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第三部・一章 一年後の人界
第三話
人界の北端から、東域の果てへ。
東域の守護竜《甲殻鉄竜》が支配していた人界一広大な樹林《真宵の新樹林》を訪れるのは、カズヤにとっても、爆煙竜火山生まれの戴天にも初めてのことだった。
眼下に連なる巨大樹の間を、瑠璃のように青く透き通る滝が滔々と流れている。時折そのほとりに現れる街や村は、見慣れた石造りではなく主に木材で築かれているようだ。
空を振り仰いでこちらを指差す人々の髪はほとんどが黒か赤。北方では黒髪が珍しがられていたが、自分と同じ髪色の人族が沢山いることを知ると、何故か親近感が湧いてくる。
視線を前に戻し、手綱を鳴らす。いまは一刻も早く目的地に辿り着かねばならない。
夜は人里離れた場所で野営し、戴天と五月雨が獲ってくれた魚と携帯食で食事をしながら旅路を急ぐこと三日──。
十一の月二日の午後、これだけは北方と変わらない佇まいの壁と、綺麗に垂直に断ち割られた峡谷が前方に現れた。
「……見えましたよ、カムイさん」
腰の激凍剣に手を添え呟き、重荷を載せての長旅を強いてしまった愛竜の首筋をそっと撫でた。戴天は、まだ子供とはいえ既に人界内最強の実力を誇る生物だが、それでも人間一人と神器二本を担っての飛行は大変だったに違いない。一年間の食べ放題や鍛えた体力もあらかた使い果たしてしまったようだ。
例の場所に到着したら、何はともあれ大好物の茹でた牛肉をたっぷり食べさせてあげようと思いながら手綱を鳴らすと、戴天は疲れを感じさせない声で応え、翼を力強く羽ばたかせた。
遠目からは極細の隙間のようにも見えた峡谷だったが、近寄るにつれてそんな生易しいものではないことに気付かされる。
谷の幅は百メートルを優に超えているだろうか。巨人の大軍団が横列を作って突進するに充分な広さだ。
山肌を貫いて真っ直ぐ伸びる谷の、手前のとば口を包むように広がる草原には、無数の白い天幕が整然と並んで一大野営地を作り出している。そこかしこで煮炊きの煙が立ち上り、周辺では義勇兵が訓練の真っ最中た。振り回される剣の輝きと、発せられる気勢が空まで届いてくる。
懸念したほど士気は低くないようだが、いかんせん兵の絶対数があまりにも少ない。ざっと見回したところでは、総数は五千前後だろう。いっぽう魔界側は五万を下らないだろう。人界では衛士など一部の者にのみ力が与えられているが、魔界では老若男女を問わず闘争本能がある。
この状況に、俺たち二人と飛竜二匹が加わったところで何が変わるとも思えない。騎士長は、いったいどのような防衛作戦を考えているのだろう……。
黙考しながらカズヤはひとまず野営地を飛び越え、薄闇に沈む峡谷へと飛竜を進ませた。
「戴天。もう少しだけ頼む」
そう声を掛け、竜がくるるっと応じた直後、太陽の光が山塊に遮られる。
谷に入った途端、ぞくっとするほどの冷気が体を包んだ。左右の岩壁は、神が削ったのではないかと疑うほど滑らかに切り立っている。生き物は当然、草木の一本も見つけられない。
そのまま低速で飛行すること数分──。
たなびく靄の向こうから、ついに途轍もなく巨大な構造物が姿を現した。
「これが……大門…………?」
垂直にそびえる灰色の門は、下部から天辺まで高さ三百メートルはあるだろう。五百メートルに達する中都統制教会よりは低いが、威圧感では引けを取らない。
何より驚愕させられるのが、左右の門が継ぎ目のまったくない一枚岩から削り出されていることだ。これほどの代物を、人の手で築くことはもちろん、魔術による加工生成も絶対に不可能だ。
この壁そのものは、人界と魔界が生まれる前に、創世神の手によってこの地に据えられた物かのだ。人界と魔界を隔てるために──そして、仮初の平和を一日でも長く続けさせるために。
「止まれ、戴天」
飛竜を空中で停止させ、カズヤは改めて間近から門を見上げた。
その瞬間。突然、びぎぎっ! という凄まじい破砕音が空気を震わせ、カズヤと戴天を驚かせた。竜の首筋をさすってやりながら眼を凝らすと、ついさっきまで滑らかだった扉に、細いヒビが漆黒の稲妻の如く刻まれていく。
数十メートルほども伸びた亀裂がようやく停止すると、その周辺から幾つかの岩石片が剥落し、遙か下の谷底へと消えていった。
顔を上げ、改めて巨大な門に視線を注ぐ。すると、平らな岩板のほぼ全体に、編み目の如く亀裂が走り回っていることに気付かされる。
「……もう、時間がないな…………」
何百年も二つの世界を厳然と分かち続けてきた大門が、恐らく残り一週間足らずで崩壊する。
村の洞窟を封じたのは数日前だが、今の状況では焼き石に水に過ぎない。
もし、大門が崩れ去り、魔界軍が押し寄せてきた所、守備軍がそれを防げなければ人界には血に飢えた魔界の民が洪水の如く溢れかえる。その波はたちまち辺境の地にまで達し、コドールの村を呑み込むだろう。
「どうしたものか……」
うわごとのように呟き、カズヤは無意識のうちに手綱を引き絞った。崩壊寸前の大門から離れた戴天は、翼をゆっくりと羽ばたかせて上昇していく。
三百メートルの高みにまでそびえる門の最上部に達すると、再び滞空させる。
門の向こうには、人界側と同様に山脈を切り裂く谷が真っ直ぐに続いている。しかし、その彼方に広がるのは青い空と緑の草原ではなく、血の色の空と墨を撒いたような荒野だ。
禍々しい光景から眼を逸らそうとしたカズヤは、ふと眼を細めた。
わずかに見通せる黒い大地に、ちらちらと揺れる光を見つけたのだ。
戴天をさらに上昇させ、じっと眼を凝らす。光は一つではない。不規則に密集しながら、どこまでも広がっているように見える。
あれは、かがり火だ。
野営地なのだ。魔界軍の先鋒が、すぐ目と鼻の先に大挙して待ち構えている。門が崩壊し、人界への道が開かれるその時を。
