異世界転生 剣と魔術の世界

小沢アキラ

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第三部・一章 一年後の人界

第二話

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 明くる十の月は、この秋いちばんの冷え込みとなった。
 散歩は取りやめにして、セレナと二人、ストーブの傍で過ごした。本格的な冬が来る前に薪をたっぷり作ってしまったが、どうやら使う機会はなさそうだ。
 丸一日かけて書き終えた二枚の手紙を丁寧に折りたたみ、帯をかけて、ペックとシスターの名前を表書きする。二つを手紙を並べてテーブルに置く。
 別れと謝罪の手紙だった。キクノに知られてしまったこの家には、もう居られない。次は確実に騎士長自身が俺たちを説得に来る。その時、師匠に告げるべき言葉を、二人は持たない。
 だから、逃げ出すのだ。
 細く長いため息を漏らしながら、カズヤは顔を上げ、向かいに座る女騎士を見やった。
「なぁセレナ。次はどこに行きたい? この時期の西域にある森には、沢山の果実が実るからそこにするか? それとも、ちょっと遠いけど東域の高原地帯がいいかな。冬が過ぎると、綺麗な桜が見れるらしいぜ」
 ことさら明るい声を出してみたものの、場の重い雰囲気が和むことはない。
 セレナをまた流浪の生活に連れ出さねばならないと思うと胸が痛む。しかし、だからと言ってコドールに置いていくわけにもいかない。シスターやペックに無理な頼み事はできないし、またカズヤ自身もそうしたくない。いまやセレナの面倒をみることだけが、カズヤに残されたただ一つの生きる理由なのだから。
「そうね。行き先はあなたに任せるわ。……そろそろ寝ましょうか、明日は早く起きなきゃいけないから」
「……そうだな」
 力なく頷き、セレナを着替えさせてからベッドに入れ、自分も寝巻き姿になって灯りを消してから、カズヤは毛布の下に潜り込んだ。
 毛布から顔を出し、隣のセレナの頭を優しく撫でる。するとセレナは、こちらの肩に頭を乗せて、嬉しそうに微笑みながら瞼を閉じた。
 結局、この一年でセレナの右足が動くことはなかった。落ち着いた環境で、空間魔素も豊潤に漂うここ以上に最適な安息の地はないと思っていたが、やはりそう簡単に解決するほど安易な問題ではなかった。
 だが、本当にそれだけの問題なのだろうか……。
 彼女は仮にも騎士として過ごしていた。偽りの人格とはいえ、過ごした時間は偽りなんかじゃない。
 騎士としての心得を持つ彼女ならば、俺よりも現状を打破するだけの意思力を持っているに違いない。
 本人だって、今のままではいけないと分かってるはず。
 ならば何故、もう一度己の足で立ち上がろうとしないんだ。今の人界には余裕がないことを知っておきながら、それを成し遂げないのは一体…………。
「……って、俺に言われたくないよな」
 隣で眠るセレナに聞こえないほどの小声で囁き、カズヤもゆっくりと瞼を下ろす。
 未だ悩み続ける俺なんかが、彼女の選択に口を出す権利などない。ただ俺は、彼女を側で守り続けるだけだ……。
 そんなことを考えてかすかに微笑みながら、カズヤは浅い眠りの淵へと沈んでいく。
 
 突然、触れ合う体に小さな震えが伝わった。
 重い瞼を、どうにか持ち上げる。東側の窓に左眼を向けるが、カーテンの隙間から見える空はまだ真っ暗だ。感覚的にも、眠っていたのはせいぜい二、三時間だろう。
 再び、ぴくりと体を強張らせるセレナに、カズヤは囁きかけた。
「もう少し寝てよう……まだ夜中なんだから」
 再び瞼を閉じながら、セレナの頭をさすって寝かしつけようとする。しかし、かすかに開いた窓から入り込むかすかなによって、眠気が遠くに吹き飛んだ。
 森の香りだけを含んでいる夜風に紛れ込む、独特の。鼻の奥に突き刺さるような、焦げ臭さ──。
 その時、カズヤの耳に、今度は窓の外からの音が届いた。
「グルル、グルルルッ!」
 空き地の片隅で寝ているはずの二匹の鳴き声。主に警戒を促すような、鋭く甲高い響きを帯びている。
 異常に気付いたカズヤは床に飛び降りて、居間から焔天剣を奪い取ってから、玄関扉を押し開けた。途端、冷たい夜風が吹き込んでくる。
 靴を履きながら、カズヤは前庭へと飛び降りた。ぐるりと夜空を見渡した途端、鋭く息を呑む。
 西と南の空が、燃えている。
 不吉な朱色の光は、間違いなく巨大な炎の照り返しだ。じっと眼を凝らすと、星空を横切る何本もの黒煙と──異質な生物が見て取れる。
 ──あいつは!?
