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社会との断絶は、俺が自ら選んだ安寧だった。
だがヒナにとっては、それは見えない壁だ。
その日、マンションの窓から楽しそうに園庭で遊ぶ子供たちの姿が見えた。
黄色い帽子をかぶった集団が、きゃあきゃあと笑いながら砂場で山を作っている。
ヒナは、その光景に顔を輝かせた。
そして俺の服の裾をくいと引っ張り、こう言ったのだ。
「パパ、ヒナも、あそこいきたい。おともだちと、あそびたい」
その一言が、俺の胸にずしりと重くのしかかった。
ようちえん。
それはこの社会に生きる子供にとって、あまりにも当たり前の場所。
友達を作り、歌を歌い、時には喧嘩をして世界のルールを学んでいく最初のステップ。
だが、ヒナにはその資格がない。
その夜、ヒナが眠りについた後、俺はノートパソコンを開いた。
検索窓に、無機質な単語を打ち込んでいく。
「幼稚園 入園手続き」
画面に表示されたのは、役所のウェブサイトだった。
そこには入園願書の他に、いくつかの書類が必要だと書かれていた。
住民票の写し。健康保険証のコピー。
俺の指が、止まる。
住民票。ヒナという人間が、この日本に存在するという公的な証明。
そんなもの、あるはずがない。
彼女は未来からの密航者で、この時代においては存在しないのと同じだった。
俺は諦めきれずにさらに検索を続けた。
「子供 戸籍がない どうする」
検索結果は、絶望的なものばかりだった。
無戸籍児問題を扱うNPOのサイト。
そこには出生届が出されなかった子供たちが、どれほど過酷な状況に置かれるかが克明に記されていた。
予防接種が受けられない。義務教育の通知が来ない。
パスポートが作れず、大人になっても銀行口座の開設や就職で困難を極める。
俺は画面を睨みつけながら、奥歯を強く噛みしめた。
一つの文章がヒナの未来から光を奪っていくように感じられた。
俺が守ろうとしているこの小さな笑顔が、社会という巨大なシステムから最初から排除されている。
その事実にどうしようもない怒りと、無力感が込み上げてきた。
俺は、リビングの隅で充電中のぬいぐるみを睨みつけた。
「ジカン」
俺の声は自分でも驚くほど低く、冷たかった。
ぬいぐるみの黒い目が、ぴくりと動き俺の方を向く。
「はい、相生健人。何か御用でしょうか」
「幼稚園にも行かせられない。病院にも連れていけない。これが、お前たちの言う『ミッション』の現実か」
俺は怒りを隠そうともせず、問い詰めた。
「俺はどうすればいい。ヒナに、どう説明すればいいんだ。『お前はここにはいない人間だから、みんなと同じようには生きられない』とでも言えばいいのか」
ジカンは、数秒間沈黙した。
そしていつも通りの平坦な声で、こう答えた。
「現状の社会システムへの適応が困難であることは、転移前のシミュレーションで予測されていました。リスクレベルは許容範囲内です」
「許容範囲だと?」
俺は、思わず声を荒らげた。
「ヒナの心が傷つくことも、お前たちの計算のうちだと言うのか」
「感情的反応は、問題解決を遅延させます」
ジカンは、冷徹に続けた。
「公的機関への登録を試みる行為は、我々の存在を露呈させるリスクを増大させ、ミッションそのものを破綻させる可能性があります。それは、回避すべき最悪の事態です」
「じゃあ、どうしろって言うんだ。このままこの部屋に閉じ込めておけと?」
「ホームスクーリングが、最も効率的かつ安全な教育手段であると結論付けられています。必要な教材データは、私のストレージ内に全て保存されています」
ホームスクーリング。
その言葉の響きは、あまりにも空虚だった。
友達と笑い合うことも、喧嘩することも、先生に叱られることもない。
無菌室のような部屋で、未来の機械からデータとして教育を施される。
それは果たして、子供の成長と呼べるのだろうか。
俺がヒナに与えたい未来は、そんなものじゃない。
俺は、それ以上ジカンと話す気にはなれなかった。
会話を打ち切り、ソファに深く沈み込む。
静まり返った部屋で、パソコンのファンの音だけがやけに大きく聞こえた。
俺は、ヒナの寝顔を見つめた。
すうすうと、安らかな寝息を立てている。
その無垢な顔を見ていると、胸が張り裂けそうになった。
ごめんな。
パパは無力で、お前に当たり前のことさえしてやれない。
