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ヒナとの生活は、俺の世界に否応なく「他者」の存在を侵食させていった。
これまで俺の生活は、デザイナーズマンションという強固な城壁に守られ、外部との接触はオンラインでの仕事のやり取りに限定されていた。
孤独は平穏であり、他者との過剰なコミュニケーションは、俺のデザイン思考を鈍らせるノイズでしかなかった。
だがヒナという小さな嵐は、その城壁をいとも簡単に破壊し、俺を外の世界へと引きずり出し始めたのだ。
そのきっかけは、一本の電話からだった。
ここ数ヶ月、メインでやり取りをしているクライアント、化粧品会社のアートディレクターを務める桜木さんという女性からだった。
彼女は仕事に対して非常に厳しく、しかしフェアな評価を下す、俺が数少ない信頼を置いているビジネスパートナーの一人だ。
その日も新作のパッケージデザインに関するオンラインでの打ち合わせを、予定していた。
俺はヒナに「今から大事なお話をするから、30分だけ、あっちで静かに遊んでいてくれ」と固く言い聞かせ、PCの前に座った。
「相生さん、こんにちは。早速ですが、先日お送りした修正依頼の件……」
桜木さんの凛とした声が、スピーカーから響く。
俺は背筋を伸ばし、プロフェッショナルとしての仮面を被って、淀みなくデザインの意図を説明し始めた。
その、まさにその時だった。
俺の部屋のドアが、勢いよく開かれた。
「パパ!見て見て!ジカンが、お空とんだ!」
ヒナがゼンマイ仕掛けのぬいぐるみ、ジカンを両手で高く掲げながら、満面の笑みで画面に割り込んできたのだ。
俺の血の気が、一気に引いていく。
画面の向こうで、桜木さんが驚いたように目を丸くしているのが見えた。
「え……?パパ……?相生さん、ご結婚されてたんですか?それに、そのぬいぐるみ……」
「あ、いや、これは、その、姪でして!ええ、ちょっと預かっているだけで!ははは!」
俺は完全に動転し、意味不明な言い訳を口走っていた。
だが桜木さんは、俺の狼狽ぶりを面白がるかのように、ふふ、と柔らかく微笑んだ。
その表情は俺が今まで打ち合わせで見てきた、厳しいアートディレクターの顔とは全く違う、優しい母親の顔だった。
「そうだったんですね。うちも、下がちょうど同じくらいの歳で。大変でしょう、男手一つじゃ」
「え……あ、はい……」
「もしよかったら、今度、いい保育園の情報、お送りしますよ。この辺り、待機児童も多いですから。情報戦ですよ、保活は」
桜木さんはそう言うと、悪戯っぽく片目をつぶった。
俺は彼女の意外な一面に、ただただ圧倒されるばかりだった。
これまで彼女とはデザインという共通言語だけで繋がっている、無機質な関係だと思い込んでいた。
だが彼女もまた、仕事という鎧の下に、「親」という、俺と同じ柔らかな部分を隠し持っていたのだ。
打ち合わせはその後、デザインの話半分、子育ての苦労話半分という、俺のキャリアにおいて前代未聞の内容で幕を閉じた。
電話を切った後、俺はしばらくの間、呆然とPCの画面を見つめていた。
他人に、自分のプライベートな領域に、こんなにも深く踏み込まれたのはいつ以来だろうか。
それは不快なようでいて、しかし、どこか救われたような、不思議な感覚だった。
その日の午後、事件はまたしても起きた。
俺が桜木さんとの会話で得た情報を元に、一時預かり保育の可能性について調べていると、玄関のチャイムが鳴った。
モニターを見ると、そこに立っていたのは、アパートの隣の部屋に住んでいる、品の良い老婦人だった。
引っ越してきてから二年、挨拶を交わす程度で、名前すら知らない相手だ。
俺は、訝しみながらドアを開けた。
「……こんにちは。何か御用でしょうか」
俺がいつも通りの無愛想な声で言うと、老婦人はにこやかに微笑み、手に持っていた小さな紙袋を差し出した。
「こんにちは、お隣の者です。いつも、お嬢さんの元気な声が聞こえてきて、こちらも元気をいただいてるんですよ。うちでたくさん煮物を作ったから、よかったら、おすそ分け」
「え……」
俺は、突然の申し出に戸惑った。
おすそ分け。
その言葉は俺の辞書には存在しない、人情味に溢れた単語だった。
紙袋の中からは、醤油と出汁の、温かくて優しい香りが立ち上っている。