 この世の生物とは思えないほど醜悪な姿をしたそれを、見間違うわけがない。あれは、魔界側が創造した人造生物だ。
 一瞬の困惑を、すぐに打ち消す。焦げ臭い風にのってかすかに届いてきたのは、金属が打ち鳴らされる音と──大勢の悲鳴。
 敵襲だ。
 魔界の軍勢が、コドールの村を襲っているのだ。
「……戴天たいてんッ!!」
 名を呼び、駆け出す。
 戴天はすぐに身を起こし、両翼をいっぱいに広げた。
 その背中に飛び乗り、手綱を握る。
 だが、そこから手が動かなかった。
 村人は何があっても助ける。しかし、現状ではそれが難しい。
 全員を可能な限り救おうとしたら、魔界軍と正面から戦わねばならない。だが、今の腑抜けた自分に、そんな力が残されているだろうか。
 それだけじゃない。今のうちにマガツヒを排除しなくては、例え今村を襲っている敵を排除できても、第二の被害を被ることになる。
 どうするべきか苦悩していると──。
 小屋の中から、セレナが姿を現した。
 はっと両眼を見開く。薄暗い闇の中で、椅子が一脚倒れ、その傍らで騎士が必死に這いずっている。
「……セレナ……」
 カズヤは、飛び乗った背中から降りて、セレナの傍らに駆け寄った。
 近づいて分かった。セレナの格好が変わっていることに。
 白銀の鎧で全身を覆い隠し、腰には華焔剣を携えている。両眼には、一年前に宿していた意思よりも気高く、美しい光がある。
 緩慢な動作の目的は明らかだ。伸ばされた腕が、真っ直ぐに、飛竜を指している。
「セレナ……おまえ……」
 カズヤの胸から喉を、熱いものが塞いだ。ぼんやりと視界を歪ませるものが涙だと気付くのに、少し時間がかかった。
「私は……ずっと後悔してた……」
 掠れた声を漏らしながら、セレナは体を一瞬たりとも止めようとせず、ひたすらに飛竜を目指す。
「生かしてもらった身でありながら、一度の恐怖に屈していたことを……あなたから、戦う意思を奪ってしまったことを、ずっと後悔していた。でも、昨日、キクノ殿の話を聞いて、分かったわ」
 頰を伝う煌めく液体を拭いながら、セレナは両手を地に突き立てる。
「私の力を必要とする人たちがいる……その人たちのためにも、私は足を止めるわけにはいかない。それが、騎士である私の使命であり……意思だから!」
 天に向かって叫び、両腕に力が込められる。右足が小刻みに震えながらも、かすかに動いたのを、カズヤは見逃さなかった。
 恐怖で竦み上がった脚を、民を守る意思だけで克服しようとしているのか。
 その行為は、恐怖と真っ向から向き合う行為に等しい。普通の人間はその段階に至る前に恐怖に押し潰されてしまうのに、セレナは恐れることなく、死の恐怖と向き合った。そして、恐怖を打ち破った。
 そんな馬鹿げたこと、絶対に有り得ない。意思力が作用されるのは魔術や剣の質といった間接的な要因だけ。人体に直接関与するなど、一部を除いて存在しない。
 というのが、一般的な理屈だ。
 この瞬間だけ、カズヤは理屈をかなぐり捨てた。
 如何なる状況に於いても、人の意思に勝るものはない。騎士である彼女の、民を守る意思が、彼女を支配した恐怖よりも勝ったというだけの話だ。
 助け起こすつもりなど、微塵もない。必要ないのだから。
 俺は久しく忘れていた。彼女──セレナは、人界を守護する最強の騎士、天界の騎士であることを。
 今日まで一切動くことのなかった右足が、地を踏む。それにつられもう片方の足も地に着くと、ゆっくりと、しかし着実に背筋を伸ばす。
 強い意思を宿す両眼が、カズヤを見据える。それだけで、彼女の考えを読み解くことができる。
 ……余計な心配だったな。
 自分の中にあった悩みが、蝋燭の火のようにうっすらと消えていくのを噛みしめながら、身を翻す。
「村人たちを助けに行く。……やれるな?」