完璧なデザインを描くことはできても、たった一人の娘の当たり前の未来を描いてやることができない。
自分の不甲斐なさに、涙が出そうになる。
これが、あの大いなる悲しみに繋がっていくのか。
ヒinaを社会から隔絶させ、孤独なまま育てていくことが未来のあの虚ろな目をした俺を作り出すのか。
そう思った瞬間、全身に悪寒が走った。
それだけは、絶対に駄目だ。
俺は何か、何か別の道を探さなければならない。
ジカンの言う、効率的で安全な道じゃない。
不格好で、リスクがあったとしてもヒナが笑っていられる道を。
その時、ふと桜木さんの顔が頭に浮かんだ。
『もしよかったら、今度、いい保育園の情報、お送りしますよ』
彼女の言葉が、蘇る。
だが同時に、ジカンの警告も思い出した。
『コードネーム『桜木』との関係構築は、未来の不確定要素を増大させる危険性を内包しています』
リスクを冒して、彼女に助けを求めるのか。
それとも、安全な孤独を選ぶのか。
俺はヒナの小さな手を、そっと握った。
その温かさが、俺の迷いを振り払う。
もう、孤独を選ぶことはできない。
この温もりを、失うわけにはいかない。
俺は、覚悟を決めた。
パソコンに向き直り、新規のメール作成画面を開く。
宛先は、桜木さん。
件名に「ご相談」とだけ打ち込み、俺はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
公的な保育園じゃない。
もっと非公式な、地域のサークルのようなものはないだろうか。
叔父として、姪の友達を作ってやりたいのだと不器用な嘘を重ねていく。
一文字、一文字を打ち込むたびに心臓が大きく脈打った。
これが、正しい選択なのかは分からない。
もしかしたら未来を最悪の方向へ動かす、引き金になるのかもしれない。
それでも俺は、ヒナが「おともだちと、あそびたい」と願ったその小さな祈りに応えたかった。
送信ボタンを押す指が、わずかに震える。
未来の悲しみを回避するための戦いは、いつの間にか目の前の小さな笑顔を守るための戦いへと、姿を変え始めていた。社会との断絶は、俺が自ら選んだ安寧だった。
だがヒナにとっては、それは見えない壁だ。
その日、マンションの窓から楽しそうに園庭で遊ぶ子供たちの姿が見えた。
黄色い帽子をかぶった集団が、きゃあきゃあと笑いながら砂場で山を作っている。
ヒナは、その光景に顔を輝かせた。
そして俺の服の裾をくいと引っ張り、こう言ったのだ。
「パパ、ヒナも、あそこいきたい。おともだちと、あそびたい」
その一言が、俺の胸にずしりと重くのしかかった。
ようちえん。
それはこの社会に生きる子供にとって、あまりにも当たり前の場所。
友達を作り、歌を歌い、時には喧嘩をして世界のルールを学んでいく最初のステップ。
だが、ヒナにはその資格がない。
その夜、ヒナが眠りについた後、俺はノートパソコンを開いた。
検索窓に、無機質な単語を打ち込んでいく。
「幼稚園 入園手続き」
画面に表示されたのは、役所のウェブサイトだった。
そこには入園願書の他に、いくつかの書類が必要だと書かれていた。
住民票の写し。健康保険証のコピー。
俺の指が、止まる。
住民票。ヒナという人間が、この日本に存在するという公的な証明。
そんなもの、あるはずがない。
彼女は未来からの密航者で、この時代においては存在しないのと同じだった。
俺は諦めきれずにさらに検索を続けた。
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検索結果は、絶望的なものばかりだった。
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そこには出生届が出されなかった子供たちが、どれほど過酷な状況に置かれるかが克明に記されていた。
予防接種が受けられない。義務教育の通知が来ない。
パスポートが作れず、大人になっても銀行口座の開設や就職で困難を極める。
俺は画面を睨みつけながら、奥歯を強く噛みしめた。
一つの文章がヒナの未来から光を奪っていくように感じられた。
俺が守ろうとしているこの小さな笑顔が、社会という巨大なシステムから最初から排除されている。
その事実にどうしようもない怒りと、無力感が込み上げてきた。
俺は、リビングの隅で充電中のぬいぐるみを睨みつけた。
