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本編
第六節 化けの皮
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ミラは、久しぶりに礼拝堂を訪れていた。彼女とて聖女に成り得る人材なのだ。病に苦しむ民を救いたいという心を、たしかに持ち合わせていた。聖女になって数日は浮かれていたところもあったが、これからは本腰を入れて病を一掃しようと考えていたのである。
(え……?)
しかし、それがまったくの夢物語であるということを、彼女はここに来て、ようやく思い知ったのである。病にかかっている者の数が、文字通り桁外れであった。それがまた、こうしている間にも増えていく。エリスが祈りをやめた弊害が、ここに如実に現れていた。これでは、何年かかっても病の一掃などできる訳がない。むしろ、すべての民が病にかかってしまうのではないかと思われた。
(ど……どうするの?)
ミラの首筋を、冷や汗が伝った。
(だ……大丈夫よ大丈夫。あのエリスだって、きっと見て見ぬ振りをしていたんだわ。こんな数、対処できる訳がない。そう。そうよ、祈りの間も、きっと寝ていたに違いないわ。それに……そう、何やら教会の方では、病を防ぐ聖水を作っているという話を耳にしましたわ。それがあれば、何の問題もありませんでしょう? ええ、そうに決まっていますわ……)
そのエリスが、病の広がりを抑え、聖水の流通を阻み、民を守っていた。その事実を、今のミラが認めることはないだろう。
礼拝堂から戻ってきたミラの顔が珍しく蒼白であったため、御付きの者は心配した。
「礼拝、お疲れ様でした。御気分がすぐれないのですか?」
「ええ……少し休むわ。悪いけれど、今日の会食はキャンセルでお願い……」
「承知いたしました」
今晩も例の会食があると思っていた侍女は、肩透かしを食った気になった。ミラ様と言えど、体調の悪いときはあるのだろう。そう片付けた。
ミラは、天蓋付きのふかふかのベッドに潜り込んだ。ちなみに、これも彼女の意向により用意させたものである。
(大丈夫……大丈夫よ。私は、私は、ずっと聖女でいられるわ……)
そのとき、ミラの不安を煽るように、雨風が窓をガタガタと叩き始めた。
――――
ザアァアアァ……
わたしは、背の高い木の下で雨宿りをしていた。向こうに、口を開けた水筒を置いてきている。これで何日かは保つだろう。この雨は幸いと言えた。ただ、肌を刺す冷たい風、どうしようもない空腹、独りという心細さ。それはまったく、幸いだとは言えなかった。
「……」
ザアァアアァ……
「ぐっ……うっ……」
泣いた。泣いてしまった。国を出てから、これまで一度も泣かなかったのに……。そのせいだろうか? 余計に涙が止まらなかった……。
どうして? 民の幸せを願っていただけなのに。皆の役に立ちたいと思っていただけなのに。どうして、こんな思いをしなくちゃいけないの?
「ぅわあぁああっ! ぅぁ、ぁあああああっ!」
おかあさん、おとうさん……会いたいよぉ……っ。
違う……! わたしは、聖女なのだから、もっとしっかりしなくちゃいけないんだ。
そう思えば思うほど、嗚咽は止まらなかった。
「ぐすっ……」
雨の勢いが、だんだん収まってきた。
今のわたしができることなんて、もうこれぐらいしかないんだ……。
雨に濡れないように抱いていた鞄から、本を取り出した。
――――
聖水――。なんと甘美な響きだろう。魔を打ち払う、万能の清水。その存在を知ったのは、やはり、ルゥの口からだった。
「それが病を治すというの?」
「はい。民の病に対する不安は、この聖水により解消されるとのこと。大司教様が仰っていました。今は、すべての民に供給するための準備を整えているとのことです」
民の不安を解消したいのは、わたしも同じだった。けれど、この聖水というのは、一体どのようなアプローチで病を治すというのだろうか?