「愚問ですね。誰に聞いているのですか」
 懐かしいやりとりに思わず笑いながら、戴天の背に飛び乗る。
「俺はマガツヒを排除する。お前は村の方を頼む」
 飛竜に跨ったセレナが、鋭い声で返した。
「任せなさい! ……お前も、きをつけて」
 ばさっ! と銀色の両翼が打ち鳴らされ、短い助走を経て、飛竜は一気に夜空へと舞い上がった。

 少し高度を取っただけで、コドールの惨状がくっきりと見て取れた。盛んに炎を吹き上げているのは、主に村の南側だ。
 やはり襲撃者たちは、コモレヴィの森にある洞窟から壁を抜けてきたのだろう。
 キクノ殿の報告では異常はなかったと聞いている。あれからたった一日で大量の瓦礫を撤去してのけたのならば、この襲撃のために動員された兵士の数は十や二十ではあるまい。
 古くから、壁を貫く洞窟に、少数の部隊が忍び込み、人界で悪事を働くことはあった。カズヤも、転生して間もない時に、洞窟内でゴブリンと戦ったと言っていた。しかし、これほど大規模かつあからさまな襲撃は聞いたことがない。
 やはり、魔界全体に、人界への侵攻の機運が高まっているのだろうか。
 セレナがそのような思考を巡らせる間にも、飛竜は深い森を一息に飛び越え、コドール付近の麦畑上空に到達した。
 手綱は引き、飛竜に滞空の指示を伝える。
 セレナは身を乗り出し、村の様子に眼を凝らした。南側に伸びる大通りは炎に赤々と照らし出され、押し寄せる襲撃者たちの影がくっきりと見て取れる。飛び跳ねるように走るのは、俊敏なゴブリンたち。少し離れて、大柄なオークたちも押し寄せている。
 中央広場の南側には、家具や木材を積み上げた急拵えの防御線が築かれているが、既にゴブリン部隊の先陣はそこまで到達していて、障害物越しに打ち合わされる白刃がちかちかと光る。
 応戦しているのは村の衛士と屈強な男達だ。だが、人数も装備も練度も、ゴブリン部隊にさえ及ばないだろう。このままでは、後方から地響きを立てて接近しつつあるオーク部隊に、ひとたまりもなく粉砕されてしまう。
 いますぐ戦いのど真ん中に飛び降りたい気持ちを抑え込み、状況確認を続ける。
 村の東側や西側にも、幾つかの火の手が上がっている。しかし広場から北はまだ無傷なようだ。衛士を除く村人たちは北の門から脱出し、開拓地まで避難しているのが見て取れる。
 だが、このペースでは全員の避難は間に合わない。まだ広場には、半分以上の村人が取り残されている。
 セレナは再び飛竜の首を叩き、広場の真上まで前進させるとひと言叫んだ。
五月雨サミダレ、呼ぶまでここで待機!」
 そして、数十メルの高みから、躊躇うことなく身を躍らせた。外套の裾を激しくはためかせながら、冷たい夜気を切り裂いて落下する。
 円形に固まった三百人あまりの村人たちは、一応は応戦する意思があるのか、外周に鋤や大鎌などの農具を携えた男たちを配置していた。その傍らで盛んに指示を飛ばしている二人の男のすぐ近くに、セレナは着地した。
 二人の男たち──村長と雑貨屋の店主バルバロッサは、いきなり頭上から降ってきた人影に度肝を抜かれて押し黙った。
 セレナは、生まれた静寂を逃さずに大声で叫んだ。
「全員、早くここから北の開拓地へ逃げなさい! いまならまだ間に合います!」
 セレナの指示を聞いた男たちは、顔にいっそうの驚きを浮かべた。
 しかし、我に返ったバルバロッサの口から出たのは、野太い怒声だった。
「馬鹿を言うな! 村を捨てて逃げろというのか!!」
 額に青筋を立てる店主に、セレナは語気鋭く反駁した。
「いまならまだ、亜人どもに追いつかれることなく逃げられます! しかしなおここに残り続ければ、多くの命が散ることになります!」
 ぐっ、と言葉を詰めるバルバロッサに代わって、村長が、低く張り詰めた声を発した。
