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~幕間~
(二)
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以後も度々の揺り返しに耐えながら、ようやく夜明けを迎えた。そうして明るくなるとともに、集落の惨状も露わになってきた。やはり目も当てられぬ有り様だった。無事な家屋はほとんどなく、傾きながらも辛うじて持ち堪えている庄屋の屋敷に、逃げ延びた者たちが身を寄せ合うように集まっている。
父の時慶は治兵衛らと、沈痛な表情で合議をしていた。下の集落を見てきた者も戻ってきたようだが、あまりの有り様に嗚咽を堪え切れぬ様子であった。各地に放った早馬も戻ってきたようだが、帰雲の城にはやはりたどり着けず、途中で引き返してきたとのことだった。
「やはり、ここは捨てるしかないのか……」と、時慶の声が聞こえた。その言葉に耳を疑い、氏勝は思わず口を挟んでいた。
「荻町を捨てるというのですか。父祖代々守ってきたこの土地を?」
「それも止むを得ん」と、時慶は首を振る。「見よ、庄川の水が枯れておる。おそらく上流で山崩れでもあって、流れが堰き止められているのであろう。しかしいずれ決壊して、溜まっていた水が一気に流れ込んでくるはず。そうなれば、あたり一帯水浸しじゃ。その前に領民たちをどこかへ逃がさねばならぬ」
氏勝が「されど……」と言いかけると、治兵衛がゆっくりと前に進み出てくる。
「堪えてくだされ、若さま。ほんのいっときのことにございます。落ち着いたときに、また戻って来れば良いのです」
きっと氏勝以上にこの地に愛着があるはずの治兵衛に言われては、もはや頷くしかなかった。そうして、いまだ怯える領民たちを連れての大移動となった。
向かうのはここよりさらに越中との国境寄りへ下った、足倉という集落であった。山をひとつ越えてゆかねばならないが、途中の道も幸いにして断たれてはおらず、無事に進むことができた。そうして辿り着いた先で帷幕を張って雨露を凌ぎながら、帰雲からの使いを待つこととなった。
いてもたってもいられぬ時を過ごしながら、数日が経った。そんなあるとき、荻町の様子を見に戻った治兵衛が血相を変えて戻ってきた。そして息を切らしながら時慶のもとに跪き、信じられぬ知らせを伝えてきた。
「大変でございます、殿……荻町に、金森の軍勢が押し寄せて来ています。その数、三百ほど……」
時慶はその知らせを、じっと目を閉じたまま聞いていた。どうやらそれも予測のうちであったようだ。
「金森の軍勢ということは……我らを助けに、わざわざ鍋山から?」
氏勝はそう尋ねたが、治兵衛は暗い表情で俯くだけであった。理由がわからず混乱していると、時慶が低い声で言った。
「わしを捕えに来たのであろう」
「父上を捕えに……何ゆえでございますか!」
耳を疑う言葉に、氏勝は思わず大声を上げた。するとようやく治兵衛が口を開く。
「あの地震のあと、各地で領民が一斉に一揆を起こしているのでございます。その鎮圧に、金森は兵を動員しておるようで……」
「一揆……されどそれで、どうして父上を……?」
地震で家や田畑を失った民が、自暴自棄になって一揆を起こし、無事だった米蔵を襲ったりするのは理解できなくもない。かの者らは、もはやそうするしかないのだ。たとえ城主であっても止めるすべはない。この状況では、領民をすべて救うことなどできはしないのだ。だからと言って、誰がそれを責められよう。
「実は地震の前からも、少しずつ一揆は増えはじめておりました。江馬や三木の残党が、それを扇動しておったのです」
「されど……それと父上が何の関わりがある?」
「つまりわしも同様だということであろう。服従する振りをして、裏では民を煽って金森に揺さぶりをかけていると」
江馬も三木も、すでに滅んだこの地の国衆である。金森に武を以て従わされたということでは、我ら内ケ島も同じなのは慥かであった。されど。
「そんな……濡れ衣じゃ。我らがさようなことをするわけがないであろう!」
「……半三郎よ」と、時慶はなおも静かな声で呼びかけてきた。「聡いそなたならわかるであろう。ことはそう単純ではないのだ」
