尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

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第二章

(一)

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 目を開くと、板張りの天井を蝋燭の火がゆらゆらと照らし出していた。氏勝はおのれがどこにいるのかすぐにわからず、しばし混乱する。
「申し訳ありません。起こしてしまわれましたか」
 声に気付いて目を向けると、夜具の傍らに座っている女の姿が見えた。もちろん、知らぬ女性ではない。室のお松であった。
「……何をしておる」
「御顔を拝見させていただいておりました」
 お松はくすりと笑い、言った。いったい何をしておるかと思えばと呆れながら、氏勝はようやく状況を飲み込み、身を起こす。ここは上野国、厩橋うまやばし城下にあるおのれの屋敷。その寝所で夢を見ていたようであった。
悪食あくじきよの。さようなものを見ていて楽しいのか」
「楽しゅうございます。我が旦那さまは眠っておられるときのほうが、よほど気色が豊かでございますゆえ」
 お松はなおも笑みを湛えたまま続ける。この女のかような遠慮のない物言いは、常日頃からのものだ。そうした気性を、氏勝はむしろ好ましく思ってもいる。
「とても良いお顔で笑われたかと思えば、こちらの胸が詰まりそうなほど悲しげにお泣きになられ……いったい、どのような夢をご覧になっておられたのやら」
「……泣いていた、か」氏勝はさすがに気まずさを覚え、顔を背けて立ち上がる。「誰にも言うでないぞ」
「心得ております」と、お松は恭しく頭を下げた。されどその顔は、まだ愉しげにほころんでいる。
 氏勝は寝所を出ると、縁に出た。夜はまだ明けてはおらず、表は闇に沈んでいる。重く雲が垂れ込めているのか、見上げたところで月も星も見えなかった。
「夜風はまだ冷とうございます。お身体を冷やされませぬよう」
 あとを付いてきたのか、お松が案ずるように声を掛けてきた。氏勝は首を振ると、「構わぬ」と答える。慥かにまだ二月とあってきんと冷え込んでいるが、奥飛騨の冬の風と比べれば優しく撫でるようなものだ。
 このお松を嫁に取り、徳川家に仕え、はや五年が経とうとしていた。婚儀とともに氏勝は信濃守を任ぜられ、五百石の禄を与えられた。以来徳川家重鎮・平岩主計頭親吉の配下として厩橋にあり、勘定方として上州の領内整備に駆り出される日々を送っていた。
 二度にわたった朝鮮への出兵は、太閤秀吉の死とともに取り止めとなった。されど派兵された軍勢も順次引き上げてきたものの、明との間の講和交渉は今も続けられている。五年の戦役は結局、多くの兵の命と戦費を無にしただけに終わった。
 されど、それでも世に安寧は訪れなかった。太閤が死したことで、それまで辛うじて隠されていた歪みが、一気に目に見える形となって表れたのだ。抑圧されてきた諸将の不満、いやむしろ怨嗟と言っていい感情は、文治派と呼ばれる石田治部少輔三成ら吏官たちに集中した。そしてその膨れ上がった怨嗟を、徳川内府家康は着実に己への支持として吸収していった。
 結果、石田治部少は奉行の地位を追われ、蟄居を余儀なくされた。また家康と並ぶ実力者であった加賀大納言利家も世を去ったことで、徳川家は権力をほぼ手中にしたと言ってよかった。されどいまだ太閤の遺児秀頼を奉じた豊臣家は残っており、家康の強引な手法に不満を抱く勢力も隠然たる勢力を保っている。野に下った治部少三成もこのまま大人しくしているとは思えず、いずれまた大きな戦へと発展するような不穏を孕んだまま、明けて慶長五年(西暦一六〇〇年)を迎えていた。
 されどそうした中央の喧騒もここ上州からは遠く、一見すると世は安寧を得たかのごとき静かな日々が続いている。とはいえそれだけに、中村家から本来任じられていた間者としての務めはろくに果たせずにいた。何しろ肝心の家康はほとんど伏見に居り、その動静もわずかに仄聞そくぶんする程度にしかわからぬのだ。