「黙らんか。罪人であるお前の言うことを聞く道理も規則も、この村にはない」
 今度は、セレナが言葉を失う番だった。
 禁書目録違反を犯した罪人は、その瞬間に人界の民ではなくなる。人外の言葉に耳を貸せ、などという項目は、撤廃された禁書目録にも、村の掟にも記されていない。
 どうする。どうすれば──。
 ここに来たのがカズヤならば、きっと奇想天外なことを言って即刻避難させているはず。でも今の私には、村人を納得させるだけの言葉など持ち合わせていない。
 立ち尽くすセレナの耳に、今度は店主の甲高い喚き声が届いた。
「……解ったぞ! 村に亜人を引き連れてきたのは、お前たちだな! 森に身を置いていたのも、魔界の民を村に引き入れるためだったんだな!」
 太い指をつきつけられ、セレナは絶句した。村人たちのざわめきも、防御線で鳴り響く剣戟も、南から迫りつつある亜人の鬨の声も、すうっと遠ざかった。
 村外れで暮らし始めてから、カズヤは村人の依頼を嫌な顔せず引き受けていた。その度に、村人は身を捩らんばかりに感謝していた。
 私のことを侮辱するのは一向に構わない。だが、カズヤまで侮辱されたとなれば、許しておけない。
 セレナは、オークの如き醜悪な表情を浮かべる中年男から眼を逸らし、内心で呟いた。
 ──ここまで腐っているなんて……。
 ──創世神様。もう、私には無理です。ここまで腐った人族を守るなど、私には出来ません。
 ぎりっと奥歯を噛み締め、瞼を閉じ。
 でも、と思考を続けた。
 ──でも、こんな彼らでも、カズヤは愛していた。助けようとしている。
 彼は言っていた。禁書目録があるせいで、人は考える力と戦う力を失った、と。そんな人たちを守れるのは、力を持つ者だけだと。
 とある日、依頼の内容に比べて報酬が少ないことに疑問を感じたセレナは、それとなくカズヤに訊ねた。
 ──巨木を何本も切り倒したのに、なんで銀貨三枚だけで満足しているの? 普通なら、金貨二枚は渡されるのに。
 相応の報酬を受け取る権利ぐらいは、彼にもある。巨木一本倒すのに一週間は掛かるというのに、半日で数本も倒したのだから、今回の報酬は不当なものだと、本人も気付いてるはず。
 なのに、彼は笑いながら言った。
 ──いいんだよ。あの人たちが喜んでくれるなら、俺はそれでいい。
 当時はよく解らなかった。
 彼らは確実に、カズヤを下に見ていた。禁書目録違反者だと知った途端、無理難題な要求ばかり押しつけて、不当な報酬で誤魔化していたのが許せなかった。
 村人に抗議しようと、何度も言い寄った。だがカズヤは、一度もしなかった。

 ──
 
 善意とは渡すものじゃない。ただ与え続けるものだ。
 人界に住む人々にだって悪意はある。それが本来の人間なんだからね。でも、それを恨むのは間違ってる。
 どんな悪人や善人も、等しく意思や命を持った生き物なんだ。少しの価値観の違いや概念の違いを持つ、尊い命なんだよ。……俺は、そんな彼らの力になることで、少しでも変えていきたいんだ。
 罪を犯した人もまた、あなた方と同じ人間なんだって。そうなればきっと、君のことを、みんなは受け入れてくれるよ。

 大きく息を吸い、吐いて、セレナは音がしそうなほどの勢いで両の眼を見開いた。
 視線の先で、バルバロッサが不意に、怯えるかのように顔色を失った。
 対照的に、セレナの体の奥から、不思議な力が満ち溢れてくるのを感じていた。静かだが、何よりも熱い、青白い炎にも似た力。この至福の一年の間に失われてしまったと思っていた──意思の力が。
 大きく息を吸い、セレナは告げた。
「……騎士として命じます。この広場に集う村人は全員、武器を持つ者を先頭にして、開拓地へ退避しなさい」
 声音は穏やかだったが、バルバロッサは見えない手に打たれたかのように上体を仰け反らせた。それでも、わななく声で言い返したのは、いっそ見上げた胆力と言うべきだろう。