ちょうどその時、俺の後ろからヒナがひょっこりと顔を出した。
「こんにちは!」
ヒナが元気よく挨拶をすると、老婦人はさらに顔をほころばせた。
「あらあ、可愛いお嬢さん。こんにちは。お名前はなあに?」
「ヒナです!おばあちゃん、それ、なあに?」
「これはね、かぼちゃの煮物よ。甘くて、美味しいのよ」
俺が介入する隙もなく、二人の間には温かいコミュニケーションが生まれていた。
俺はその光景を、まるで自分だけが異邦人のような気分で、ただ黙って眺めていることしかできなかった。
老婦人から煮物を受け取った後、俺は、ぎこちなく頭を下げた。
「あ……ありがとうございます。あの、すみません、いつも、うるさくして……」
すると老婦人は、ゆっくりと首を横に振った。
「いいのよ。子供は、元気が一番。むしろ、あんなに静かだったお宅から、可愛らしい声が聞こえてくるようになって、私も嬉しいくらい。昔を思い出すわ。うちの息子も、小さい頃はあなたみたいに、少し気難しくてね」
老婦人は懐かしむように目を細め、俺の部屋のドアに貼られた、ヒナが描いた家族の絵に視線を移した。
「……でも、子供っていうのは、凝り固まった大人の心を、いとも簡単に溶かしてくれるものよ。大切になさいね」
そう言って、老婦人は自分の部屋へと戻っていった。
俺は手の中に残された煮物の温かさを感じながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
壁。
俺はずっと自分で自分の周りに、分厚い壁を築き上げて生きてきたんだ。
他者を拒絶し、孤独を平穏だと信じ込み、その壁の内側でちっぽけな王様を気取っていた。
だがヒナが来たことでその壁に穴が開き、そこから桜木さんのような共感や、見ず知らずの隣人のような善意が、次々と流れ込んできた。
世界は、俺が思っていたよりも、ずっと優しくて、温かい場所だったのかもしれない。
そう気づかされた瞬間、自分の築き上げてきた孤独な城が、いかに脆く、虚しいものだったかを痛感させられた。
その夜、いただいた煮物を、ヒナと二人で食べた。
優しい出汁の味が、空っぽだった俺の心に、じんわりと染み渡っていくようだった。
ヒナは「おいしいね、パパ」と、満足そうに微笑んでいる。
俺がその温かい余韻に浸っていると、デスクの上のジカンが、警告音のような電子音を短く発した。
「なんだ?」
俺が尋ねると、ジカンはいつもより少しだけ緊張感を帯びたような、平坦な声で話し始めた。
「警告。対象『相生健人』と、特定の第三者との接触頻度の上昇を検知しました。これは、未来の分岐点に、予期せぬ変動をもたらす可能性があります」
「……どういう意味だ?」
「ミッション『コード:大いなる悲しみ』の回避は、確定された未来ではありません。幾千万に分岐する可能性の中から、最良の未来を選択し、確定させるための行為です。あなたの行動一つ一つが、その分岐に影響を与えます」
ジカンは、淡々と続けた。
「特に、本日接触した二名の人物。コードネーム『桜木』、及び、隣室の居住者。これらの人物との関係構築は、未来の不確定要素を増大させる危険性を内包しています。今後の接触には、慎重な判断が要求されます」
桜木さん。そして、お隣の老婦人。
彼女たちの親切に触れ、俺の世界が広がり始めた、まさにその矢先に突きつけられた、謎の警告。
彼女たちが、俺の未来に、一体どんな影響を与えるというのだろうか。
俺は隣でスプーンを握りしめたまま、うとうとと船を漕ぎ始めたヒナの頭を、そっと撫でた。
この小さな温もりを守るためなら、なんだってできる。
そう思っていたはずなのに。
未来を変えるということは、人との繋がりを避け、再び孤独な城に閉じこもることなのだろうか。
いや、違う。
俺は、もうあの息の詰まるような静寂の中には、戻りたくない。
たとえ、未来が不確定になったとしても、この手の中にある温かさを、手放したくはなかった。
俺は目の前に突きつけられた新たな謎と、胸の中に生まれた確かな決意を抱きしめながら、ヒナの寝顔を見つめていた。
俺の物語は、ただ未来の悲しみを回避するだけの、単純なものではなくなってきているのかもしれない。
それは失われた過去を取り戻し、不確かな未来を手探りで紡いでいく、もっとずっと複雑で、そして温かい物語の始まりのような気がした。
俺はヒナの手を、強く、強く握り返した。
