【完結】烏公爵の後妻〜旦那様は亡き前妻を想い、一生喪に服すらしい〜

七瀬菜々

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ifの世界線のお話

8:分岐(3)

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 あれから錯乱したシャロンは暴れ出したため、サイモンは鎮静剤を打った。
 故に彼女は今、薬の反動で眠っている。

 サイモンはシャロンを彼女の自室へと運ぶ最中、換気中のエミリアの部屋を見つけた。
 メイドのシノア曰く、少し前までアルフレッドがやっていたエミリアの部屋の掃除を、今はシャロンが行っているらしい。
 前妻の部屋を後妻に掃除させることには流石に抵抗があったが、シャロンに懇願されたため、彼女に任せているのだと言う。

 魅了の影響で心をエミリアに支配されているせいだろうか。
 その行動はエミリアの心を求めているが故の行動に思えてしまう。

 サイモンは眠るシャロンの顔にかかった黒髪を優しく払うと、静かにため息をこぼした。

 本当は今すぐにでも連れ帰りたい。
 けれど、彼女の夫であるアルフレッドの許可もなく、彼女を連れ帰ることはできない。
 サイモンはじっと家主の帰りを待った。


 しばらくして、血相を欠いたアルフレッドが王城から帰還した。
 どうやら彼はエミリアと過ごしている時に、『シャロンがエミリアの心臓になろうとしている』ということを知ったらしい。
 息を巻いて帰宅した彼は、眠るシャロンの前に崩れ落ちた。

「シャロン…どうして…」

 眠るシャロンの手を握り、アルフレッドは掠れる声でそう呟く。
 泣いているのだろうか。
 一応眠っているだけということを伝えたはずなのに、まるで彼女が死んでしまったかのような反応をする主人にセバスチャンは再度『眠っているだけだ』と耳打ちした。
 アルフレッドはしばらく考えてから『そうか。眠っているだけか』と、誤魔化すような笑みを浮かべ立ち上がる。
 そして、冷静さを取り戻した彼はようやくサイモンの存在に気づいた。

「あれ?どうして君が?」
「坊っちゃま。先ほども説明しましたが、彼が異変に気づいてくれたから間一髪で間に合ったのです」
「セバスチャン。来客の前で坊っちゃまはやめろ」
「ポンコツ主人を旦那様とはとてもお呼びできません故、お許しください」

 いつもより小馬鹿にしてる感が際立っているセバスチャンに顔を顰めつつも、アレフレッドはサイモンに向き直ると、深々と頭を下げた。

「シャロンを助けてくれて、本当にありがとう」
「…いえ。俺は別に」

 何もしていない。ただ気づいただけだ。
 それもギリギリのところで…。
 サイモンは自嘲じみた笑みを浮かべた。

(…本当なら、この間の倒れた時に異変に気づくべきだった)

 感謝されるようなことは何もしていない。
 様子がおかしいとは思いつつも、ここまで追い詰められていたとは気づけなかったのだから。

 サイモンは少しアルフレッドと2人で話がしたいと言い、セバスチャンに席を外してもらった。
 そして、彼の前に膝をつくと床に擦り付けるように頭を下げる。アルフレッドは彼の突然の土下座にただただ困惑するしかない。

「え?ど、どうした?」
「単刀直入に申し上げます。お嬢をこのまま連れ帰らせてください」
「…え?えーっと、え?何故?」
「お嬢は今、精神的にかなり不安定な状態です。俺はお嬢にはゆっくりと時間をかけた療養が必要であると考えます」
「療養が必要なのはわかるが…。どうして実家に帰らねばならないんだ?確かにジルフォード家の方が治療には適しているだろうが…」

 アルフレッドはサイモンに立ち上がるように促しつつも、首を傾げた。
 専属の医師を付ければ、わざわざ実家に帰る必要はないのではないかと彼は言う。
 何もわかっていないアルフレッドに、サイモンは必死に抑えていた理性の糸がプツンと切れる音を聞いた。

「この屋敷には、あんたとあんたの前妻の痕跡が多すぎるんだよ!!」

 サイモンは我慢しきれずにアルフレッドに掴みかかる。

 そのままに残されたエミリアの部屋、エミリアの好きだった青い薔薇にエミリアが選んだ絵画やクッション。
 何度かこの屋敷に来たことのあるサイモンは、色んな人の話から彼女の痕跡が至る所に残っていることを知っている。
 この屋敷でシャロンの場所は研究室と彼女の自室だけだ。

「お嬢の心は今、常人では計り知れない程に複雑なんです!!」

 彼女の中でアルフレッドとの思い出が消えたわけではなく、また、彼のことを好きになりかけていた記憶もちゃんと存在している。
 そして、彼女はエミリアへの感情が偽物であることも理解している。

 しかし、それでも心は問答無用でエミリアを求めている。

 そんな状態でアルフレッドとエミリアの思い出の詰まったこの場所にいて、なぜ療養できると言うのか。右を見ても左を見ても、自分の恋は叶わないと思い知らされる日々だ。
 エミリアへの恋心を受け入れて、恋を楽しむなんて言葉は彼女の精一杯の強がりだ。そんな状態で楽しめるはずなどない。

 魅了がいつ解けるかもわからない。自分の複雑な感情を処理できずにパンクしてしまった状態のシャロンをこの屋敷にとどめておくより、一旦心を休ませることのできる場所に居を移した方がいい。

 そう説明したサイモンの声は震えていた。

「すまない。そこまで思い至れなかった…」
「いえ、こちらこそ…申し訳ありません…」

 こんなものはただの八つ当たりだ。
 どこにぶつければ良いかわからない怒りを、目の前にいる彼にぶつけただけだ。
 サイモンは両手で顔を覆い、深くため息をついた。

「すみません。別に閣下が悪いとかではないんです。ただ、短期間で色んなことがあったから、きっとお嬢は今キャパオーバーの状態なんです。しばらく何も考えずにいられる場所に居を移した方が安全だ」

 シャロンは人の感情の機微に鈍い。
 特に自分のことについては『自分のことだろう!』とツッコミを入れたくなるほどに鈍い。
 自分のストレス値が振り切っていることにすら気づけず、メーターが壊れたところでやっと限界が来ていたんだということに気づく人だ。

 そう話すサイモンに、アルフレッドは小さく微笑んだ。

「君はシャロンのことをよく知っているね」
「…幼馴染ですので」
「本当にそれだけか?」
「…その質問には答えられません」
「否定しない時点で答えているも同然じゃないか?」
「それでも答えられません…」
「そうか。それはすまない」

 アルフレッドは忘れてくれと小さく呟いた。

 ***

 その日の夕方。サイモンは眠ったままのシャロンを抱き抱え、ジルフォード家の車に乗せた。
 アルフレッドとの話し合いで、彼女の容体の経過を逐一連絡すること。
 そして、様子を見てシャロンが大丈夫そうならアルフレッドの方から迎えに行くことを約束した。
 
 サイモンは、公爵邸の門の前で深々と頭を下げる。

「頭を下げるのはこちらだ、サイモン君。顔を上げてくれ」
「しばらく、夫人をお預かりします」
「…申し訳ないが、よろしく頼む」
「はい」

 アルフレッドはサイモンに託した妻を、寂しそうな目で見送った。
 真っ赤に染まった空は皮肉なほどに美しかった。
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