「き……騎士とはなんだ!? そんな職、この村にはない! 少し前まで歩けなかった罪人が、勝手に騎士を名乗るなぞ、中都の騎士様に知られたらどうなるか……」
 泡を飛ばして喚き続けるバルバロッサをしかと見据えながら、セレナは左手で外套の右肩部分を摑んだ。
「私は……私の名は、天界より創世神様に召喚された、天界の騎士セレナ!!」
 高らかに名乗るとともに、外套を体から引き剝がす。
 全身を覆っていた分厚い布が取り払われた途端、燃えさかる炎の色が白銀の鎧と華焔剣を反射し、眩く煌めいた。
「な……て、て、天界の騎士……!?」
 完全に裏返った声を漏らしたバルバロッサが、仰天顔のままどすんと尻餅をつく。他の村人も両眼を大きく見開く。
 セレナの名乗りが、偽りであることは有り得ない。何故ならこの世界に、天界の騎士を詐称する──すなわち創世神様を否定できる人間がいるはずがないからだ。それが可能なのは恐らくカズヤとセレナの二人だけだが、今も、セレナは騎士の証たる剣を捨てたわけではない。
 周囲でざわめいていた村人たちも、しんと押し黙った。防御線で鳴り響く剣戟も、衛士やゴブリンたちの雄叫びも遠ざかった。
 最初に静寂を破ったのは、シスター・マムだった。
「セレ……ナ……」
 胸の前で両手を握り合わせているシスターに顔を向け、頭を下げた。
「いままで黙っていて申し訳ありません。最初から私は、記憶喪失ではなかったんです。……これが、禁書目録違反をした私に与えられた罰。そして──本当の責務なのです」
 その言葉を聞いたシスターの両眼に、涙の珠が浮かんだ。
「そうですか……こんな立派になって……。これほど嬉しいことが、他にありますか。あなたが、罪を償うために。綺麗……なんて綺麗なの……」
 次に動いたのは、村長だった。
 ガッと固い音を立てて石畳に跪いた村長は、顔を伏せながらも張りのある声で叫んだ。
「御命令、確かに承知しました、騎士殿!!」
 素早く立ち上がり、背後の村人たちに向き直ると、簡潔な指示を発する。
「全員、起立!! 武器を持つ者を先頭に、北門へ走るのだ!! 既に退避した村人たちを連れて、開拓地に逃げ込め!!」
 固まって立つ村人たちの間に、不安そうなざわめきが走った。だがそれも一瞬のことだった。村長の命令に抗うという選択はもとより村人には有り得ないし、しかも騎士の意を受けているとなれば尚更だ。
 外周を固めていた男たちが立ち上がり、女性や子供、老人たちにも立つように促す。集団の先頭に加わろうとするシスターを呼び止め、セレナは押し殺した声で告げた。
「シスター……子供たちを頼みます」
 シスターの厳しい表情がほんの一瞬だけ揺らぎ、同じように短い言葉を返した。
「…………あなたも、無理しないでね」
 こくりと頷き、子供たちの背を押し、シスターの隣に行かせた。
「セレナ……絶対死なないでね」
 涙を滲ませたままの子供たちに微笑みながら頷きかけると、セレナは体を北に向けた。背後で、村人たちが一斉に動き出す。
 村人を動かすことには成功したが、何せ三百人だ。全員が村から脱出するには時間がかかる。しかし防御線はそろそろ限界のようだし、東西からも敵の足音が迫りつつある。
 その時、広場の南側で、若い男の悲鳴にも似た絶叫が響いた。
「もうだめだ! 退け! 退け──っ!!」
 声の主はペックだろう。それを聞いた途端、バルバロッサが勢いづいたように立ち上がり、セレナに食ってかかった。
「だから言ったんだ! 広場に立てこもって防ぐべきだったと! 殺されるぞ! 皆殺しにされるぞ!」
 セレナは肩をすくめ、冷静に反駁した。
「大丈夫ですから、あなたも早く逃げなさい。ここは私が食い止めますから」