この繋がりこそが、きっと、俺を正しい未来へ導いてくれるはずだと、信じながら。
これまで俺の生活は、デザイナーズマンションという強固な城壁に守られ、外部との接触はオンラインでの仕事のやり取りに限定されていた。
孤独は平穏であり、他者との過剰なコミュニケーションは、俺のデザイン思考を鈍らせるノイズでしかなかった。
だがヒナという小さな嵐は、その城壁をいとも簡単に破壊し、俺を外の世界へと引きずり出し始めたのだ。
そのきっかけは、一本の電話からだった。
ここ数ヶ月、メインでやり取りをしているクライアント、化粧品会社のアートディレクターを務める桜木さんという女性からだった。
彼女は仕事に対して非常に厳しく、しかしフェアな評価を下す、俺が数少ない信頼を置いているビジネスパートナーの一人だ。
その日も新作のパッケージデザインに関するオンラインでの打ち合わせを、予定していた。
俺はヒナに「今から大事なお話をするから、30分だけ、あっちで静かに遊んでいてくれ」と固く言い聞かせ、PCの前に座った。
「相生さん、こんにちは。早速ですが、先日お送りした修正依頼の件……」
桜木さんの凛とした声が、スピーカーから響く。
俺は背筋を伸ばし、プロフェッショナルとしての仮面を被って、淀みなくデザインの意図を説明し始めた。
その、まさにその時だった。
俺の部屋のドアが、勢いよく開かれた。
「パパ!見て見て!ジカンが、お空とんだ!」
ヒナがゼンマイ仕掛けのぬいぐるみ、ジカンを両手で高く掲げながら、満面の笑みで画面に割り込んできたのだ。
俺の血の気が、一気に引いていく。
画面の向こうで、桜木さんが驚いたように目を丸くしているのが見えた。
「え……?パパ……?相生さん、ご結婚されてたんですか?それに、そのぬいぐるみ……」
「あ、いや、これは、その、姪でして!ええ、ちょっと預かっているだけで!ははは!」
俺は完全に動転し、意味不明な言い訳を口走っていた。
だが桜木さんは、俺の狼狽ぶりを面白がるかのように、ふふ、と柔らかく微笑んだ。
その表情は俺が今まで打ち合わせで見てきた、厳しいアートディレクターの顔とは全く違う、優しい母親の顔だった。
「そうだったんですね。うちも、下がちょうど同じくらいの歳で。大変でしょう、男手一つじゃ」
「え……あ、はい……」
「もしよかったら、今度、いい保育園の情報、お送りしますよ。この辺り、待機児童も多いですから。情報戦ですよ、保活は」
桜木さんはそう言うと、悪戯っぽく片目をつぶった。
俺は彼女の意外な一面に、ただただ圧倒されるばかりだった。
これまで彼女とはデザインという共通言語だけで繋がっている、無機質な関係だと思い込んでいた。
だが彼女もまた、仕事という鎧の下に、「親」という、俺と同じ柔らかな部分を隠し持っていたのだ。
打ち合わせはその後、デザインの話半分、子育ての苦労話半分という、俺のキャリアにおいて前代未聞の内容で幕を閉じた。
電話を切った後、俺はしばらくの間、呆然とPCの画面を見つめていた。
他人に、自分のプライベートな領域に、こんなにも深く踏み込まれたのはいつ以来だろうか。
それは不快なようでいて、しかし、どこか救われたような、不思議な感覚だった。
その日の午後、事件はまたしても起きた。
俺が桜木さんとの会話で得た情報を元に、一時預かり保育の可能性について調べていると、玄関のチャイムが鳴った。
モニターを見ると、そこに立っていたのは、アパートの隣の部屋に住んでいる、品の良い老婦人だった。
引っ越してきてから二年、挨拶を交わす程度で、名前すら知らない相手だ。
俺は、訝しみながらドアを開けた。
「……こんにちは。何か御用でしょうか」
俺がいつも通りの無愛想な声で言うと、老婦人はにこやかに微笑み、手に持っていた小さな紙袋を差し出した。
「こんにちは、お隣の者です。いつも、お嬢さんの元気な声が聞こえてきて、こちらも元気をいただいてるんですよ。うちでたくさん煮物を作ったから、よかったら、おすそ分け」
「え……」
俺は、突然の申し出に戸惑った。
おすそ分け。
その言葉は俺の辞書には存在しない、人情味に溢れた単語だった。
紙袋の中からは、醤油と出汁の、温かくて優しい香りが立ち上っている。
ちょうどその時、俺の後ろからヒナがひょっこりと顔を出した。
「こんにちは!」
ヒナが元気よく挨拶をすると、老婦人はさらに顔をほころばせた。