「その聖水は、どのような仕組みで病を治すの?」
「いえ……良く、分かりません」
「その聖水に、何が入っているの?」
「それも……良く、分かりません」
「その聖水は、本当に利点だけしかないの?」
「えっと、どうなのでしょう……」
「……」
「申し訳ありません、調査不足で……」
「いいえ……」
ここで、わたしは閃いた。
「……ねぇ、ルゥ。お願いがあるのだけれど」
「な……また私に危ない橋を渡らせるおつもりでは……っ」
「ね、お願いルゥ。こんなこと、気心の知れたあなたにしか頼めないの」
「ひ~、御自重を~っ!」
翌日、わたしたちは自室にて聖水を検分していた。念を入れて、部屋の鍵は掛けてある。
「へぇ、これが聖水なのね」
「はい。この水を飲むことで、身体が浄化され、あらゆる病が治るとのことです」
持ち上げた小さな瓶には、無色透明の水が入っている。やはり、この聖水が何であるかを見ただけで把握することはできなかった。普通の手段では。
「師は云われた。神のもとでは、一切の隠し事はできないと――」
パリンッ
「―リス様? エリス様!」
「ぅ……ぁ……ル、ゥ?」
「エリス様! お気をしっかり!」
どうやら、一時的に気を失ったらしかった……。
視界には、割れた瓶と、床に広がる液体があった。
「ごめんなさい、心配かけたわね」
「いえっ……もう大丈夫なのですか?」
「ええ。ちょっと、あまりにも酷くて……」
一言で言えば、これは毒物だった。薬と毒は紙一重であるという。しかし、これは毒に分類されるものだった。これを民に飲ませるなど、正気の沙汰ではない。金儲けにしては、あまりに度が過ぎていた。いや、本当にただの金儲けでこのようなことをするだろうか? 加えて、この聖水を作るために、あまりにも多くの動物の命が使われていた。
「ルゥ。あなたは、間違っても聖水を飲んではいけないわ。もしそのときが来ても、何とか誤魔化すの。良いわね?」
「分かりました、分かりましたから、どうか寝室へ……っ」
わたしは……もっと祈らないといけない。この聖水が普及してしまっては、取り返しのつかないことになるのだ。病気にかかったと判定される者が増えないよう、病を消してしまわないといけない。こんなところで寝ている場合じゃない、の、に……。
(え……?)
しかし、それがまったくの夢物語であるということを、彼女はここに来て、ようやく思い知ったのである。病にかかっている者の数が、文字通り桁外れであった。それがまた、こうしている間にも増えていく。エリスが祈りをやめた弊害が、ここに如実に現れていた。これでは、何年かかっても病の一掃などできる訳がない。むしろ、すべての民が病にかかってしまうのではないかと思われた。
(ど……どうするの?)
ミラの首筋を、冷や汗が伝った。
(だ……大丈夫よ大丈夫。あのエリスだって、きっと見て見ぬ振りをしていたんだわ。こんな数、対処できる訳がない。そう。そうよ、祈りの間も、きっと寝ていたに違いないわ。それに……そう、何やら教会の方では、病を防ぐ聖水を作っているという話を耳にしましたわ。それがあれば、何の問題もありませんでしょう? ええ、そうに決まっていますわ……)
そのエリスが、病の広がりを抑え、聖水の流通を阻み、民を守っていた。その事実を、今のミラが認めることはないだろう。
礼拝堂から戻ってきたミラの顔が珍しく蒼白であったため、御付きの者は心配した。
「礼拝、お疲れ様でした。御気分がすぐれないのですか?」
「ええ……少し休むわ。悪いけれど、今日の会食はキャンセルでお願い……」
「承知いたしました」
今晩も例の会食があると思っていた侍女は、肩透かしを食った気になった。ミラ様と言えど、体調の悪いときはあるのだろう。そう片付けた。
ミラは、天蓋付きのふかふかのベッドに潜り込んだ。ちなみに、これも彼女の意向により用意させたものである。
(大丈夫……大丈夫よ。私は、私は、ずっと聖女でいられるわ……)
そのとき、ミラの不安を煽るように、雨風が窓をガタガタと叩き始めた。
――――
ザアァアアァ……
わたしは、背の高い木の下で雨宿りをしていた。向こうに、口を開けた水筒を置いてきている。これで何日かは保つだろう。この雨は幸いと言えた。ただ、肌を刺す冷たい風、どうしようもない空腹、独りという心細さ。それはまったく、幸いだとは言えなかった。
「……」
ザアァアアァ……
「ぐっ……うっ……」
泣いた。泣いてしまった。国を出てから、これまで一度も泣かなかったのに……。そのせいだろうか? 余計に涙が止まらなかった……。
どうして? 民の幸せを願っていただけなのに。皆の役に立ちたいと思っていただけなのに。どうして、こんな思いをしなくちゃいけないの?
