明を再開した。
「厳しい言い方をさせてもらうけど、村でのセレナは君とは真逆の性格で、誰にでも優しい女の子だった。でも今の君は、あの頃のセレナの面影を一切感じない。まるで、全く別の人格が植え付けられたように」
「どうゆうことですか……先程、お前自身が言ったではありませんか。私には、偽りの人格が植え付けられていないと。お前の話が真実なのだとしたら、今の私はどこから来たと言うのですか!」
「君は、本当のセレナが作り出した、もう一つの人格……騎士たちと同じ、本来存在しちゃいけない存在なんだ」
「……信じられない……お前の話に、信憑性の欠片もない……そんな話、到底受け入れられない」
これまで、創世神と騎士の無垢の神聖性を信じて疑わなかったのであろう天界の騎士は、いやいやをする子供のように首を左右に振った。
「他の騎士たちが、記憶を弄ばれて造られた虚像で、私自身も、本当はいてはいけない存在だったなんて……」
「今すぐには受け入れられない話かもしれないが、全部本当のことだ。俺がこの真実を知っているのは、他でもない創世神自身が話してくれたからだ」
「そんな……認めない。私は、人界の平和と秩序を維持するために、民が安心して過ごせる明日を守るために召喚されたのに……」
それは違う。と即座に否定しかけたが、少し開いた口をすぐに閉じる。
騎士は本来、存在してはならない存在であるのは事実だ。だが、彼らがいてくれたから、人界の平和と秩序が保たれていたのもまた事実。如何なる理由があろうと、彼らが人界にもたらした功績は、決して虚像のものではない。
目の前で困惑する彼女は、何かを思い出したように顔を上げ、震えた唇を必死に動かした。
「お前は先程、騎士に選ばれるのは、禁書目録を違反した者も含まれると言いましたね。……まさか、私も、その業を犯したのですか……?」
彼女の問いに、カズヤは少し不安そうに眼を伏せ、躊躇うように頷く。
「君は禁書目録を違反した。何をしたまでは解らないが、自分の意思で故意的に違反し、教会に連行されてきたと、創世神自らが言っていた」
「そんな……じゃあ、私はお前と同じ、罪人だというのですか……?」
眉をひそめ、セレナは再び口を閉じた。星明かりの下で青ざめて見える顔にまっすぐ視線を向け、懸命に語りかける。
「勘違いしないでほしい。君は比較的軽い罪を犯して、教会に連行されたんだ。そして、罪を犯したのは君自身が正しいと信じた正義を実現させるためにした、苦渋の決断なんだ。元のセレナは、自分の周りの人が傷つくのを恐れて、力を欲した。でも、村の修道士の彼女では限界がある。……だからセレナは、禁書目録を違反してまで力を手に入れた。自分が護りたい人を護るための、力を……」
ここからは、完全に自分の憶測が混じっていた。でも、絶対に間違っていないと断言できる。
彼女の性格や意思を信じる者ならば、誰でも容易に考察できる話を聞いた騎士は、蒼ざめた頬がかすかに震え、ほとんど声にならない声が、か細く流れた。
「……如何なる理由があろうと、罪は罪です。……例えそれが、正しいと言われようが……私は、罪人です……私という存在が、民を不安に……」
己に落胆したように視線を落とす彼女に、俺は無意識に発した
「それは違う。君がいなければ、救えなかった人が沢山いる。騎士セレナという存在がいたから、多くの人は救われているんだ。君自身がそれを否定してしまっては、救われた人たちは誰に感謝すればいいんだ」
「ですが、お前のいうことが真実ならば、私はセレナという少女の体を支配していることは変わりません! 本来なら、コドールでお前の帰りを待つはずだったのに……」
そこで、セレナが口をつぐんだ。
俺も、彼女が知り得ないはずの言葉に、反射的に答えてしまった。
「何故君が、それを知っているんだ。それは、俺が村を旅立つ時に、セレナと交わした約束だぞ」
先ほどまでの動揺は消え去り、陶器のように白い顔はもう微動だにしない。
セレナの唇が動き、短い音が発せられた。
「分からない」
続けて、もう一度。
「分からない……」
瞳が、頭上の星空に向けられる。
「……思い出せない。でも、頭の中に、誰かの声が響き続けている。あの日の約束を、ずっと待ち続けていると……」
「セレナ……」
俺は息を呑んで呼びかけたが、もはやセレナは俺の存在など目に入らぬ様子で、尚も密やかに囁いた。
「カズヤくん……何度も呼んでいた。毎日、毎晩……出会うまで、顔も、声も覚えていないのに……ずっと、何回も呼んでいた」
セレナの、長い睫毛に透明な液体が珠となって宿り、星の光を受けて煌めきながら零れ落ちるのを、俺は信じられないものを見る気持ちで見詰めた。涙はあとからあとから湧き出して、俺とセレナの間の地面に落下し、かすかな音を立てる。
「以前から……お前に助けられたあの日から、頭の中で声が響いていた。それが誰なのか、ずっと分からなかったけど、今なら分かる。……声の主が、お前と共に過ごした、少女なのだと」
たどたどしいその声は、やがて細い嗚咽へと変わった。
無意識のうちに伸ばした俺の右手を、セレナは自分の手の甲で強く払った。
「見るな!」
濡れた声でそう叫んだセレナは、右手で乱暴に俺の胸を衝き、左手で何度も目許を拭った。しかし涙はいっこうに止まらず、とうとう騎士は両手で顔を押さえつけ、激しく肩を震わせ始めた。
「う……うぐっ……ううっ……」
声を押し殺し、嗚咽を漏らし続ける騎士を見ているうちに、いつしか俺の両眼にも滲むものがあった。
俺は──。
俺は、大馬鹿野郎だ!
どんな形であれ、彼女という人格は生きているのに、存在そのものを否定するような言い方をして。本当のセレナを取り戻すためなら、容赦なく消そうとして、俺は最低だ。
自分が一番よく知ってるじゃないか。本当の自分が、本当ならいない存在だと知らされた時の、哀しみを。
見つけ出すしかない──。
今のセレナが消滅しない方法を。
本来のセレナに戻ることは、騎士セレナという人格の消滅に他ならない。
あるべき形に戻るだけだ。今までそう自分に言い聞かせていたが、俺は、目の前で子供のように泣きじゃくる騎士が憐れだと思うことをやめられなかった。
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