ぐっ、と氏勝は言葉を飲み込んだ。そう、実は頭ではすでに理解していた。濡れ衣であることくらい、向こうもわかっているのであろうことも。わかった上で、一揆を口実にしているのだ。
金森とて本来なら、内ケ島領内の金山や銀山と、そこから生み出される富が喉から手が出るほど欲しかったはずだ。されど武家として、先に刀を収めて降伏してきた者を滅ぼすわけにはいかなかった。それに先の飛州征伐でも、金森方がもっとも苦戦したのは、内ヶ島領向牧戸城の合戦においてであった。その内ヶ島を無理に武力で制圧しようとすれば、金森方にもさらに大きな損害を出さずには済まなかったろう。ゆえに内心で臍を噛みながらも、本領安堵を認めるしかなかった。
されどこの地震で大きな痛手を負った今なら、内ヶ島を易々と滅ぼすことができると踏んだのだ。その上一揆の扇動を口実にすれば、武家としての体面も傷付かない。
「されどそれは……それでは、あんまりにございます」
事の次第を理解して、ついに顔を伏せてしまった氏勝の肩を、治兵衛が慰めるように無言で掴んだ。そして時慶に向気直り、続けた。
「金森勢は間もなく、この足倉にもやって来るでしょう。民たちのことは我らにお任せください。殿はどうか、お逃げを……」
時慶は目を閉じたまま、すぐには言葉を返さなかった。じっと腕を組んだまま、険しい表情で何かを思案している。
「父上……どうされるおつもりですか。まさか……」
時慶はようやっと口を開き、「……半三郎」とまた呼びかけた。「そなたは国境を越えて、上見城へ向かえ。太左衛門なら、何も聞かずに受け入れてくれるはずじゃ」
越中砺波の上見城城主・篠村太左衛門は内ヶ島の者ではなかったが、時慶は妹を娶らせて縁を結んでいた。先の佐々への援軍の際も兵を出し、また城を拠点として使わせてもくれた、事実上の同盟相手である。飛騨を出てしまえば、さすがに金森とて手を出せまいと考えての算段であろう。
「某は構いませぬが……父上は?」
「わしは残る。民たちを見捨てるわけにもいかぬでな」
氏勝と治兵衛が、ほとんど同時に「父上!」「殿!」と声を上げた。されど時慶はふっと表情を和らげ、治兵衛へと目を向けた。
「治兵衛よ……おぬし、死ぬつもりであったな?」
「それは……」
「わかっておる。されど、おぬしの命ではまだ釣り合いは取れぬぞ」
氏勝は、「……ああ」と漏らしてまた顔を伏せた。そのひと言で、またすべて理解できてしまった。そのおのれの聡さが、今はいっそ恨めしかった。
金森方にしてみれば一揆を口実にする以上は、ここにいる民たちも生かしておくわけにはいかぬのだ。口実をまことにするためには、見せしめとして晒す首が必要になる。そのためだけに、かの者らは無惨に殺される。辛うじて地震を生き延び、やっとここまで逃げてきたというのに。
それを止めることができるのは、この大和守時慶のみであろう。すべてを背負って死ぬ代わりに、民の助命を乞う。その交渉に使えるのは、それに見合った首のみである。
「何ゆえ……父上がそこまでせねばならぬのです」
歯の間から絞り出したような声で、ようやっとそれだけ尋ねた。その問いにも、父は優しい声で答える。
「城主というのはそういうものぞ。半三郎、そなたもよく覚えておけ」
「ならば……ならば、我もお供いたします。半三郎は、山下の嫡男にございますゆえ!」
「ならぬ」と、時慶は首を振った。「そなたは生きよ。生きて、おのれの為すべきことを為すのじゃ。よいな?」
おのれの為すべきこと。山下の家に生まれた者の務め。それは、氏勝もよくわかっていた。それは内ヶ島を支えること。あの若殿を支え、守ること。それゆえ、おのれはここで父とともに死ぬことさえ許されぬのだ。
その夜、氏勝は足倉をあとにした。時慶は最後に餞別とばかりに、みずから黄櫨の木を切り出して仕上げたという愛用の大弓を与えてくれた。そうして治兵衛らにともなわれ、国境を越えてるため山道を進んだ。
されど氏勝の胸の中には、どうしても得心できぬ思いが渦巻いていた。何ゆえ我らがかような目に遭わねばならぬのだ。いったい我らが何をしたというのか。その思いは言葉にできぬぶん、身の裡で大きく膨らんでゆく。そうしてついに、耐えかねて踵を返した。そうして治兵衛らを振り切り、来た道を必死で駆け戻った。