「できるか! できるわけがない! たとえ……たとえお前が本当に騎士だとしても、あれだけの数の亜人を相手に、たった一人で何ができると言うんだ!」
 もう東西から押し寄せてくるゴブリンたちの恐ろしげな影が見えるというのに、バルバロッサはなおも喚き散らし続ける。再びそれを無視し、セレナはちらりと前方を見てから、思わず微笑んだ。
「私は一人ではありません。頼りになる……信頼できる仲間がいます」
 セレナは、バルバロッサの襟首をむんずと摑むと、北へと押しやった。
 その手を真っ直ぐ夜空にかざし、高らかに愛竜の名を呼ぶ。
五月雨さみだれ!」
 即座に、上空から力強い咆哮が返る。掲げた右手を西から東へと振り下ろしながら、続けて叫ぶ。
「──焼き払いなさい!!」
 嵐のような羽ばたきの音が降り注ぎ、立ち尽くすバルバロッサと、広場に駆け込んできたゴブリンたちが同時に真上を振り仰いだ。
 炎に赤く染まる空を黒く切り取りながら急降下してきた巨大な飛竜が、そのあぎとを大きく開いた。喉の奥で、青白い輝きが明滅し──。
 しゅばっ!!
 と音を立てて、眩い光が迸った。西の通りに着弾した熱線は、広場の北側に立つセレナとバルバロッサの眼前を横切り、東の通りまでを薙ぎ払った。
 わずかな間を置いて。
 凄まじい火炎が一直線に膨れ上がり、夜空へと解き放たれた。呑み込まれたゴブリンたちが、甲高い悲鳴とともに高々と吹き飛ばされた。 
 二十匹以上の襲撃者たちを瞬時に屠ってのけた飛竜の熱線は、同時に広場中央の噴水を蒸発させ、周囲にもうもうとした白煙を広げた。その上を掠めるように飛び去った五月雨に、セレナは待機の指示を出し、ちらりと背後に眼を向けた。
 バルバロッサは、腰を抜かしたのか再び石畳に倒れ込み、両眼を剥き出している。
「ひ……ひ……飛竜……!?」
 未だ逃げようとしない店主をいったいどうしたものか、と考えていると、立ちこめる蒸気の向こう側から必死に走る足音が近づいてきた。姿を現したのは、揃いの革鎧を着込んだ衛士隊の男たちだ。撤退の見切りが早かったのが結果的に好判断となり、十数名の衛士たちはあちこちに浅手を負っているものの、重傷者はいないようだ。
 感心に最後尾を走っていた若者──かつての衛士見習いのペックは、広場がほぼ空っぽになっていることに気付くと、安心したように呟いた。
「良かった。みんな、もう避難したんだな」
「ええ。あなた方のお陰で、無事に退避しました」
 セレナが答えると、初めて存在に気付いたかのように瞬きする。セレナの頭から足許まて何度も視線を動かしながら、呆然とした顔で言う。
「お前……セレナ……? 何でお前が……?」
「説明している暇はありません。ここから先に、取り残された者はいませんね?」
「あ……ああ、大丈夫だ……」
「なら、あなたも皆と一緒に逃げなさい。ああ、雑貨屋の店主もよろしく」
「ま、待て……もう、すぐそこまであいつらが…………」
 その言葉が終わらないうちに──。
「いいから早く行けよ、ペック」
 濃霧を突き破って広場に姿を現したのは、教会の制服で身を包んだカズヤだった。ペックは再び両眼を見開き、呆然としながら言った。
「カ……カズヤ。お前、いまどこから」
「上から」
 指を上空の竜──戴天を指しながら答え、セレナに視線を向けた。
 たったそれだけで、心にわずかな余裕が生まれるのが分かる。
 カズヤは力強く頷いてから、ペックの肩を掴みながら言った。
「ここは俺たちに任せて、早く避難してくれ」
「だ……だけど、お前ら二人でも、あれだけの数を倒すのは……」
「倒すんじゃない。退
「えっ……?」
「命の奪い合いでは何も解決しない。だから倒すんじゃなくて、魔界に退かせる。……分かったら早く行けよ。俺のライバルを名乗るんだったら、何があっても生き残らなきゃいけないだろ」
 そう言うと、突き離すように押し出す。