「急がなきゃ……」
カズヤは掠れた声で、もう一度呟いた。
直後、飛竜を回転させる。このまま無数のかがり火を見続けていたら、焦燥感に呑み込まれて単騎敵陣に斬り込んでしまいそうな気がしたのだ。
相手がゴブリンやオークの歩兵だけならば百か二百を屠ったうえで無事に戻る自信はある。しかし、向こうから仕掛けたわけでもない、奇襲紛いの真似事で命を散らせたくない。
向こうから仕掛けてきた場合は正当防衛と割り切って全力で排除するが、こちらからは出来るだけ仕掛けたくない。
ため息で無為な思考と甘さが残る自分の愚かさを振り払い、カズヤは戴天に下降指示を出した。
守備軍の野営地は、中央の草地を広く空けてあった。隣接した巨大な天幕が並んでいるのを見ると、あそこが飛竜の発着場に違いない。
弧を描いて降下した戴天は、四肢の鉤爪を緑の下草に触れるか触れない頃から長い首を天幕のほうへ向け、くるるるっと甘えるような喉声が響かせた。
すぐに、少し低い声で返答があった。セレナの飛竜──五月雨だろう。カズヤは、竜が足を止めるや否や草地に飛び降り、両脚から重い荷袋を外してやった。とたんに戴天はどすどすと天幕に突進し、厚布の下から頭を出した竜と互いに首を擦り合わせた。
思わず微笑んでしまったカズヤだが、背後から駆け寄ってくる足音に気付き、慌てて表情を引き締めた。
振り向くよりも早く、聞き覚えのある女の声が発着場に響き渡った。
「カズヤくん! セレナちゃん! 信じてたよ!!」
ずざざ、と草の上を滑りながら目の前に回り込んできたのは、十日ほど前に別れたばかりの天界の騎士、キクノだった。野営中なのに、波打つ黒髪にも漆黒の甲冑にも汚れひとつない。
「……お久しぶりです」
カズヤの素っ気ない返事にもめげず、感極まったように何かを言おうとしたキクノの唇が、ぴたりと凍った。
後ろに立つセレナに気付いたせいだ。
いっそう明るい笑顔を浮かべてから、脇目も振らずにセレナの元へ疾駆し、両手を掴んだ。
「セレナちゃん。立てるようになったんだね」
セレナも、精一杯背筋を伸ばして答えた。
「これも、キクノ殿のお陰です」
「いえ、私は何もしていないわ。本当に感謝すべき人は、他にいるんじゃないの?」
背後に立つカズヤを横目に言うと、セレナは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
それを見たキクノは悪戯に笑うも、すぐに表情を引き締めた。
「先に忠告しておくけど、伝えたい言葉があるなら今のうちに言った方がいいわ。我ら騎士は常に最前線に立たねばならぬ身。無事に彼の元に帰れるとも限らないんだからね」
「解っています。……しかし、今はまだ伝える時ではありません」
自分でもよく解らない返しではあるのだが、キクノは何かを察知してくれたのか、それ以上言い募ることはなかった。
その時だった。いつの間にか発着場の周囲に休憩中の兵士たちが三々五々集まっており、カズヤに訝しげな視線を向けていた。
よくよく考えれば、騎士でもない彼が騎竜を所持していることは問題でしかない。禁書目録が撤廃されたとはいえ、未だ人界の民には「騎士以外が飛竜を所持することは禁ずる」という固定概念に囚われているのを忘れていた。
今すぐ誤解を解かねば。
その時だった。周囲の人垣の一箇所が、まるで見えない巨人の手で掻き分けられたかの如くさっと割れた。
人垣の奥から届いてきたのは、セレナにとってはとても懐かしく、同時に痛いほどの緊張を覚えずにはいられないあの声だった。
「おら、全員訓練に戻れ、休憩は終わりだ」
周囲の兵士はその一言で散っていき、カズヤはゆっくりと体の向きを変えて、声の主を見た。
東域風の、ゆったりとした前合わせの衣。低い位置で結わえた幅広の帯。その左腰に、無造作に突っ込まれた無骨な大剣。両足に突っかけているのは、木製の履き物。
侍にも似た軽装をしているが、その鍛え抜かれた体から発せられる圧力は、どんな鎧よりも厚く、重い。
短く刈り込まれた頭髪をごしっと擦り、声の主は口許にニヤリと笑みを刻み、まずセレナを見やった。
「よう、嬢ちゃん。足の怪我が治って安心したぜ。少しだけ気の抜けた顔になったかい?」
「……騎士長。ご無沙汰しておりました」
セレナは、涙が滲みそうになるのを必死に堪えながら、世界最古にして最強の剣士──騎士長ヒサカゲに一礼した。
無骨な優しさに満ちた笑みを滲ませたまま、ヒサカゲはゆっくりと体の向きを変え、唯一の弟子──カズヤの瞳を見詰め、ぐっと力強く頷く。
「久しぶりだな、カズヤ。嬢ちゃんと違って、お前さんはかなり凛々しい顔つきになったじゃねーか」
「同じことを、キクノさんにも言われましたよ」
強がりを言っているが、表情に余裕がない。口許も引き締まっているし、彼もそれなりに緊張しているのが見て取れる。
人界を最も長く守護した騎士長にとって、カズヤはただ一人の弟子であり、かなり気にかけている人物だ。そして同時に、この世で数少ない、騎士長すら油断できない剣士でもある。
騎士長も、カズヤが特異点であることを知っている。そして、覚醒した能力についても。
「……騎士長……」
セレナは、音にならない声を絞り出した。
騎士長は、神器《斬穿剣》の柄を握っている。同時に、途轍もない覇気を纏っている。
カズヤを斬るつもりだ。
騎士長の強烈極まる覇気に圧倒され、キクノも、天幕の飛竜たちすらも黙り込んだ。呼吸もおぼつかないほどに重く圧縮された空気の中で、セレナは必死に右手の指を動かそうとした。
だが、セレナが愛剣の柄に触れる寸前、カズヤの口がかすかに動き、思念にも似た声が響いた。
──見てろ、セレナ。
「…………!?」
セレナが息を詰めた、その刹那。
キン! という硬質な音が響き、カズヤとヒサカゲの間の中空で、銀色の閃光が弾けた。
──いまのは!?