 それでもどうにか見聞きしたことを、折に触れ内匠へと伝えてはいるが、はたしてどれだけ役に立っていることか。これでは間者として失格であろうな、と自嘲するしかなかった。されどこうなることはおのずとわかっていたことでもあって、いったい中村の殿は何を思って、かような形でこの身を徳川へ送り込んだのか。そもそもが何も期待されてはおらぬのか。そう訝りたくもなってくる。
「我はここで、もう少し風に当たっておる。そなたは奥に戻るといい」
「よろしいのですか?」
「良いから言うておる。わしもすぐに戻る」
 お松は「……それでは」と言って静かに奥へ戻って行った。おそらく慣れぬ者には、上州の冬でも十分に寒いものであろう。身体に障ってはいけない。
 されどこのお松もまたおかしな女性だった。氏勝はつくづくそう思う。どうしてかように面白味もなく、そもそも出世する気すらない男に嫁ぎ、文句のひとつも言わぬのか。
 思い返せば、祝言を上げた最初の夜からしてそうであった。氏勝は言ったものだ。「そなたも不憫な女子よの」と。
「所詮は我もそなたも、何やらわからぬ思惑の手駒に過ぎぬ。そのためとはいえ、よりにもよって我のようなうだつの上がらぬ者に娶られるとはの。そなたほどの女子であれば、もっと良い相手がおったであろうに」
 そう本音を漏らしてみても、この者は涼しげな顔で笑って答えた。「はて、不憫なのはどちらでございますやら」
「それはどういう謂だ?」
「私など、ただ徳川さまに見初められた女性にょしょうの妹というだけにございます。そのお陰で父も還俗して大層な官位をいただきましたが、ほとんど市井の者と変わりませぬ」
 慥かにお松の実家である志水家は、石清水八幡の祀官家である紀姓田中氏の係累であったが、あくまでも傍流のため、当主の宗清は京都の正法寺に僧侶として派遣されていたと聞く。つまりはそれだけ、係累の中でも格が低かったということだ。
「旦那さまのご身分については、姉より聞かされております。何でも飛州ではご城主の嫡男であらせられたとか。私のような者が正室では、いずれ御家を再興されたとき、お邪魔にならぬかと心配してしまいます」
「……何を申すかと思えば」
 その言葉には、氏勝も思わず失笑してしまった。もっともその顔は相変わらず、余人には到底笑っているようには見えなかったかもしれないが。
「案ずるな。家の再興など考えてもおらぬ。気にするだけ無駄なことよ」
 それは氏勝の本心であった。むろん、父の代まで続いてきた山下の家に思い入れがないわけではない。されどその家はあくまでも、内ヶ島家あってのものだったのだ。その本家が滅んだ今となっては、山下の家だけ再興させても意味がないと思っていた。
「まことでございますか?」
「ああ、偽りではない。取り立てて立身も望んでおらぬ。信濃守などという官位も身の丈に合わぬゆえ、据わりが悪くて困っておる」
「……では?」と、お松は不思議そうに首を傾げた。「何ゆえ、かような話をお受けになったのでございますか」
 そう問われて、氏勝はしばし考え込んだ。はて、おのれはどうしてこの話を受けることにしたのであろうと。
 慥かに武士であれば、上から命じられれば従わねばならぬ。されど嫌なら、すべてを捨てて出奔すればいいだけのことだったのだ。なのにそうしなかったのは、いったい何ゆえなのか。もちろん内匠への義理も少しはある。されど、そればかりでもない気がしていた。
「ただの成り行き、かの」
 思案した末、そんな言葉がふと口をついて出た。結局のところ、そうとしか言えぬ。おそらくはもうおのれの中には、それを拒んで逃げるほどの熱いものも残っていないのだ。ならば流されるままに任せてしまっても、別に構うまいと思ったまでのこと。
「酷い言われようにございます。私は何て変な殿方に嫁いでしまったのでしょう」
 お松はそう言ったが、なおも可笑しそうにくすくすと笑っている。それを笑うこの女子も、なかなかに変わっていると言えた。つまりは変わり者同士、似合いの取り合わせということか。
 それゆえであろうか。その日から五年、大きな波風が立つこともなく夫婦を続けてきている。いまだ子には恵まれぬものの、家なるものに執着がない以上はどうということもない。もしかしたらおのれは、それなりに幸福に生きているのではないかとさえ思うときがある。
 されどそんな折に決まって、ふっと胸の裡を乾いた風が吹き抜ける。半三郎、と呼ぶ声が聞こえる。それとともにほんのりと感じていた温もりも消えて、また冷え冷えと醒めてゆく。おのれはここで何をしておるのだ。何ゆえ、まだ生きている。幾たびも繰り返したその問いが、わずかに開いた唇から漏れ出てくる。
