盾の間違った使い方

KeyBow

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第66話 理性の箍と絶望の日誌

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 静かな寝息が、すぐ目の前から聞こえる。
 俺は自分の腕の中に感じる、温かく柔らかな重みで目を覚ました。
 そして、自分が、彼女の背中にぴったりと身を寄せ、腕を回して抱きしめるようにして眠っていたことに気づき、全身の血が凍りついた。
(……逆だ)
 いつもは彼女が、俺の背中にくっついてくるのに。
 昨夜、俺は無意識に、彼女の温もりを求めて、こちらから抱き寄せてしまったらしい。
 俺の腕は、彼女の腹に回されている。
 その手を、ほんの少しだけ上にずらせば。どさくさに紛れて、その膨らみに触れることができてしまう。
 カチリ、と。
 理性の箍(たが)が、軋む音がした。
 この一ヶ月、たった一人だったのだ。人肌の温もりが、これほどまでに心を掻き乱すものだったか。
 俺の中の雄(オス)の部分が、悪魔の囁きを始める。
 ――その時だった。
「……うぅ……お父さん……」
 夢でも見ているのだろうか。
 彼女の口から、子供が親を呼ぶような、安心しきった寝言が漏れた。
 ガシャン、と。
 外れかけていた理性の箍が、音を立ててはまった。
 俺は、心の底から自分を軽蔑した。
(何を、考えているんだ、俺は……)
 やがて俺の手に、彼女の小さく柔らかな手が、そっと重ねられた。
 その、無防備で、絶対的な信頼を寄せる仕草に、俺の心は決まった。
 守らなければ。
 この子を。
 そして何より、醜い欲望に溺れそうになる、俺自身から。
          ◇
 その日の作業は、膨大だった。
 ミノタウロスとブルータルボア。二体の巨獣の解体は、一日仕事だ。
 解体が一段落し、切り分けた肉を順次アルコールに漬け込み、血抜きを仕上げていく。朝一番で処理した肉は、保存食にするためスモーカー(燻製器)へと運んだ。
 その単純作業の間、俺は雫に一つの頼み事をしていた。
「雫ちゃん、すまないが、これを読んでみてくれないか」
 俺が手渡したのは、先日このエリア――ドラゴンの骨があった場所の近くで、無数の人骨の山の中から偶然見つけ、回収しておいた一冊の革張りの手帳だ。
 バタバタしていて後回しにしていたが、雫に頼めば解読できるかもしれないと思い至ったのだ。魔法的な保存処理がされているのか、不思議なことに、全くといってよい程傷んでいなかった。
 俺が肉と格闘している間、雫はテーブルで神妙な顔をして、その手帳を読み解いてくれていた。
 やがて、俺が作業を終え、血塗れの手を洗って戻ると、彼女は青ざめた顔で、俺を待っていた。
「佐東さん……」
 彼女の声は、震えていた。
「この手帳、読めました。これは……このダンジョンに挑んでいた、パーティーの記録です」
 彼女によるとこの手帳の主は、おそらく魔術師(筆記担当)だったようだ。
 そして、俺たちが今拠点にしているこの場所は、このダンジョンの『第100階層』のセーフエリアだという。
「100階層……!? ここが、そんな深くなのか……いや、最下層というのは分かっていた」
「はい。そして彼らは、これを書いてから、あのドラゴンに挑むところだったみたいです。でも……」
 雫は、手帳の最後の一節を、震える声で読み上げた。
『……ここまで来るのに、10人の勇敢な仲間を失った。残りは、40人。だが携行食料も、もう尽きた。魔力も底をつきかけている。この最後の戦いで、一体、何人が生き残れるだろうか……』
 俺は息を呑んだ。
 あの時、ドラゴンの骨の周りに散らばっていた、無数の装備品と人骨。
 あれは、このパーティーの成れの果てだったのだ。
 ドラゴンと相打ちになったのか、あるいはドラゴンを倒した後、力尽きたのか。
 そして雫は、さらに恐ろしい事実を告げた。
「佐東さん……この手帳には、彼らが地上を出発してから、この100階層にたどり着くまで……『二ヶ月かかった』と書かれています」
「二ヶ月……だと?」
 40人もの、装備も整ったであろう精鋭を集めたパーティーが。
 食料が尽きるほどの時間をかけて、ようやくここにたどり着いた。
 そして全滅した。
 雫は、俺の顔を、恐怖に見開かれた瞳で見つめた。
「それに……この日記・・・いつ書かれたものなのか……全く分かりません。何十年……もしかしたら、何百年も前かもしれません……」
 俺たちのサバイバルは、まだ、始まったばかりだというのに。
 このダンジョンの本当の深さと、過去の探索者たちが味わった絶望的な難易度を、俺たちは、今、初めて垣間見たのだった。
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