セレナは驚愕のあまり小さく喘いだ。気付くと二人は、互いの神器を既に抜いていた。
ヒサカゲはさっきまでの覇気が幻だったかのように太い笑みを浮かべていた。
「再会してすぐに稽古なんて、相変わらず厳しいですね。師匠は」
「それがオレのやり方だ。腕は鈍ってないみたいで安心したぜ」
師弟の短い会話を遮るように、セレナが訊ねた。
「き……騎士長……今のは?」
呆然と呟いたセレナに向かって、騎士長はあたかも稽古の後ででもあるかのように、指先で顎を掻きながら言った。
「いまのは、オレなりの歓迎だ」
「か……歓迎、ですか……?」
「ああ。一年間修練を怠っていないか確認するための稽古でもある」
「そ、そうですか。……それで、結果は?」
「合格さ。カズヤの実力は一切衰えてない」
セレナは思わず、カズヤの顔を眺めた。
彼は一年、剣に触れることなど手入れ以外なかったはず。私を戦いから遠ざけるために、剣を使っての稽古など一度もしていなかった。
なのに何故、以前よりも強くなったと言えるんだ。
その疑問に答えるように、騎士長は確かな声で発した。
「少年はな、毎日剣と対話していたのさ。一日も欠かさず行った手入れを通じて、な。あの様子だと、周りの音が聞こえないほど熱中してたんじゃないか?」
そういえば──。
いつもカズヤは、夕食前に三本の剣の手入れをしていた。一本に十分以上も時間を掛けていたが、その間は私の声に一切反応しなかった。てっきり外部の音が聞こえないほど集中しているのかと思っていたが、本当なずっと、剣と意識を交わしていたのか。
「とにかく、嬢ちゃんらは長旅で疲れてるだろ。今日はゆっくり休んでくれ」
「ちょっと待ってください」
剣を鞘に収めたカズヤが、天晴れというべき気概を見せて、最古の騎士ヒサカゲに意見を述べた。
「先程大門を見てきましたが、あの様子では残り一週間以内には敵陣が人界に攻め込んできます。今は、一分一秒でも多く戦力増強に奮闘すべきだと思います。セレナはともかく、俺はそれほど疲れてません。だから……」
「おいおい」
ヒサカゲの声は、穏やかな笑みと同時に、銘刀の如き鋭さを帯びていた。
「時間がないから、だろ」
瞬時に、しんと周囲が静まり返る。
「限られた時間の中で戦力を増幅させるのは間違ってない。だが、疲弊が溜まった状態で戦場に赴けば、必ずミスが生じる。それを避けるために、今のうちに休んでおくんだ」
「……ッ!? そ、それは……。たしかに」
「焦る気持ちも解るが、心に余裕を持っていこうぜ。お前さんはオレたち人界の希望でもあるんだから、無理だけはするな」
「お、俺が希望!?」
騎士長の不意打ちの発言に声を荒げながら反応すると、騎士長はなおも続けた。
「忘れたのかい。お前さんは、このオレの弟子なんだぜ。騎士長ヒサカゲの一番弟子のお前は、ある意味人界にとっちゃ希望みたいなもんだろ」
これにはもうカズヤも返す言葉がないようだった。当然だろう。人界最強の騎士が認めてしまえば、それ相応の責任が課せられることになるのだから。
今の話を兵士に聞かれていなかったのは不幸中の幸いではあるが、多分、今のカズヤの精神には途轍もない責任感が伴っているだろう。
「キクノ。嬢ちゃんと少年を案内してやれ」
「了解です、騎士長。さ、二人とも。ついてきて」
キクノの指示に従い歩き出すも、やはりカズヤの顔色は酷く青ざめていた。
カズヤは、与えられた野営用天幕の内部をぐるりと見回し、軽くため息をついた。
簡易ベッドは綺麗に整えられているし、床に敷かれた羊革はまったくの新品で、空気も日向っぽい匂いしかしない。それらは大いに結構だが、この天幕がカズヤのために急遽空けられたものではないことは明らかだ。つまり、師匠はカズヤとセレナの参陣に備えて、騎士用天幕を二つ余計に設営させていたということになる。
信頼の証と受け取っておけば聞こえはいいが、師匠の人となりを知っていると、思考や行動を丸ごと見抜かれているような気もしてくる。
だが──別に気にすることではない。元々、セレナを置いて一人で戻ってくるつもりだったのだから。
入り口脇に置かれた荷袋を担ぎベッドに置いてから隣に座り、靴を脱ぎながら考えを巡らせる。
作戦会議は明日の午後に行われ、俺とセレナも出席する様に言われている。確かその場には、騎士長と副騎士長、他の騎士や衛士長などが呼ばれると知らされている。
現状の報告や騎士たちの紹介も兼ねているから絶対に遅刻するな、とセレナに念押しをされているのを思い出しながら、荷袋に入っている二本の長剣を引っ張り出した。
「カムイさん……」
まず焔天剣を、次に激凍剣を手に取ってから、ボソリと呟く。
セレナは、俺が剣と対話するために手入れを真剣に行っていたと思っているらしいが、目的は別にある。
剣には意思がある。それは、カムイさん自身が俺に教えてくれた言葉でもある。
俺はただ、その意思──剣に残留している所有者の声、カムイさんの声を聞きたいだけなんだ。
元いた世界にあるオカルト本で見たことがある。強い思念は物に乗り移る、と。カムイさんほどの強い意思を持つ人ならば、その意思を剣に宿すのも不可能じゃない、俺は勝手にそう信じ込んでいた。
だから俺は、毎日愚直にも剣に語りかけた。もう一度だけでも、カムイさんと話したい思いから、何日もめげずに続けた。
しかし、結局、一度も話すことができなかった。
……もしかして、俺自身が既に認めてしまっているのか?