そのまま足倉を通り過ぎ、山に入って荻町を迂回し、向かう先は帰雲であった。山崩れで道が塞がれ、馬は進めなかったとしても、おのが足であればどうにか越えてゆくこともできるはず。そうして殿に苦境を伝え、助力を乞うのだ。それしか、父を救う方策はないと思った。
道中で一度、具足で身を固めた武者たちとすれ違い、どうにか身を隠してやり過ごした。旗印は慥かに金森のものであり、治兵衛の言っていた通り三百ほどはいそうだった。されどいまだ続く揺り返しを恐れるためか、あるいは一揆勢の伏兵を警戒しているのか、行軍は緩やかだ。それにもしかしたら父の避難先が足倉であるとは、まだ突き止められていないのかもしれない。
であれば、まだ時はある。間もなく雪も降りはじめ、満足に行軍することも適わなくなるであろう。それで春まで時を稼げれば、こちらも態勢を整えることができる。
そんなかすかな望みを抱き、氏勝はなおも山中を進んだ。その脳裏には、孫次郎氏行の口惜しげに歪む横顔が浮かんでいた。
若殿、半三郎が愚かでございました。息を切らしながらも、かすれた声でそうつぶやいた。すべて若殿が正しかったのです。誇りを捨て、屈辱に耐えて生き延びても、結局はこうして力尽くですべてを奪われる。ならばたとえ滅ぶとわかっていても、戦うべきでございました。
きっとまだ遅くはありません。もう一度、ともに戦いましょう。どうかご案じめさるな、この半三郎が若殿の盾となりまする。若殿に迫りくる敵は、この大弓ですべて射倒してみせまする。だからどうか、若殿……
そうして倒れかけた巨木の根を乗り越えようとして、氏勝は無様に足を滑らせた。遮二無二つかんだ枝もあっさりと折れ、そのまま斜面を転がり落ちる。いつの間にか弓も取り落とし、あちこちに身体をぶつけながら、たっぷり一町近くは転がり、滑り、大岩に強かに背をぶつけてようやく止まった。
その衝撃で、氏勝はしばらく息もできなかった。岸に打ち上げられた魚のようにぱくぱくと口を喘がせ、涙が滲む目を見開かせる。その目に、ぼやけた山の稜線が映っていた。どこか見覚えがあるような、それでも見慣れぬその姿。稜線の形は、慥かにあの帰雲山だ。されどかの山は、あんな無惨な禿山ではなかったはず。
やがてその目がしっかりと焦点を結び、眼前の像をはっきりと見定める。それは慥かに、あの帰雲山だった。されど、それが真っぷたつに割れている。神なる山が大きく崩れて、褐色の山肌を剥き出しにしている。それはまさしく神の骸とでも呼ぶべき、決してあってはならぬ光景であった。
「あ……ああ……」
氏勝はよろよろと身体を起こし、身を乗り出して眼下を見下ろす。そこには、何もなかった。ただ、あるはずのない湖があるだけだった。濁った水をいっぱいに湛え、ゆっくりと渦を巻きながら、見渡す限りに広がっている。それ以外には何も見えなかった。それでも、山の形でわかる。ここは間違いなく、帰雲の城と城下町があった場所であると。
「……莫迦な。そんな……」
そして氏勝の聡すぎる頭はまたしても、何が起きたのかを瞬時に覚っていた。帰雲山の崩落があの地震によって起こったものであるならば。膨大な土砂が城を押し流し、集落を埋め川を堰き止めて、谷間の集落を巨大な湖に変えたというのであれば。それはおそらく一瞬のことで、おそらくは誰ひとり、まことに誰ひとりとして、逃れることなどできはしなかったであろうと。
我らが殿も、それを支える家老らも。共に過ごした友らも、家族のように接してくれた女御衆も。話をせがめば快く他国の戦のことを教えてくれた商人たちも、城主の子だからといって畏まらず、気さくに声を掛けてくれた町の衆も。そして。
「若殿……若殿、ああ……あ、あああ」
皆。皆が皆。誰もが皆、この水の底。それを覆い尽くした、重く冷たい土塊の下。
「そんな……そんな、莫迦なことが……あってはならぬ。あって、たまるか……」
言いつつも、本当は氏勝も気付いていた。気付いていて、気付かぬふりをしていた。もしも帰雲が健在ならば、金森とてあのような暴挙に出ることはなかったであろうことに。
そのとき、無情にも空から白い雪が舞い落ちてきた。まるで真昼の蛍のように。無数の魂が、風に踊りながら彼方へと溶けてゆくように。