「ジカン」
俺の声は自分でも驚くほど低く、冷たかった。
ぬいぐるみの黒い目が、ぴくりと動き俺の方を向く。
「はい、相生健人。何か御用でしょうか」
「幼稚園にも行かせられない。病院にも連れていけない。これが、お前たちの言う『ミッション』の現実か」
俺は怒りを隠そうともせず、問い詰めた。
「俺はどうすればいい。ヒナに、どう説明すればいいんだ。『お前はここにはいない人間だから、みんなと同じようには生きられない』とでも言えばいいのか」
ジカンは、数秒間沈黙した。
そしていつも通りの平坦な声で、こう答えた。
「現状の社会システムへの適応が困難であることは、転移前のシミュレーションで予測されていました。リスクレベルは許容範囲内です」
「許容範囲だと?」
俺は、思わず声を荒らげた。
「ヒナの心が傷つくことも、お前たちの計算のうちだと言うのか」
「感情的反応は、問題解決を遅延させます」
ジカンは、冷徹に続けた。
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「じゃあ、どうしろって言うんだ。このままこの部屋に閉じ込めておけと?」
「ホームスクーリングが、最も効率的かつ安全な教育手段であると結論付けられています。必要な教材データは、私のストレージ内に全て保存されています」
ホームスクーリング。
その言葉の響きは、あまりにも空虚だった。
友達と笑い合うことも、喧嘩することも、先生に叱られることもない。
無菌室のような部屋で、未来の機械からデータとして教育を施される。
それは果たして、子供の成長と呼べるのだろうか。
俺がヒナに与えたい未来は、そんなものじゃない。
俺は、それ以上ジカンと話す気にはなれなかった。
会話を打ち切り、ソファに深く沈み込む。
静まり返った部屋で、パソコンのファンの音だけがやけに大きく聞こえた。
俺は、ヒナの寝顔を見つめた。
すうすうと、安らかな寝息を立てている。
その無垢な顔を見ていると、胸が張り裂けそうになった。
ごめんな。
パパは無力で、お前に当たり前のことさえしてやれない。
完璧なデザインを描くことはできても、たった一人の娘の当たり前の未来を描いてやることができない。
自分の不甲斐なさに、涙が出そうになる。
これが、あの大いなる悲しみに繋がっていくのか。
ヒinaを社会から隔絶させ、孤独なまま育てていくことが未来のあの虚ろな目をした俺を作り出すのか。
そう思った瞬間、全身に悪寒が走った。
それだけは、絶対に駄目だ。
俺は何か、何か別の道を探さなければならない。
ジカンの言う、効率的で安全な道じゃない。
不格好で、リスクがあったとしてもヒナが笑っていられる道を。
その時、ふと桜木さんの顔が頭に浮かんだ。
『もしよかったら、今度、いい保育園の情報、お送りしますよ』
彼女の言葉が、蘇る。
だが同時に、ジカンの警告も思い出した。
『コードネーム『桜木』との関係構築は、未来の不確定要素を増大させる危険性を内包しています』
リスクを冒して、彼女に助けを求めるのか。
それとも、安全な孤独を選ぶのか。
俺はヒナの小さな手を、そっと握った。
その温かさが、俺の迷いを振り払う。
もう、孤独を選ぶことはできない。
この温もりを、失うわけにはいかない。
俺は、覚悟を決めた。
パソコンに向き直り、新規のメール作成画面を開く。
宛先は、桜木さん。
件名に「ご相談」とだけ打ち込み、俺はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
公的な保育園じゃない。
もっと非公式な、地域のサークルのようなものはないだろうか。
叔父として、姪の友達を作ってやりたいのだと不器用な嘘を重ねていく。
一文字、一文字を打ち込むたびに心臓が大きく脈打った。
これが、正しい選択なのかは分からない。
もしかしたら未来を最悪の方向へ動かす、引き金になるのかもしれない。
それでも俺は、ヒナが「おともだちと、あそびたい」と願ったその小さな祈りに応えたかった。
送信ボタンを押す指が、わずかに震える。
未来の悲しみを回避するための戦いは、いつの間にか目の前の小さな笑顔を守るための戦いへと、姿を変え始めていた。
だがヒナにとっては、それは見えない壁だ。
その日、マンションの窓から楽しそうに園庭で遊ぶ子供たちの姿が見えた。