もう、カムイさんの意思は人界のどこにもないと。
天界の騎士といえども、意思の消滅に抗うことは出来ないのか。いや、例え残っていたとしても、自分を殺めた存在に送る言葉などないと言うのか。
──でも、それでも俺は信じ続けます。
──消えたはずのセレナとユリの意思が教えてくれた。俺が覚えている限り、その人は永遠に残り続ける。記憶が存在する限り、思いは紡がれていく。
カズヤは激凍剣を強く抱き締め、柄に頰を当てる。ひんやりと冷たいが、どこか温かさを感じさせる。
……カムイさんの意思が残っているなら、今の行動をどう思っているだろう。
そんなことを考えていると──。
不意に、ちりん、と軽やかな鈴の音が響き、カズヤは跳ねるように体を起こした。
慌てて天幕の中を見回すが、もちろん誰もいない。ようやく、天幕の入り口に取り付けられた紐つきの鈴が鳴ったのだと悟る。
来客だ。わけもなく咳払いし、息を整えてから、カズヤは足早に天幕を横切った。
どうせセレナだろうと思い、二重になっている出入り口の垂れ幕の、内側の薄布に頭から突っ込むと、カズヤは外側の分厚い毛皮も左手で一気に払った。
そして、開きかけた唇をぴたりと止めた。
眼前に立っているのは、天界の騎士でも、一般兵でもなかった。思わずまじまじと凝視してしまい、開いた口を閉じようとしなかった。
出入り口に立っていたのは、男性と女性の二人。男性の方は両手で捧げ持った蓋付き鍋を持っており、もう片方はトレイの上に空の器三つと大量のパンが入った籠を持って立っていた。
だが、そんなことがどうでも良くなるほどの衝撃に見舞われた。
鍋を持つ男性は、夕焼けが反射するほどの艶を持つ黄金色の髪に、両眼は濃いグリーンとかなり特徴的な瞳を持っている。
女性の方は、紫色の長髪を後ろに結わえている。そして何より特徴的なのは、頭からピョコンと出ている獣耳と、腰に生えている大きな尻尾だ。
守備軍の一員であるらしいが、それなりの立場なのだろうか。他の兵士よりもお高い鎧を身につけている。だが、その下の服装は、どこかの学園の制服……知ってる学園の制服だ。
いや、知ってるのは学園だけではない。俺は、この二人そのものをよく知っている。
カズヤは、天幕を訪ねた二人を交互に見てから、未だ衝撃の抜けていない口を懸命に動かした。
「サヤ……ワタル……」
学園での旧友は一瞬、ほっとしたように頬を緩めた。すぐに姿勢を改め、靴の踵を打ちつけながら名乗る。
「騎士カズヤ殿! 夕食をお持ちしました!」
「……そうか、ありがとう」
ねぎらいながら鍋を受け取ったカズヤは、二人の様子がおかしいことに遅れて気付いた。
俺は騎士同様の権限が与えられている話は、天幕に案内されるまでにキクノさんから聞いてはいるが、それは作戦内でのみの処置であり、今はまだそこらの一般兵となんら変わらない役職のはず。
「こちら、パンと器になります」
差し出されたトレイと籠を受け取ってから、俺は少しだけ躊躇うように言った。
「そんなに畏まらなくてもいいよ。今の俺は単なる一般兵なんだから」
そう言いかけた瞬間。
二人は一斉にため息を吐き、先ほどまでのお堅い口調とは思えない声音で言った。
「そう。なら、いつも通り話させてもらうね」
「カズヤ相手に変に緊張して疲れちゃった」
「……お前ら、切り替え早すぎだろ」
いっそ清々しいまでの態度の急変に肩を落としながら、改めて考えを巡らせる。
いくら守備軍が人員不足だと言っても、学生の徴用まではしているまい。となると、二人は自ら志願して、まだ安全な中都から危険な戦地にやってきたのか。まだ学園すら卒業していない彼らが、いったいなぜ……。
右手に鍋、左手に籠を持ったままカズヤがまじまじと二人を見ていると、サヤは俺から籠を奪い取り、天幕の中に図々しくも勝手に入って行った。
「お前! 何勝手に入ってんだよ!」
「別にいいでしょ。あんたの天幕でご飯食べるために、夕食多く貰ってきたんだから」
だから空の器が三個もあったのか。とどうでもいいことに納得している隙に、鍋を奪い取ったワタルもズカズカと天幕へ入って行った。
「ちょ、ワタルまで!? もう……」
呻きながらも、学園で過ごした懐かしいやり取りに少しだけ嬉しくなりながら天幕に戻ろうとし。
足を、止めた。
二人は知らないんだ。俺が特異点と呼ばれる人工的に造られた命であり、騎士を殺めた人界で一番の罪人であることを。
そんな俺が、彼らと一緒に食事をする権利などないに決まっている。例え二人に許されたとしても、俺自身が許せない。
今更、ごまかすことはできない。
二人には全てを知る権利がある。恐らく彼らは、教会に連行された俺にもう一度会うためだけに守備軍に志願し、ここまでやってきたのだろうから……。
意を決し、毛皮の垂れ幕を持ち上げ、天幕の中へ足を運んだ。
東域の守護竜《甲殻鉄竜》が支配していた人界一広大な樹林《真宵の新樹林》を訪れるのは、カズヤにとっても、爆煙竜火山生まれの戴天にも初めてのことだった。
眼下に連なる巨大樹の間を、瑠璃のように青く透き通る滝が滔々と流れている。時折そのほとりに現れる街や村は、見慣れた石造りではなく主に木材で築かれているようだ。
空を振り仰いでこちらを指差す人々の髪はほとんどが黒か赤。北方では黒髪が珍しがられていたが、自分と同じ髪色の人族が沢山いることを知ると、何故か親近感が湧いてくる。
視線を前に戻し、手綱を鳴らす。いまは一刻も早く目的地に辿り着かねばならない。