雪は瞬く間に視界を覆うほどの吹雪となり、行く手を阻んでいた。それでも氏勝は、ただただ幽鬼のように山中を進んでいた。どこへ向かっているのかもわからぬまま。そもそもおのれが、どこへ向かおうとしているのかもわからぬまま。
父に命じられた通り、上見城を目指そうという気はもうまったくなかった。そもそももはや、どちらが北でどちらが南かもわからない。あたりは見渡す限りがただ白一色で、まるで雲の上を歩いているかのような心地になる。
それでもいい、と氏勝は思った。おのれは何もかも失ってしまった。もはや生き続ける理由はない。ならばこのまま天上近くまで歩き続けて、どこかで果てるのがいい。それが何よりだ。
おのれに残っているものはただひとつ、どういうわけかまた握り締めている弓ひとつ。どこかで金森の軍勢と出くわしたら、今度は隠れずに戦ってやろうと思ったのか。せめて何人か道連れにして果てようとでも。されど軍勢どころか、もはや兎一羽とも行き合わない。あるのはただ、雪、雪、雪ばかり。
そうしてとうとう氏勝は、足を縺れさせて倒れた。積もりはじめた雪の中に半ば埋もれ、もはや立ち上がる精力すらなかった。足倉を出るときに母が持たせてくれた芋茎も、いつ齧っていたのか気が付けば無くなっていた。もはやあとは、飢えと寒さで力尽きるのを待つだけだ。
もういいだろう。ならばこのまま、静かにそれを待つだけだった。氏勝はそう決めて、ゆっくり目を閉じる。聞こえてくるのは、ごうごうという風の音だけ。しかしその合間に、ふと遠い空耳が混じってくる。
(そもそも京の大坂のなどと言われても、どちらもこの目で見たことなどないわ)
はい、某も見たことなどありませぬ。
(どれほどのものかもわからぬ)
そうですね。実は某もわかりませぬ。偉そうにわかるなどと申したのは、ただの強がりでございました。
(見たことないわ……)
はい。某も……
氏勝は、また目を見開いた。そこに映るのは、やはりただ真っ白な雪のみ。されどその向こうに、ぼんやりと何かの影が見える気がした。いくつもいくつも、果てることなく続く大きな屋敷。彼方に見える、雲にも届こうかという巨大な天守。
「若殿……では、見にまいりましょう」
何に突き動かされたものか、氏勝は身を起こした。立ち上がった。そして、再び歩き出す。
「ともに見ましょう……京を。大坂を。半三郎とともに……若殿」
知らず、口元には笑みが浮かんでいた。そうして譫言のように、何度も何度も繰り返す。
「ご案じめさるな……半三郎は、いつだってともにおります。いつだって、若殿のお傍におりまする……」
ひどくゆっくりと、されど力強く、氏勝は一歩ずつ歩き続けた。その足跡も、降りしきる雪がすぐに覆い隠してゆく。
父の時慶は治兵衛らと、沈痛な表情で合議をしていた。下の集落を見てきた者も戻ってきたようだが、あまりの有り様に嗚咽を堪え切れぬ様子であった。各地に放った早馬も戻ってきたようだが、帰雲の城にはやはりたどり着けず、途中で引き返してきたとのことだった。
「やはり、ここは捨てるしかないのか……」と、時慶の声が聞こえた。その言葉に耳を疑い、氏勝は思わず口を挟んでいた。
「荻町を捨てるというのですか。父祖代々守ってきたこの土地を?」
「それも止むを得ん」と、時慶は首を振る。「見よ、庄川の水が枯れておる。おそらく上流で山崩れでもあって、流れが堰き止められているのであろう。しかしいずれ決壊して、溜まっていた水が一気に流れ込んでくるはず。そうなれば、あたり一帯水浸しじゃ。その前に領民たちをどこかへ逃がさねばならぬ」
氏勝が「されど……」と言いかけると、治兵衛がゆっくりと前に進み出てくる。
「堪えてくだされ、若さま。ほんのいっときのことにございます。落ち着いたときに、また戻って来れば良いのです」
きっと氏勝以上にこの地に愛着があるはずの治兵衛に言われては、もはや頷くしかなかった。そうして、いまだ怯える領民たちを連れての大移動となった。
向かうのはここよりさらに越中との国境寄りへ下った、足倉という集落であった。山をひとつ越えてゆかねばならないが、途中の道も幸いにして断たれてはおらず、無事に進むことができた。そうして辿り着いた先で帷幕を張って雨露を凌ぎながら、帰雲からの使いを待つこととなった。