「ぅわあぁああっ! ぅぁ、ぁあああああっ!」
おかあさん、おとうさん……会いたいよぉ……っ。
違う……! わたしは、聖女なのだから、もっとしっかりしなくちゃいけないんだ。
そう思えば思うほど、嗚咽は止まらなかった。
「ぐすっ……」
雨の勢いが、だんだん収まってきた。
今のわたしができることなんて、もうこれぐらいしかないんだ……。
雨に濡れないように抱いていた鞄から、本を取り出した。
――――
聖水――。なんと甘美な響きだろう。魔を打ち払う、万能の清水。その存在を知ったのは、やはり、ルゥの口からだった。
「それが病を治すというの?」
「はい。民の病に対する不安は、この聖水により解消されるとのこと。大司教様が仰っていました。今は、すべての民に供給するための準備を整えているとのことです」
民の不安を解消したいのは、わたしも同じだった。けれど、この聖水というのは、一体どのようなアプローチで病を治すというのだろうか?
「その聖水は、どのような仕組みで病を治すの?」
「いえ……良く、分かりません」
「その聖水に、何が入っているの?」
「それも……良く、分かりません」
「その聖水は、本当に利点だけしかないの?」
「えっと、どうなのでしょう……」
「……」
「申し訳ありません、調査不足で……」
「いいえ……」
ここで、わたしは閃いた。
「……ねぇ、ルゥ。お願いがあるのだけれど」
「な……また私に危ない橋を渡らせるおつもりでは……っ」
「ね、お願いルゥ。こんなこと、気心の知れたあなたにしか頼めないの」
「ひ~、御自重を~っ!」
翌日、わたしたちは自室にて聖水を検分していた。念を入れて、部屋の鍵は掛けてある。
「へぇ、これが聖水なのね」
「はい。この水を飲むことで、身体が浄化され、あらゆる病が治るとのことです」
持ち上げた小さな瓶には、無色透明の水が入っている。やはり、この聖水が何であるかを見ただけで把握することはできなかった。普通の手段では。
「師は云われた。神のもとでは、一切の隠し事はできないと――」
パリンッ
「―リス様? エリス様!」
「ぅ……ぁ……ル、ゥ?」
「エリス様! お気をしっかり!」
どうやら、一時的に気を失ったらしかった……。
視界には、割れた瓶と、床に広がる液体があった。
「ごめんなさい、心配かけたわね」
「いえっ……もう大丈夫なのですか?」
「ええ。ちょっと、あまりにも酷くて……」
一言で言えば、これは毒物だった。薬と毒は紙一重であるという。しかし、これは毒に分類されるものだった。これを民に飲ませるなど、正気の沙汰ではない。金儲けにしては、あまりに度が過ぎていた。いや、本当にただの金儲けでこのようなことをするだろうか? 加えて、この聖水を作るために、あまりにも多くの動物の命が使われていた。
「ルゥ。あなたは、間違っても聖水を飲んではいけないわ。もしそのときが来ても、何とか誤魔化すの。良いわね?」
「分かりました、分かりましたから、どうか寝室へ……っ」
わたしは……もっと祈らないといけない。この聖水が普及してしまっては、取り返しのつかないことになるのだ。病気にかかったと判定される者が増えないよう、病を消してしまわないといけない。こんなところで寝ている場合じゃない、の、に……。
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