 ペックはしばし放心しながら、腰を抜かすバルバロッサを助け起こし、何も言わずに北門へと向かって行く。
「……マガツヒは?」
「戴天のお陰で楽に済んだ。洞窟の前で横になってもらってる。二度と起き上がれないだろうけど」
「そうですか。流石は守護竜の子供……というわけですね」
「ああ。……話したんだな。自分のこと」
 真剣な声音で訊ねられ、答えに困った。
 カズヤは、自分の信頼を失う真似をしてまで私を守ってくれた。そんな彼の善意ある行動を、私は村人を退避させるために裏切ってしまった。一年間、私を守ってくれたカズヤを、私自身の意思で……。
「……ええ。全て、話しました」
「…………そうか。まぁ、いいんじゃないか」
「良くありません。結果はどうあれ、私はお前の善意を裏切ってしまったんですから」
「最後に決めるのは自分だ。その選択は、君にとって後悔はあるのかい?」
 一瞬の逡巡は、すぐに消失した。
 直感で下された答えを、迷わず口にする。
「ありません。自分の取った選択に、後悔はしてません」
「なら、俺に謝るのは間違ってる。……人生は選択の連続だ。その選択において、正しいと決めるのは自分自身だ。君が正しいと思うなら、俺はその選択を信じる。それだけの話さ」
 あの日──が選んだ選択に敬意を表するような台詞に、騎士は少しだけ目尻に涙を宿した。
 すぐにそれを引っ込め、カズヤの横に並び立ち、耳許で囁く。
「お前は先程、倒すのではなく退かせると言いましたが、具体的にはどうするつもりですか」
「隊長を再起不能にして、他の亜人たちが撤退させる。単純だろ?」
「策とも呼べない、愚策もいいところですね」
 楽観的な策にため息を漏らしながらも、不思議と呆れはない。前々から似たような策に何度も付き合っているせいか、呆れよりも発想力に感服させられるようになってしまった。
 カズヤは、悪戯っ子のように頬を緩ませてから、焔天剣を抜刀する。
「愚策だけど、遂行する価値は充分にあるだろ?」
「試してみるのも悪くありませんが、成功すると思うんですか?」
「成功するさ。俺とお前、二人揃えば出来ないことなんてないんだからさ」
「……そうでしたね。私達はもう、一蓮托生でした」
 カズヤの世界の言葉で言い表してから、自分も剣を手に取る。
 一年もの間一度も触れなかった剣は、すぐに手に馴染んだ。
 やはり私は、死ぬまで剣を振り続ける存在なのだと再認識させられる。でも、今は全然嫌だとは思わない。
 隣に彼がいてくれる。カズヤがいてくれるなら、私は何度でも剣を手に取る。人界の民を守るためにも、セレナとの約束を果たすためにも、私は負けるわけにはいかない。
「行きますよカズヤ。遅れないでくださいね」
「一年も歩けなかったくせに……お前こそ、途中でコケるなよ!」
 互いに一言かわしてから、同時に地を蹴り、到着したゴブリン部隊とオーク部隊へ突撃した。

 賑やかな槌音の合奏が、青く澄んだ冬空へと舞い上がっていく。
 セレナは額に手をかざし、麦畑の向こうにこんもりと突き出すコドールの村を見やった。
 魔界軍の襲撃から、今日で早くも一週間が経つ。
 村は、南側に建つ家の多くが焼け落ちたが、ほぼ全村人総出で作業に当たらせた村長の決断もあって、再建は急速に進んでいる。残念ながら、逃げ遅れた村人が命を落とし、その合同葬儀は五日前に教会でしめやかに執り行われた。
 二人は請われて葬儀に参列したあと、カズヤは戴天に乗って洞窟の状況を確認しに行った。
 騎士長の命令で崩落させたはずの長い洞窟は、オークが通れるほどの広さまで掘り返されていて、洞窟内には野営の痕跡があった。
 亜人たちは、一夜で洞窟を開通させたわけではなかった。恐らく、洞窟内で野営しながら地道に掘り返していたんだろう。騎士キクノは少ししか内部を確認しなかったから見つけることが出来なかったのだろう。