夜は人里離れた場所で野営し、戴天と五月雨が獲ってくれた魚と携帯食で食事をしながら旅路を急ぐこと三日──。
十一の月二日の午後、これだけは北方と変わらない佇まいの壁と、綺麗に垂直に断ち割られた峡谷が前方に現れた。
「……見えましたよ、カムイさん」
腰の激凍剣に手を添え呟き、重荷を載せての長旅を強いてしまった愛竜の首筋をそっと撫でた。戴天は、まだ子供とはいえ既に人界内最強の実力を誇る生物だが、それでも人間一人と神器二本を担っての飛行は大変だったに違いない。一年間の食べ放題や鍛えた体力もあらかた使い果たしてしまったようだ。
例の場所に到着したら、何はともあれ大好物の茹でた牛肉をたっぷり食べさせてあげようと思いながら手綱を鳴らすと、戴天は疲れを感じさせない声で応え、翼を力強く羽ばたかせた。
遠目からは極細の隙間のようにも見えた峡谷だったが、近寄るにつれてそんな生易しいものではないことに気付かされる。
谷の幅は百メートルを優に超えているだろうか。巨人の大軍団が横列を作って突進するに充分な広さだ。
山肌を貫いて真っ直ぐ伸びる谷の、手前のとば口を包むように広がる草原には、無数の白い天幕が整然と並んで一大野営地を作り出している。そこかしこで煮炊きの煙が立ち上り、周辺では義勇兵が訓練の真っ最中た。振り回される剣の輝きと、発せられる気勢が空まで届いてくる。
懸念したほど士気は低くないようだが、いかんせん兵の絶対数があまりにも少ない。ざっと見回したところでは、総数は五千前後だろう。いっぽう魔界側は五万を下らないだろう。人界では衛士など一部の者にのみ力が与えられているが、魔界では老若男女を問わず闘争本能がある。
この状況に、俺たち二人と飛竜二匹が加わったところで何が変わるとも思えない。騎士長は、いったいどのような防衛作戦を考えているのだろう……。
黙考しながらカズヤはひとまず野営地を飛び越え、薄闇に沈む峡谷へと飛竜を進ませた。
「戴天。もう少しだけ頼む」
そう声を掛け、竜がくるるっと応じた直後、太陽の光が山塊に遮られる。
谷に入った途端、ぞくっとするほどの冷気が体を包んだ。左右の岩壁は、神が削ったのではないかと疑うほど滑らかに切り立っている。生き物は当然、草木の一本も見つけられない。
そのまま低速で飛行すること数分──。
たなびく靄の向こうから、ついに途轍もなく巨大な構造物が姿を現した。
「これが……大門…………?」
垂直にそびえる灰色の門は、下部から天辺まで高さ三百メートルはあるだろう。五百メートルに達する中都統制教会よりは低いが、威圧感では引けを取らない。
何より驚愕させられるのが、左右の門が継ぎ目のまったくない一枚岩から削り出されていることだ。これほどの代物を、人の手で築くことはもちろん、魔術による加工生成も絶対に不可能だ。
この壁そのものは、人界と魔界が生まれる前に、創世神の手によってこの地に据えられた物かのだ。人界と魔界を隔てるために──そして、仮初の平和を一日でも長く続けさせるために。
「止まれ、戴天」
飛竜を空中で停止させ、カズヤは改めて間近から門を見上げた。
その瞬間。突然、びぎぎっ! という凄まじい破砕音が空気を震わせ、カズヤと戴天を驚かせた。竜の首筋をさすってやりながら眼を凝らすと、ついさっきまで滑らかだった扉に、細いヒビが漆黒の稲妻の如く刻まれていく。
数十メートルほども伸びた亀裂がようやく停止すると、その周辺から幾つかの岩石片が剥落し、遙か下の谷底へと消えていった。
顔を上げ、改めて巨大な門に視線を注ぐ。すると、平らな岩板のほぼ全体に、編み目の如く亀裂が走り回っていることに気付かされる。
「……もう、時間がないな…………」
何百年も二つの世界を厳然と分かち続けてきた大門が、恐らく残り一週間足らずで崩壊する。
村の洞窟を封じたのは数日前だが、今の状況では焼き石に水に過ぎない。
もし、大門が崩れ去り、魔界軍が押し寄せてきた所、守備軍がそれを防げなければ人界には血に飢えた魔界の民が洪水の如く溢れかえる。その波はたちまち辺境の地にまで達し、コドールの村を呑み込むだろう。
「どうしたものか……」
うわごとのように呟き、カズヤは無意識のうちに手綱を引き絞った。崩壊寸前の大門から離れた戴天は、翼をゆっくりと羽ばたかせて上昇していく。
三百メートルの高みにまでそびえる門の最上部に達すると、再び滞空させる。
門の向こうには、人界側と同様に山脈を切り裂く谷が真っ直ぐに続いている。しかし、その彼方に広がるのは青い空と緑の草原ではなく、血の色の空と墨を撒いたような荒野だ。
禍々しい光景から眼を逸らそうとしたカズヤは、ふと眼を細めた。
わずかに見通せる黒い大地に、ちらちらと揺れる光を見つけたのだ。
戴天をさらに上昇させ、じっと眼を凝らす。光は一つではない。不規則に密集しながら、どこまでも広がっているように見える。
あれは、かがり火だ。
野営地なのだ。魔界軍の先鋒が、すぐ目と鼻の先に大挙して待ち構えている。門が崩壊し、人界への道が開かれるその時を。
「急がなきゃ……」
カズヤは掠れた声で、もう一度呟いた。
直後、飛竜を回転させる。このまま無数のかがり火を見続けていたら、焦燥感に呑み込まれて単騎敵陣に斬り込んでしまいそうな気がしたのだ。
相手がゴブリンやオークの歩兵だけならば百か二百を屠ったうえで無事に戻る自信はある。しかし、向こうから仕掛けたわけでもない、奇襲紛いの真似事で命を散らせたくない。