「あらあ、可愛いお嬢さん。こんにちは。お名前はなあに?」
「ヒナです!おばあちゃん、それ、なあに?」
「これはね、かぼちゃの煮物よ。甘くて、美味しいのよ」
俺が介入する隙もなく、二人の間には温かいコミュニケーションが生まれていた。
俺はその光景を、まるで自分だけが異邦人のような気分で、ただ黙って眺めていることしかできなかった。
老婦人から煮物を受け取った後、俺は、ぎこちなく頭を下げた。
「あ……ありがとうございます。あの、すみません、いつも、うるさくして……」
すると老婦人は、ゆっくりと首を横に振った。
「いいのよ。子供は、元気が一番。むしろ、あんなに静かだったお宅から、可愛らしい声が聞こえてくるようになって、私も嬉しいくらい。昔を思い出すわ。うちの息子も、小さい頃はあなたみたいに、少し気難しくてね」
老婦人は懐かしむように目を細め、俺の部屋のドアに貼られた、ヒナが描いた家族の絵に視線を移した。
「……でも、子供っていうのは、凝り固まった大人の心を、いとも簡単に溶かしてくれるものよ。大切になさいね」
そう言って、老婦人は自分の部屋へと戻っていった。
俺は手の中に残された煮物の温かさを感じながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
壁。
俺はずっと自分で自分の周りに、分厚い壁を築き上げて生きてきたんだ。
他者を拒絶し、孤独を平穏だと信じ込み、その壁の内側でちっぽけな王様を気取っていた。
だがヒナが来たことでその壁に穴が開き、そこから桜木さんのような共感や、見ず知らずの隣人のような善意が、次々と流れ込んできた。
世界は、俺が思っていたよりも、ずっと優しくて、温かい場所だったのかもしれない。
そう気づかされた瞬間、自分の築き上げてきた孤独な城が、いかに脆く、虚しいものだったかを痛感させられた。
その夜、いただいた煮物を、ヒナと二人で食べた。
優しい出汁の味が、空っぽだった俺の心に、じんわりと染み渡っていくようだった。
ヒナは「おいしいね、パパ」と、満足そうに微笑んでいる。
俺がその温かい余韻に浸っていると、デスクの上のジカンが、警告音のような電子音を短く発した。
「なんだ?」
俺が尋ねると、ジカンはいつもより少しだけ緊張感を帯びたような、平坦な声で話し始めた。
「警告。対象『相生健人』と、特定の第三者との接触頻度の上昇を検知しました。これは、未来の分岐点に、予期せぬ変動をもたらす可能性があります」
「……どういう意味だ?」
「ミッション『コード:大いなる悲しみ』の回避は、確定された未来ではありません。幾千万に分岐する可能性の中から、最良の未来を選択し、確定させるための行為です。あなたの行動一つ一つが、その分岐に影響を与えます」
ジカンは、淡々と続けた。
「特に、本日接触した二名の人物。コードネーム『桜木』、及び、隣室の居住者。これらの人物との関係構築は、未来の不確定要素を増大させる危険性を内包しています。今後の接触には、慎重な判断が要求されます」
桜木さん。そして、お隣の老婦人。
彼女たちの親切に触れ、俺の世界が広がり始めた、まさにその矢先に突きつけられた、謎の警告。
彼女たちが、俺の未来に、一体どんな影響を与えるというのだろうか。
俺は隣でスプーンを握りしめたまま、うとうとと船を漕ぎ始めたヒナの頭を、そっと撫でた。
この小さな温もりを守るためなら、なんだってできる。
そう思っていたはずなのに。
未来を変えるということは、人との繋がりを避け、再び孤独な城に閉じこもることなのだろうか。
いや、違う。
俺は、もうあの息の詰まるような静寂の中には、戻りたくない。
たとえ、未来が不確定になったとしても、この手の中にある温かさを、手放したくはなかった。
俺は目の前に突きつけられた新たな謎と、胸の中に生まれた確かな決意を抱きしめながら、ヒナの寝顔を見つめていた。
俺の物語は、ただ未来の悲しみを回避するだけの、単純なものではなくなってきているのかもしれない。
それは失われた過去を取り戻し、不確かな未来を手探りで紡いでいく、もっとずっと複雑で、そして温かい物語の始まりのような気がした。
俺はヒナの手を、強く、強く握り返した。
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