 かつての亜人たちからは考えられない周到さ、用心深さだ。その一事を取っても、今回の侵攻が、これまで繰り返されてきたような偵察ではないことが窺える。
 カズヤは、洞窟を今度は二度と掘り返せないように入念に崩したと言っていた。
 コドールの村と、その彼方に白く浮かび上がる壁から視線を戻し、セレナは手に持っていた最後の荷物を五月雨の左脚にくくりつけた。
「……セレナ」
 出立の準備を終えたカズヤが、俯きながら口を開いた。
「今更言うのもおかしいが、敢えて言わせてもらう。……本当は、お前に剣を取ってもらいたくなかった。戦いを忘れて、この村で静かに暮らしていてほしかったんだ。そのために俺は、お前を剣から遠ざけていた」
「解っているわ。カズヤ」
 俯くカズヤの身体を抱き締め、囁き返した。
「あなたはずっと、私のために動いてくれていた。村の人たちに、一日でも早く私を受け入れてもらえるように頑張ってくれていたのを。……でもね、私はそれを望まなかった」
「の……望まなかった?」
「自分の罪は自分で償いたい。それが、重罪人である私の使命でもあり、騎士としての誇りでもある。だから、私は剣を取る。この剣で多くの民を守り……いつか、全ての役目を果たし終えたら、私はただのセレナとして、あなたはただのカズヤとして、この村に戻ってきましょう」
「……ああ。なら俺は、その日をお前と迎えるために、剣を取るよ」
 涙声で呟いたカズヤは、顔を上げると、制服の袖口でぐいっと顔を拭った。
 体の向きを変え、見送りに来てくれたペックとシスターたちに頭を下げる。
「今まで、本当にありがとうございました。この御恩は、決して忘れません」
 震える声を聞いたセレナも同様に頭を下げると、二人はゆっくりと歩み始め、ペックはカズヤの肩を、シスターはセレナの頭に手を置いた。
「しばらく見ない間に、お前は随分と高みに立っちまったんだな。正直、悔しい気持ちで一杯だ。……だがな、俺だってお前と同じ高みに行ってやるからな! それまで、誰にも負けんじゃねーぞ!!」
 ペック──ライバルの激励に笑みをこぼしながら、突き出された拳と拳をぶつける。
「それ相応の鍛錬が必要だが、覚悟は出来てるのか?」
「当然だろ! 俺を誰だと思ってるんだよ」
「知ってるよ。お前は、俺のライバルだろ」
 互いに笑い合いながら拳を離し、セレナとシスターに視線を移す。
「セレナ……。私では、あなたの身にどれほど過酷な試練があったのか、容易に想像することもできません。ですがあなたは、それらの試練を乗り越えてここにいるのは解ります」
「シスター……私は」
「言わなくても解っています。詳しい話は、あなたの役目を終えた後にゆっくりと聞かせて貰います。……どうかあなたの身に、祝福があらんことを」
 項垂れたままの頭を両手で包み込み、祝福の印を切ってから、老婆は数歩後ろに下がった。
 二人は互いの顔を見合ってから頷き、それぞれの飛竜の鞍に騎乗する。
 地上の二人に頷きかけ、視線を青い空へと向ける。
 軽く手綱を鳴らすと、竜は荷物の重さを感じさせない力強さで麦畑の間を助走し始めた。
 いつか必ず、二人でこの村に戻ってくる。
 たとえどちらかが戦場で倒れようとも、必ず。
 セレナは、睫毛に宿った涙の雫を払い落とし、鋭い掛け声を発した。
「……はっ!」
 ふわり。
 浮遊感とともに、地面が離れる。
 上昇気流を摑まえた飛竜は、旋回しながら一気に空へと駆け上った。
 広い畑と森、その中央で真新しい屋根を輝かせるコドールの村、そして両手を振りながら懸命に走るペックとシスターの姿を瞼に焼き付け──。
 二人は東の空へと、飛竜の首を向けた。


 
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