向こうから仕掛けてきた場合は正当防衛と割り切って全力で排除するが、こちらからは出来るだけ仕掛けたくない。
ため息で無為な思考と甘さが残る自分の愚かさを振り払い、カズヤは戴天に下降指示を出した。
守備軍の野営地は、中央の草地を広く空けてあった。隣接した巨大な天幕が並んでいるのを見ると、あそこが飛竜の発着場に違いない。
弧を描いて降下した戴天は、四肢の鉤爪を緑の下草に触れるか触れない頃から長い首を天幕のほうへ向け、くるるるっと甘えるような喉声が響かせた。
すぐに、少し低い声で返答があった。セレナの飛竜──五月雨だろう。カズヤは、竜が足を止めるや否や草地に飛び降り、両脚から重い荷袋を外してやった。とたんに戴天はどすどすと天幕に突進し、厚布の下から頭を出した竜と互いに首を擦り合わせた。
思わず微笑んでしまったカズヤだが、背後から駆け寄ってくる足音に気付き、慌てて表情を引き締めた。
振り向くよりも早く、聞き覚えのある女の声が発着場に響き渡った。
「カズヤくん! セレナちゃん! 信じてたよ!!」
ずざざ、と草の上を滑りながら目の前に回り込んできたのは、十日ほど前に別れたばかりの天界の騎士、キクノだった。野営中なのに、波打つ黒髪にも漆黒の甲冑にも汚れひとつない。
「……お久しぶりです」
カズヤの素っ気ない返事にもめげず、感極まったように何かを言おうとしたキクノの唇が、ぴたりと凍った。
後ろに立つセレナに気付いたせいだ。
いっそう明るい笑顔を浮かべてから、脇目も振らずにセレナの元へ疾駆し、両手を掴んだ。
「セレナちゃん。立てるようになったんだね」
セレナも、精一杯背筋を伸ばして答えた。
「これも、キクノ殿のお陰です」
「いえ、私は何もしていないわ。本当に感謝すべき人は、他にいるんじゃないの?」
背後に立つカズヤを横目に言うと、セレナは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
それを見たキクノは悪戯に笑うも、すぐに表情を引き締めた。
「先に忠告しておくけど、伝えたい言葉があるなら今のうちに言った方がいいわ。我ら騎士は常に最前線に立たねばならぬ身。無事に彼の元に帰れるとも限らないんだからね」
「解っています。……しかし、今はまだ伝える時ではありません」
自分でもよく解らない返しではあるのだが、キクノは何かを察知してくれたのか、それ以上言い募ることはなかった。
その時だった。いつの間にか発着場の周囲に休憩中の兵士たちが三々五々集まっており、カズヤに訝しげな視線を向けていた。
よくよく考えれば、騎士でもない彼が騎竜を所持していることは問題でしかない。禁書目録が撤廃されたとはいえ、未だ人界の民には「騎士以外が飛竜を所持することは禁ずる」という固定概念に囚われているのを忘れていた。
今すぐ誤解を解かねば。
その時だった。周囲の人垣の一箇所が、まるで見えない巨人の手で掻き分けられたかの如くさっと割れた。
人垣の奥から届いてきたのは、セレナにとってはとても懐かしく、同時に痛いほどの緊張を覚えずにはいられないあの声だった。
「おら、全員訓練に戻れ、休憩は終わりだ」
周囲の兵士はその一言で散っていき、カズヤはゆっくりと体の向きを変えて、声の主を見た。
東域風の、ゆったりとした前合わせの衣。低い位置で結わえた幅広の帯。その左腰に、無造作に突っ込まれた無骨な大剣。両足に突っかけているのは、木製の履き物。
侍にも似た軽装をしているが、その鍛え抜かれた体から発せられる圧力は、どんな鎧よりも厚く、重い。
短く刈り込まれた頭髪をごしっと擦り、声の主は口許にニヤリと笑みを刻み、まずセレナを見やった。
「よう、嬢ちゃん。足の怪我が治って安心したぜ。少しだけ気の抜けた顔になったかい?」
「……騎士長。ご無沙汰しておりました」
セレナは、涙が滲みそうになるのを必死に堪えながら、世界最古にして最強の剣士──騎士長ヒサカゲに一礼した。
無骨な優しさに満ちた笑みを滲ませたまま、ヒサカゲはゆっくりと体の向きを変え、唯一の弟子──カズヤの瞳を見詰め、ぐっと力強く頷く。
「久しぶりだな、カズヤ。嬢ちゃんと違って、お前さんはかなり凛々しい顔つきになったじゃねーか」
「同じことを、キクノさんにも言われましたよ」
強がりを言っているが、表情に余裕がない。口許も引き締まっているし、彼もそれなりに緊張しているのが見て取れる。
人界を最も長く守護した騎士長にとって、カズヤはただ一人の弟子であり、かなり気にかけている人物だ。そして同時に、この世で数少ない、騎士長すら油断できない剣士でもある。
騎士長も、カズヤが特異点であることを知っている。そして、覚醒した能力についても。
「……騎士長……」
セレナは、音にならない声を絞り出した。
騎士長は、神器《斬穿剣》の柄を握っている。同時に、途轍もない覇気を纏っている。
カズヤを斬るつもりだ。
騎士長の強烈極まる覇気に圧倒され、キクノも、天幕の飛竜たちすらも黙り込んだ。呼吸もおぼつかないほどに重く圧縮された空気の中で、セレナは必死に右手の指を動かそうとした。
だが、セレナが愛剣の柄に触れる寸前、カズヤの口がかすかに動き、思念にも似た声が響いた。
──見てろ、セレナ。
「…………!?」
セレナが息を詰めた、その刹那。
キン! という硬質な音が響き、カズヤとヒサカゲの間の中空で、銀色の閃光が弾けた。
──いまのは!?
