未来から来た5歳児と始める、不器用パパの子育て逆転生活

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翌朝、俺はほとんど眠れないまま、ソファの上で目を覚ました。首が痛い。昨夜、あの後どうしたのか、記憶が曖昧だ。確か、あまりのことに思考が停止し、とりあえず少女を段ボール箱から出してソファに寝かせ、自分は呆然とリビングの床に座り込んでいたはずだ。そして、いつの間にか意識を失っていたらしい。
リビングに視線を向けると、ソファの上で小さな塊が規則正しく上下している。夢ではなかった。現実だ。俺の部屋に、見ず知らずの子供がいる。
腹が、ぐぅ、と鳴った。空腹は、非日常的な状況下でも律儀にやってくるらしい。俺は音を立てないようにキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。中には、ミネラルウォーター、栄養バランス飲料のゼリー、卵、そしてクラフトビールの缶が数本。俺の食生活のすべてがそこにあった。
子供は何を食べるんだ?
卵焼きくらいなら作れるか。いや、そもそも子供用の食器なんてものはない。あるのは、自分でデザインしたロゴ入りのマグカップと、白で統一された無機質なプレートだけだ。途方に暮れて、とりあえずケトルでお湯を沸かし始めた。自分の分のコーヒーを淹れるためだ。豆を挽くゴリゴリという音が、やけに大きく部屋に響く。
「……おはよ、ございます」
背後から、眠そうな声がした。振り返ると、少女がソファから身を起こし、大きなあくびをしながらこちらを見ていた。寝癖のついた髪が、ぴょこんと跳ねている。
「……ああ、おはよう」
俺は、ぎこちなく返事をした。自分の声が、やけに低く、不愛想に聞こえる。少女は気にした様子もなく、ソファからぴょんと飛び降りると、てちてちと俺の足元までやってきた。そして、俺のジャージの裾をくい、と引っ張る。
「パパ、おなかすいた。パンケーキたべたい」
パパ。その単語が、昨夜よりも鋭く胸に突き刺さる。そして、パンケーキ。そんなハイカラなものを、俺が作れるとでも思っているのか。ホットケーキミックスなんて、人生で一度も買ったことがない。
「パンケーキはない。トーストならあるが」
「じゃあ、トーストでいい。いちごジャムつけて」
「ジャムもない」
「えー……」
少女は、あからさまに不満そうな顔で頬を膨らませた。その表情は、どこにでもいる普通の子供のものだ。だが、状況はまったく普通じゃない。
俺は食パンをトースターに入れ、卵を二つ割って、フライパンで適当にスクランブルエッグを作った。それを二枚の皿に分ける。俺の皿にはブラックコーヒー。少女の皿には、水道水。我ながら、ひどい朝食だと思った。
ダイニングテーブルにつくと、少女は小さな手でフォークを握りしめ、一生懸命に卵を口に運んだ。その姿を、俺はコーヒーを啜りながら、ただ黙って見ていた。
「……名前は?」
沈黙に耐えかねて、俺が尋ねる。
「ヒナ」
少女は、もぐもぐと口を動かしながら答えた。
「ヒナ……。なあ、ヒナちゃん。昨日の手紙のことだけど」
「うん」
「あれは、どういう意味だ?俺は、君の父親じゃない」
俺は、できるだけ優しく、諭すように言ったつもりだった。だが、ヒナはきょとんとした顔で俺を見返すだけだった。
「パパは、パパだよ?」
「いや、だから、俺には子供はいないんだ」
「ううん。いるよ。未来に」
「……未来?」
ヒナは、こくこくと頷いた。そのあまりに突拍子のない言葉に、俺は返す言葉を失う。タイムトラベル?SF映画の見過ぎじゃないのか。この子は、何か家庭の事情があって、現実から逃避しているのかもしれない。そう考えた方が、まだ納得がいく。
「ヒナちゃん、本当のお父さんとお母さんは、どこにいるんだ?」
「だから、パパはここだよ?ママは、まだパパと会ってない」
会話が、まったく噛み合わない。俺はこめかみを押さえた。頭が痛い。
その時だった。
ヒナがずっと抱きかかえていた、あのゼンマイ仕掛けのぬいぐるみが、テーブルの上でがたりと動いた。それは、ウサギのようでもあり、ネコのようでもある、不思議な形をしたぬいぐるみだった。古びていて、ところどころ布が擦り切れている。
「現状の認識齟齬が継続している模様。対話プロトコルをレベル2に移行します」
は?
声は、ぬいぐるみから発せられていた。それは、合成音声のような、平坦で感情のない声だった。
俺は、手に持っていたマグカップを取り落としそうになった。コーヒーが揺れて、ソーサーに数滴こぼれる。
「な……なんだ、今のは……」
「ジカンだよ」
ヒナが、さも当然のように言った。
「ジカン?」
「うん。わたしの、おともだち」
テーブルの上のぬいぐるみ——ジカン、と呼ばれたソレは、プラスチックでできた黒い目を、正確に俺の方に向けた。そして、再び、あの平坦な声で話し始めた。
「初めまして、相生健人。私の個体識別名称は『ジカン』。時空間航行補助及び、対象保護を目的として製造された自律型ガーディアンユニットです」
「……じりつがた、がーでぃあん?」
「端的に説明します。我々は、規定暦2054年の未来から、この時代へ転移してきました。目的は、あなたの未来に発生する事象、『コード:大いなる悲しみ』の回避です」
俺は、完全に思考のキャパシティを超えていた。喋るぬいぐるみ。未来からの使者。大いなる悲しみ。まるで、出来の悪いSF小説の冒頭だ。
「……信じられるか」
俺は、誰に言うでもなく呟いた。
「信じる、信じないは、あなたの自由です。ですが、事実は事実として存在します。非効率的な懐疑状態に留まることは、ミッションの遅延に繋がります。速やかな現状認識のアップデートを推奨します」
ジカンは、淡々と、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
俺は、目の前の光景を交互に見た。トーストのパンくずを口の周りにつけながら、不思議そうにこちらを見上げるヒナ。そして、テーブルの真ん中で、まるで置物のように静止している、喋るぬいぐるみ。
俺の静かで、完璧で、平穏だった世界は、どうやら本当に、終わってしまったらしい。
コーヒーは、すっかり冷めていた。一口飲むと、ひどく苦い味がした。
昨日までの日常が、もう二度と戻ってこないであろうことを、俺はその苦さとともに、嫌というほど理解させられた。
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