世界の十字路

時雨青葉

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第1章 思い出したくない記憶

危ういバランス

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 ほんの少し冷たく感じる、秋の雰囲気を漂わせた風。
 その風に乗って、何かが首元を通り過ぎていく。


 その何かは、狙いすましたかのように机の上で握り拳を作っていた実の手の甲に落ちた。


 肌色の中で、異様な存在を放つ鮮やかな白。


「―――っ!?」


 思考にかかるもやが、一気に晴れた。


 梨央が風に流れてきたものを自分の手に乗せて、げんそうに眉を寄せる。


「これ……桜?」


 ―――ドクンッ


 心臓が一際大きく、重く響く。


 梨央の不思議そうな声に、梨央の手を覗いた拓也が懐疑的な表情を浮かべた。


「……こんなの、近くに咲いてないけど?」


 窓の向こうの景色を見ながら、拓也はそう言う。


「そうよね…。第一、こんな時期に桜なんて咲くわけないし。おかしいなぁ、なんで桜だなんて思ったんだろう…?」


 梨央も首を傾げる。
 

「ねえ、実……」


 当然のように実へと話を振った梨央は、その直後に大きく目を見開いた。


「ど、どうしたの!? 実、顔真っ青だよ!?」


 梨央が驚くのも無理はなかった。


 手の甲に落ちた花びらを凝視する実は、顔面を蒼白にしていたのだ。
 完全に血の気の引いた表情の実は、今すぐにでも倒れてしまいそうだった。


 さすがの拓也もこれには焦り、思わず実の机に手をついて身を乗り出す。


「おい、実。一体どうしたんだよ。」


 拓也の声に、実がやけに大きく肩を震わせる。


 茫然としたような表情で拓也を見上げたその顔には、〝しまった〟という文字がありありと書いてあった。


 その後唇を噛んだ実が、拓也からは己の失敗を悔やむように見えた一方、つらいことを必死に押し込めているようにも見えた。


 実はのろのろと頭を下げ、手の甲の花びらを反対の手で握り込んだ。


 強く。
 けれど、決して花びらを潰さないように優しく。
 まるで、大切なものを包み込むように。


 拓也が見た思い詰めたような実の表情は、前髪に隠されてもう見えない。


「……実?」


 拓也が再び声をかけるのと実が席から立ち上がるのは、ほとんど同じタイミングだった。


 実は固く口を引き結んだまま、一言も発することなく席から離れる。
 そして、誰とも目を合わせないまま、足早に教室を出ていってしまった。


「え…? 実、ちょっと待って!」


 実を追いかけようする梨央。
 そんな梨央を、拓也はとっさに腕を掴んで引き止めていた。


「何よ、村田。」
「あ……いや……」


 梨央にキッと睨まれ、拓也は狼狽うろたえる。


 梨央が実を追いかけようとしたのを見て、直感的に行かせてはいけないと思ってしまったのだ。


 気付いた時には、手が勝手に動いていた。


「今は……やめておこう。」


 そう告げた拓也は目を伏せ、実の様子を思い返す。


 最近の実―――特に、今日の実は明らかにおかしかった。


 いつもの実には、他人や自身の運命に屈しないという確固たる意志と自信があった。


 そして、誰にも自分の内を見せない、探らせないという絶対の拒絶も。


 その自信と拒絶はいつも実を囲む分厚い壁となり、あの仮面めいた表情の数々を作り上げる。


 そして、記憶する限りではその仮面ががれたことなどなかった。


 それなのに、今日は……


 見るからに疲弊しきった顔。
 誰に声をかけられても反応しない、ぼうっとした態度。
 覇気のない声。


 異変なんて、一目見ればすぐに分かる。


 そこにすぐに突っ込んで状況を問いただすことができなかったのは、今日の実があまりにも危うかったからだ。


 あれは、触れればすぐに崩れてしまいそうな精神で、ギリギリの一線を必死に保っているようとでも言えばいいのか。


 異常を気取られないように隠そうとはしていたが、今日はそれもあまり意味をなしていなかったように思う。


 まあ、そんな見た目の変化よりも、自分は鼻をくすぐる香りの変化の方を先に感じていたわけだけど。


 だから何かがおかしいと思って、最近は実をより注意深く観察するようにしていた。


 そんな自分にとっては、今日の実の様子は昨日までとは天と地ほどの差があるようにも思えた。


 ここまでの変わりようは想定外。
 もはや、事情を聞くことができる状態を一気に飛び越えている。


 今の実に必要なのは、落ち着きを取り戻すための時間だろう。
 急いで事情を聞き出すよりも、今はそっとしておいてやるべきだ。
 事情は、実が落ち着いた後にいくらでも聞ける。


 梨央に自分の考えを伝えると、彼女は少々不服そうにしながらも同意してくれた。


 梨央の性格上もう少し食い下がられるかとも思ったのだが、ひとまず丸く収まってほっとする。


 その時、始業を告げるチャイムが鳴り響いた。


 梨央はハッとしたように時計を見上げ、実が消えていった教室の扉を気遣わしげに見やり、後ろ髪を引かれるような顔をしながらも自分の席に戻っていった。


 教室の喧騒が一層大きくなり、少しずつ静かになっていく。


 空になった実の席を見つめ、拓也は表情を曇らせることしかできなかった。

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