セレナは驚愕のあまり小さく喘いだ。気付くと二人は、互いの神器を既に抜いていた。
ヒサカゲはさっきまでの覇気が幻だったかのように太い笑みを浮かべていた。
「再会してすぐに稽古なんて、相変わらず厳しいですね。師匠は」
「それがオレのやり方だ。腕は鈍ってないみたいで安心したぜ」
師弟の短い会話を遮るように、セレナが訊ねた。
「き……騎士長……今のは?」
呆然と呟いたセレナに向かって、騎士長はあたかも稽古の後ででもあるかのように、指先で顎を掻きながら言った。
「いまのは、オレなりの歓迎だ」
「か……歓迎、ですか……?」
「ああ。一年間修練を怠っていないか確認するための稽古でもある」
「そ、そうですか。……それで、結果は?」
「合格さ。カズヤの実力は一切衰えてない」
セレナは思わず、カズヤの顔を眺めた。
彼は一年、剣に触れることなど手入れ以外なかったはず。私を戦いから遠ざけるために、剣を使っての稽古など一度もしていなかった。
なのに何故、以前よりも強くなったと言えるんだ。
その疑問に答えるように、騎士長は確かな声で発した。
「少年はな、毎日剣と対話していたのさ。一日も欠かさず行った手入れを通じて、な。あの様子だと、周りの音が聞こえないほど熱中してたんじゃないか?」
そういえば──。
いつもカズヤは、夕食前に三本の剣の手入れをしていた。一本に十分以上も時間を掛けていたが、その間は私の声に一切反応しなかった。てっきり外部の音が聞こえないほど集中しているのかと思っていたが、本当なずっと、剣と意識を交わしていたのか。
「とにかく、嬢ちゃんらは長旅で疲れてるだろ。今日はゆっくり休んでくれ」
「ちょっと待ってください」
剣を鞘に収めたカズヤが、天晴れというべき気概を見せて、最古の騎士ヒサカゲに意見を述べた。
「先程大門を見てきましたが、あの様子では残り一週間以内には敵陣が人界に攻め込んできます。今は、一分一秒でも多く戦力増強に奮闘すべきだと思います。セレナはともかく、俺はそれほど疲れてません。だから……」
「おいおい」
ヒサカゲの声は、穏やかな笑みと同時に、銘刀の如き鋭さを帯びていた。
「時間がないから、だろ」
瞬時に、しんと周囲が静まり返る。
「限られた時間の中で戦力を増幅させるのは間違ってない。だが、疲弊が溜まった状態で戦場に赴けば、必ずミスが生じる。それを避けるために、今のうちに休んでおくんだ」
「……ッ!? そ、それは……。たしかに」
「焦る気持ちも解るが、心に余裕を持っていこうぜ。お前さんはオレたち人界の希望でもあるんだから、無理だけはするな」
「お、俺が希望!?」
騎士長の不意打ちの発言に声を荒げながら反応すると、騎士長はなおも続けた。
「忘れたのかい。お前さんは、このオレの弟子なんだぜ。騎士長ヒサカゲの一番弟子のお前は、ある意味人界にとっちゃ希望みたいなもんだろ」
これにはもうカズヤも返す言葉がないようだった。当然だろう。人界最強の騎士が認めてしまえば、それ相応の責任が課せられることになるのだから。
今の話を兵士に聞かれていなかったのは不幸中の幸いではあるが、多分、今のカズヤの精神には途轍もない責任感が伴っているだろう。
「キクノ。嬢ちゃんと少年を案内してやれ」
「了解です、騎士長。さ、二人とも。ついてきて」
キクノの指示に従い歩き出すも、やはりカズヤの顔色は酷く青ざめていた。
カズヤは、与えられた野営用天幕の内部をぐるりと見回し、軽くため息をついた。
簡易ベッドは綺麗に整えられているし、床に敷かれた羊革はまったくの新品で、空気も日向っぽい匂いしかしない。それらは大いに結構だが、この天幕がカズヤのために急遽空けられたものではないことは明らかだ。つまり、師匠はカズヤとセレナの参陣に備えて、騎士用天幕を二つ余計に設営させていたということになる。
信頼の証と受け取っておけば聞こえはいいが、師匠の人となりを知っていると、思考や行動を丸ごと見抜かれているような気もしてくる。
だが──別に気にすることではない。元々、セレナを置いて一人で戻ってくるつもりだったのだから。
入り口脇に置かれた荷袋を担ぎベッドに置いてから隣に座り、靴を脱ぎながら考えを巡らせる。
作戦会議は明日の午後に行われ、俺とセレナも出席する様に言われている。確かその場には、騎士長と副騎士長、他の騎士や衛士長などが呼ばれると知らされている。
現状の報告や騎士たちの紹介も兼ねているから絶対に遅刻するな、とセレナに念押しをされているのを思い出しながら、荷袋に入っている二本の長剣を引っ張り出した。
「カムイさん……」
まず焔天剣を、次に激凍剣を手に取ってから、ボソリと呟く。
セレナは、俺が剣と対話するために手入れを真剣に行っていたと思っているらしいが、目的は別にある。
剣には意思がある。それは、カムイさん自身が俺に教えてくれた言葉でもある。
俺はただ、その意思──剣に残留している所有者の声、カムイさんの声を聞きたいだけなんだ。
元いた世界にあるオカルト本で見たことがある。強い思念は物に乗り移る、と。カムイさんほどの強い意思を持つ人ならば、その意思を剣に宿すのも不可能じゃない、俺は勝手にそう信じ込んでいた。
だから俺は、毎日愚直にも剣に語りかけた。もう一度だけでも、カムイさんと話したい思いから、何日もめげずに続けた。
しかし、結局、一度も話すことができなかった。
……もしかして、俺自身が既に認めてしまっているのか?