いてもたってもいられぬ時を過ごしながら、数日が経った。そんなあるとき、荻町の様子を見に戻った治兵衛が血相を変えて戻ってきた。そして息を切らしながら時慶のもとに跪き、信じられぬ知らせを伝えてきた。
「大変でございます、殿……荻町に、金森の軍勢が押し寄せて来ています。その数、三百ほど……」
時慶はその知らせを、じっと目を閉じたまま聞いていた。どうやらそれも予測のうちであったようだ。
「金森の軍勢ということは……我らを助けに、わざわざ鍋山から?」
氏勝はそう尋ねたが、治兵衛は暗い表情で俯くだけであった。理由がわからず混乱していると、時慶が低い声で言った。
「わしを捕えに来たのであろう」
「父上を捕えに……何ゆえでございますか!」
耳を疑う言葉に、氏勝は思わず大声を上げた。するとようやく治兵衛が口を開く。
「あの地震のあと、各地で領民が一斉に一揆を起こしているのでございます。その鎮圧に、金森は兵を動員しておるようで……」
「一揆……されどそれで、どうして父上を……?」
地震で家や田畑を失った民が、自暴自棄になって一揆を起こし、無事だった米蔵を襲ったりするのは理解できなくもない。かの者らは、もはやそうするしかないのだ。たとえ城主であっても止めるすべはない。この状況では、領民をすべて救うことなどできはしないのだ。だからと言って、誰がそれを責められよう。
「実は地震の前からも、少しずつ一揆は増えはじめておりました。江馬や三木の残党が、それを扇動しておったのです」
「されど……それと父上が何の関わりがある?」
「つまりわしも同様だということであろう。服従する振りをして、裏では民を煽って金森に揺さぶりをかけていると」
江馬も三木も、すでに滅んだこの地の国衆である。金森に武を以て従わされたということでは、我ら内ケ島も同じなのは慥かであった。されど。
「そんな……濡れ衣じゃ。我らがさようなことをするわけがないであろう!」
「……半三郎よ」と、時慶はなおも静かな声で呼びかけてきた。「聡いそなたならわかるであろう。ことはそう単純ではないのだ」
ぐっ、と氏勝は言葉を飲み込んだ。そう、実は頭ではすでに理解していた。濡れ衣であることくらい、向こうもわかっているのであろうことも。わかった上で、一揆を口実にしているのだ。
金森とて本来なら、内ケ島領内の金山や銀山と、そこから生み出される富が喉から手が出るほど欲しかったはずだ。されど武家として、先に刀を収めて降伏してきた者を滅ぼすわけにはいかなかった。それに先の飛州征伐でも、金森方がもっとも苦戦したのは、内ヶ島領向牧戸城の合戦においてであった。その内ヶ島を無理に武力で制圧しようとすれば、金森方にもさらに大きな損害を出さずには済まなかったろう。ゆえに内心で臍を噛みながらも、本領安堵を認めるしかなかった。
されどこの地震で大きな痛手を負った今なら、内ヶ島を易々と滅ぼすことができると踏んだのだ。その上一揆の扇動を口実にすれば、武家としての体面も傷付かない。
「されどそれは……それでは、あんまりにございます」
事の次第を理解して、ついに顔を伏せてしまった氏勝の肩を、治兵衛が慰めるように無言で掴んだ。そして時慶に向気直り、続けた。
「金森勢は間もなく、この足倉にもやって来るでしょう。民たちのことは我らにお任せください。殿はどうか、お逃げを……」
時慶は目を閉じたまま、すぐには言葉を返さなかった。じっと腕を組んだまま、険しい表情で何かを思案している。
「父上……どうされるおつもりですか。まさか……」
時慶はようやっと口を開き、「……半三郎」とまた呼びかけた。「そなたは国境を越えて、上見城へ向かえ。太左衛門なら、何も聞かずに受け入れてくれるはずじゃ」
越中砺波の上見城城主・篠村太左衛門は内ヶ島の者ではなかったが、時慶は妹を娶らせて縁を結んでいた。先の佐々への援軍の際も兵を出し、また城を拠点として使わせてもくれた、事実上の同盟相手である。飛騨を出てしまえば、さすがに金森とて手を出せまいと考えての算段であろう。
「某は構いませぬが……父上は?」
「わしは残る。民たちを見捨てるわけにもいかぬでな」
氏勝と治兵衛が、ほとんど同時に「父上!」「殿!」と声を上げた。されど時慶はふっと表情を和らげ、治兵衛へと目を向けた。