 もうすっかり遠くに過ぎてしまったあの日。変わり果てた帰雲の地を目の当たりにして、何ゆえおのれはその場で腹を切らなかったのか。何ゆえそれから十と五年もの間、こうして抜け殻のように生きてきてしまったのか。
「そなたは生きよ」と、父の声が耳に蘇ってくる。「生きて、おのれの為すべきことを為すのじゃ」と。されどその為すべきことも、あのとき冷たい水と土塊の下に埋もれてしまった。ならばおのれが生きる理由も、ともに失われてしまったはずだった。
 それとも、まだ何かあるとでも思っているのであろうか。おのれはいまだ心のどこかで、この世におのれの為すべきことが残っているとでも期待しているのか。
―――どうか、この半三郎にお任せくださいませ。若殿のために、ここに新たな都を築いて御覧に入れましょう。
 また耳の奥に響いた遠き日の声を、氏勝は頭を振って払い除けた。そんなものは、世の理も知らぬ童の思い付き。主の沈んだ顔を晴らしたくて、咄嗟に広げた大風呂敷に過ぎぬ。
「……愚かなことよ」
 はっきりと声に出して、立ち上がった。このままここで風に打たれていても、詮もないことが頭の中で膨らむばかりだ。そう思って背を向けかけると、ふと庭に何かの気配を感じた。
「……藤七とうしちか?」
 声を抑えてそう問うと、灯篭の陰から小柄な人影が進み出てきた。やはり思った通り、藤七であった。出で立ちはいかにも旅の商人といった風情だが、それが屋敷の物陰から現れると不自然なものである。
 駿府にある内匠との連絡は、すべてこの男を通して行っていた。かといって、中村家から禄を得ているわけではないと聞く。その都度わずかな路銀を受け取って務めをこなす、いわゆる流しの忍びであるとのことだ。
「何用じゃ。すまぬが、今日は藪さまに伝えられるようなことは何もないぞ」
 藤七は「いえ、いえ、いえ」と繰り返しながら、庭の中程まで進み出てくると、音も立てず静かに跪く。
「今宵は内匠さまよりの言伝に参上した次第にて。都合良く縁に出ておられてようございました。ご内儀もおられる寝所にお邪魔するのは、いささか気が引けたものゆえ」
「藪さまより言伝だと?」
「さようで」と短く答えて、藤七は顔を上げた。「内匠さまは、徳川内府に目通り願いたいとのこと。それも、出来得る限り隠密に。山下さまには、その段取りをつけていただきたく存じます」
「大殿に……それは、難しいぞ」
 出来得る限り隠密にと言うことは、その言伝を直に家康へと伝えろということだった。されど徳川内府家康は、ここ数年のほとんどを上方で過ごしている。おのれの領地である関東へ戻ることも稀で、ましてこの厩橋に足を運びなどしない。ゆえに氏勝が対面したのも、あの名護屋での一度きりである。そんな相手に、どうやって言伝をせよというのか。
「わかっております。内府の周辺は今や徳川方の伊賀者だけでなく、石田方の間者も雲霞の如くひしめいている様子。あたしでさえ、満足に近付けぬありさまにございます。ゆえ、密書ですら届ける手立てもなく」
「であろう。藪さまも、それがわかっていながら何ゆえ……」
「されど山下さまであれば、うまくやれるであろうとのこと。内匠さまはそう信じておられるようで」
「な……」
 そう言われてしまえば、もはや二の句も継げなかった。慥かにこれまで間者としてまるで役にも立てておらず、焦りは感じていた。されどだからと言って、できることとできないことがある。
「やりようはお任せいたします。どうか、よろしくお頼み申します」
 それだけ言うと、藤七は現れたときと同じように唐突に、霧が晴れるがごとく姿を消した。氏勝はそれを見送りながら、ただ途方に暮れて立ち尽くす。内匠もいきなり、また無理難題を押し付けてきたものだ。
 それに今になって家康に面会して、内匠は何をしようとしているのか。まさかあの御仁も中村家を捨てて、出奔でもしようとしているのか。忠義厚い内匠に限ってはありそうにないことであったが、そうでも考えねば理解ができなかった。
「いったい……何がどうなっておるのか」
 問うてみても、もはやそれに答える者は誰もいなかった。
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