もう、カムイさんの意思は人界のどこにもないと。
天界の騎士といえども、意思の消滅に抗うことは出来ないのか。いや、例え残っていたとしても、自分を殺めた存在に送る言葉などないと言うのか。
──でも、それでも俺は信じ続けます。
──消えたはずのセレナとユリの意思が教えてくれた。俺が覚えている限り、その人は永遠に残り続ける。記憶が存在する限り、思いは紡がれていく。
カズヤは激凍剣を強く抱き締め、柄に頰を当てる。ひんやりと冷たいが、どこか温かさを感じさせる。
……カムイさんの意思が残っているなら、今の行動をどう思っているだろう。
そんなことを考えていると──。
不意に、ちりん、と軽やかな鈴の音が響き、カズヤは跳ねるように体を起こした。
慌てて天幕の中を見回すが、もちろん誰もいない。ようやく、天幕の入り口に取り付けられた紐つきの鈴が鳴ったのだと悟る。
来客だ。わけもなく咳払いし、息を整えてから、カズヤは足早に天幕を横切った。
どうせセレナだろうと思い、二重になっている出入り口の垂れ幕の、内側の薄布に頭から突っ込むと、カズヤは外側の分厚い毛皮も左手で一気に払った。
そして、開きかけた唇をぴたりと止めた。
眼前に立っているのは、天界の騎士でも、一般兵でもなかった。思わずまじまじと凝視してしまい、開いた口を閉じようとしなかった。
出入り口に立っていたのは、男性と女性の二人。男性の方は両手で捧げ持った蓋付き鍋を持っており、もう片方はトレイの上に空の器三つと大量のパンが入った籠を持って立っていた。
だが、そんなことがどうでも良くなるほどの衝撃に見舞われた。
鍋を持つ男性は、夕焼けが反射するほどの艶を持つ黄金色の髪に、両眼は濃いグリーンとかなり特徴的な瞳を持っている。
女性の方は、紫色の長髪を後ろに結わえている。そして何より特徴的なのは、頭からピョコンと出ている獣耳と、腰に生えている大きな尻尾だ。
守備軍の一員であるらしいが、それなりの立場なのだろうか。他の兵士よりもお高い鎧を身につけている。だが、その下の服装は、どこかの学園の制服……知ってる学園の制服だ。
いや、知ってるのは学園だけではない。俺は、この二人そのものをよく知っている。
カズヤは、天幕を訪ねた二人を交互に見てから、未だ衝撃の抜けていない口を懸命に動かした。
「サヤ……ワタル……」
学園での旧友は一瞬、ほっとしたように頬を緩めた。すぐに姿勢を改め、靴の踵を打ちつけながら名乗る。
「騎士カズヤ殿! 夕食をお持ちしました!」
「……そうか、ありがとう」
ねぎらいながら鍋を受け取ったカズヤは、二人の様子がおかしいことに遅れて気付いた。
俺は騎士同様の権限が与えられている話は、天幕に案内されるまでにキクノさんから聞いてはいるが、それは作戦内でのみの処置であり、今はまだそこらの一般兵となんら変わらない役職のはず。
「こちら、パンと器になります」
差し出されたトレイと籠を受け取ってから、俺は少しだけ躊躇うように言った。
「そんなに畏まらなくてもいいよ。今の俺は単なる一般兵なんだから」
そう言いかけた瞬間。
二人は一斉にため息を吐き、先ほどまでのお堅い口調とは思えない声音で言った。
「そう。なら、いつも通り話させてもらうね」
「カズヤ相手に変に緊張して疲れちゃった」
「……お前ら、切り替え早すぎだろ」
いっそ清々しいまでの態度の急変に肩を落としながら、改めて考えを巡らせる。
いくら守備軍が人員不足だと言っても、学生の徴用まではしているまい。となると、二人は自ら志願して、まだ安全な中都から危険な戦地にやってきたのか。まだ学園すら卒業していない彼らが、いったいなぜ……。
右手に鍋、左手に籠を持ったままカズヤがまじまじと二人を見ていると、サヤは俺から籠を奪い取り、天幕の中に図々しくも勝手に入って行った。
「お前! 何勝手に入ってんだよ!」
「別にいいでしょ。あんたの天幕でご飯食べるために、夕食多く貰ってきたんだから」
だから空の器が三個もあったのか。とどうでもいいことに納得している隙に、鍋を奪い取ったワタルもズカズカと天幕へ入って行った。
「ちょ、ワタルまで!? もう……」
呻きながらも、学園で過ごした懐かしいやり取りに少しだけ嬉しくなりながら天幕に戻ろうとし。
足を、止めた。
二人は知らないんだ。俺が特異点と呼ばれる人工的に造られた命であり、騎士を殺めた人界で一番の罪人であることを。
そんな俺が、彼らと一緒に食事をする権利などないに決まっている。例え二人に許されたとしても、俺自身が許せない。
今更、ごまかすことはできない。
二人には全てを知る権利がある。恐らく彼らは、教会に連行された俺にもう一度会うためだけに守備軍に志願し、ここまでやってきたのだろうから……。
意を決し、毛皮の垂れ幕を持ち上げ、天幕の中へ足を運んだ。
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