「治兵衛よ……おぬし、死ぬつもりであったな?」
「それは……」
「わかっておる。されど、おぬしの命ではまだ釣り合いは取れぬぞ」
氏勝は、「……ああ」と漏らしてまた顔を伏せた。そのひと言で、またすべて理解できてしまった。そのおのれの聡さが、今はいっそ恨めしかった。
金森方にしてみれば一揆を口実にする以上は、ここにいる民たちも生かしておくわけにはいかぬのだ。口実をまことにするためには、見せしめとして晒す首が必要になる。そのためだけに、かの者らは無惨に殺される。辛うじて地震を生き延び、やっとここまで逃げてきたというのに。
それを止めることができるのは、この大和守時慶のみであろう。すべてを背負って死ぬ代わりに、民の助命を乞う。その交渉に使えるのは、それに見合った首のみである。
「何ゆえ……父上がそこまでせねばならぬのです」
歯の間から絞り出したような声で、ようやっとそれだけ尋ねた。その問いにも、父は優しい声で答える。
「城主というのはそういうものぞ。半三郎、そなたもよく覚えておけ」
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道中で一度、具足で身を固めた武者たちとすれ違い、どうにか身を隠してやり過ごした。旗印は慥かに金森のものであり、治兵衛の言っていた通り三百ほどはいそうだった。されどいまだ続く揺り返しを恐れるためか、あるいは一揆勢の伏兵を警戒しているのか、行軍は緩やかだ。それにもしかしたら父の避難先が足倉であるとは、まだ突き止められていないのかもしれない。
であれば、まだ時はある。間もなく雪も降りはじめ、満足に行軍することも適わなくなるであろう。それで春まで時を稼げれば、こちらも態勢を整えることができる。
そんなかすかな望みを抱き、氏勝はなおも山中を進んだ。その脳裏には、孫次郎氏行の口惜しげに歪む横顔が浮かんでいた。
若殿、半三郎が愚かでございました。息を切らしながらも、かすれた声でそうつぶやいた。すべて若殿が正しかったのです。誇りを捨て、屈辱に耐えて生き延びても、結局はこうして力尽くですべてを奪われる。ならばたとえ滅ぶとわかっていても、戦うべきでございました。
きっとまだ遅くはありません。もう一度、ともに戦いましょう。どうかご案じめさるな、この半三郎が若殿の盾となりまする。若殿に迫りくる敵は、この大弓ですべて射倒してみせまする。だからどうか、若殿……
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やがてその目がしっかりと焦点を結び、眼前の像をはっきりと見定める。それは慥かに、あの帰雲山だった。されど、それが真っぷたつに割れている。神なる山が大きく崩れて、褐色の山肌を剥き出しにしている。それはまさしく神の骸とでも呼ぶべき、決してあってはならぬ光景であった。
「あ……ああ……」
氏勝はよろよろと身体を起こし、身を乗り出して眼下を見下ろす。そこには、何もなかった。ただ、あるはずのない湖があるだけだった。濁った水をいっぱいに湛え、ゆっくりと渦を巻きながら、見渡す限りに広がっている。それ以外には何も見えなかった。それでも、山の形でわかる。ここは間違いなく、帰雲の城と城下町があった場所であると。
「……莫迦な。そんな……」
そして氏勝の聡すぎる頭はまたしても、何が起きたのかを瞬時に覚っていた。帰雲山の崩落があの地震によって起こったものであるならば。膨大な土砂が城を押し流し、集落を埋め川を堰き止めて、谷間の集落を巨大な湖に変えたというのであれば。それはおそらく一瞬のことで、おそらくは誰ひとり、まことに誰ひとりとして、逃れることなどできはしなかったであろうと。
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「若殿……若殿、ああ……あ、あああ」
皆。皆が皆。誰もが皆、この水の底。それを覆い尽くした、重く冷たい土塊の下。
「そんな……そんな、莫迦なことが……あってはならぬ。あって、たまるか……」
言いつつも、本当は氏勝も気付いていた。気付いていて、気付かぬふりをしていた。もしも帰雲が健在ならば、金森とてあのような暴挙に出ることはなかったであろうことに。
そのとき、無情にも空から白い雪が舞い落ちてきた。まるで真昼の蛍のように。無数の魂が、風に踊りながら彼方へと溶けてゆくように。
雪は瞬く間に視界を覆うほどの吹雪となり、行く手を阻んでいた。それでも氏勝は、ただただ幽鬼のように山中を進んでいた。どこへ向かっているのかもわからぬまま。そもそもおのれが、どこへ向かおうとしているのかもわからぬまま。
父に命じられた通り、上見城を目指そうという気はもうまったくなかった。そもそももはや、どちらが北でどちらが南かもわからない。あたりは見渡す限りがただ白一色で、まるで雲の上を歩いているかのような心地になる。
それでもいい、と氏勝は思った。おのれは何もかも失ってしまった。もはや生き続ける理由はない。ならばこのまま天上近くまで歩き続けて、どこかで果てるのがいい。それが何よりだ。
おのれに残っているものはただひとつ、どういうわけかまた握り締めている弓ひとつ。どこかで金森の軍勢と出くわしたら、今度は隠れずに戦ってやろうと思ったのか。せめて何人か道連れにして果てようとでも。されど軍勢どころか、もはや兎一羽とも行き合わない。あるのはただ、雪、雪、雪ばかり。
そうしてとうとう氏勝は、足を縺れさせて倒れた。積もりはじめた雪の中に半ば埋もれ、もはや立ち上がる精力すらなかった。足倉を出るときに母が持たせてくれた芋茎も、いつ齧っていたのか気が付けば無くなっていた。もはやあとは、飢えと寒さで力尽きるのを待つだけだ。
もういいだろう。ならばこのまま、静かにそれを待つだけだった。氏勝はそう決めて、ゆっくり目を閉じる。聞こえてくるのは、ごうごうという風の音だけ。しかしその合間に、ふと遠い空耳が混じってくる。
(そもそも京の大坂のなどと言われても、どちらもこの目で見たことなどないわ)
はい、某も見たことなどありませぬ。
(どれほどのものかもわからぬ)
そうですね。実は某もわかりませぬ。偉そうにわかるなどと申したのは、ただの強がりでございました。
(見たことないわ……)
はい。某も……
氏勝は、また目を見開いた。そこに映るのは、やはりただ真っ白な雪のみ。されどその向こうに、ぼんやりと何かの影が見える気がした。いくつもいくつも、果てることなく続く大きな屋敷。彼方に見える、雲にも届こうかという巨大な天守。
「若殿……では、見にまいりましょう」
何に突き動かされたものか、氏勝は身を起こした。立ち上がった。そして、再び歩き出す。
「ともに見ましょう……京を。大坂を。半三郎とともに……若殿」
知らず、口元には笑みが浮かんでいた。そうして譫言のように、何度も何度も繰り返す。
「ご案じめさるな……半三郎は、いつだってともにおります。いつだって、若殿のお傍におりまする……」
ひどくゆっくりと、されど力強く、氏勝は一歩ずつ歩き続けた。その足跡も、降りしきる雪がすぐに覆い隠してゆく。
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作家 蔵屋日唱
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
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織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
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歴史・時代
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徳川吉宗が将軍として権勢を振るう時代、その嫡子である徳川家重の元に新たに小姓として仕える少年が現れた。
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世間知らずで正義感の強い少年は、武家社会に蠢く様々な澱みに相対していく事になるのであった。
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