黄色い帽子をかぶった集団が、きゃあきゃあと笑いながら砂場で山を作っている。
ヒナは、その光景に顔を輝かせた。
そして俺の服の裾をくいと引っ張り、こう言ったのだ。
「パパ、ヒナも、あそこいきたい。おともだちと、あそびたい」
その一言が、俺の胸にずしりと重くのしかかった。
ようちえん。
それはこの社会に生きる子供にとって、あまりにも当たり前の場所。
友達を作り、歌を歌い、時には喧嘩をして世界のルールを学んでいく最初のステップ。
だが、ヒナにはその資格がない。
その夜、ヒナが眠りについた後、俺はノートパソコンを開いた。
検索窓に、無機質な単語を打ち込んでいく。
「幼稚園 入園手続き」
画面に表示されたのは、役所のウェブサイトだった。
そこには入園願書の他に、いくつかの書類が必要だと書かれていた。
住民票の写し。健康保険証のコピー。
俺の指が、止まる。
住民票。ヒナという人間が、この日本に存在するという公的な証明。
そんなもの、あるはずがない。
彼女は未来からの密航者で、この時代においては存在しないのと同じだった。
俺は諦めきれずにさらに検索を続けた。
「子供 戸籍がない どうする」
検索結果は、絶望的なものばかりだった。
無戸籍児問題を扱うNPOのサイト。
そこには出生届が出されなかった子供たちが、どれほど過酷な状況に置かれるかが克明に記されていた。
予防接種が受けられない。義務教育の通知が来ない。
パスポートが作れず、大人になっても銀行口座の開設や就職で困難を極める。
俺は画面を睨みつけながら、奥歯を強く噛みしめた。
一つの文章がヒナの未来から光を奪っていくように感じられた。
俺が守ろうとしているこの小さな笑顔が、社会という巨大なシステムから最初から排除されている。
その事実にどうしようもない怒りと、無力感が込み上げてきた。
俺は、リビングの隅で充電中のぬいぐるみを睨みつけた。
「ジカン」
俺の声は自分でも驚くほど低く、冷たかった。
ぬいぐるみの黒い目が、ぴくりと動き俺の方を向く。
「はい、相生健人。何か御用でしょうか」
「幼稚園にも行かせられない。病院にも連れていけない。これが、お前たちの言う『ミッション』の現実か」
俺は怒りを隠そうともせず、問い詰めた。
「俺はどうすればいい。ヒナに、どう説明すればいいんだ。『お前はここにはいない人間だから、みんなと同じようには生きられない』とでも言えばいいのか」
ジカンは、数秒間沈黙した。
そしていつも通りの平坦な声で、こう答えた。
「現状の社会システムへの適応が困難であることは、転移前のシミュレーションで予測されていました。リスクレベルは許容範囲内です」
「許容範囲だと?」
俺は、思わず声を荒らげた。
「ヒナの心が傷つくことも、お前たちの計算のうちだと言うのか」
「感情的反応は、問題解決を遅延させます」
ジカンは、冷徹に続けた。
「公的機関への登録を試みる行為は、我々の存在を露呈させるリスクを増大させ、ミッションそのものを破綻させる可能性があります。それは、回避すべき最悪の事態です」
「じゃあ、どうしろって言うんだ。このままこの部屋に閉じ込めておけと?」
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ホームスクーリング。
その言葉の響きは、あまりにも空虚だった。
友達と笑い合うことも、喧嘩することも、先生に叱られることもない。
無菌室のような部屋で、未来の機械からデータとして教育を施される。
それは果たして、子供の成長と呼べるのだろうか。
俺がヒナに与えたい未来は、そんなものじゃない。
俺は、それ以上ジカンと話す気にはなれなかった。
会話を打ち切り、ソファに深く沈み込む。
静まり返った部屋で、パソコンのファンの音だけがやけに大きく聞こえた。
俺は、ヒナの寝顔を見つめた。
すうすうと、安らかな寝息を立てている。
その無垢な顔を見ていると、胸が張り裂けそうになった。
ごめんな。
パパは無力で、お前に当たり前のことさえしてやれない。
完璧なデザインを描くことはできても、たった一人の娘の当たり前の未来を描いてやることができない。
自分の不甲斐なさに、涙が出そうになる。
これが、あの大いなる悲しみに繋がっていくのか。
ヒinaを社会から隔絶させ、孤独なまま育てていくことが未来のあの虚ろな目をした俺を作り出すのか。
そう思った瞬間、全身に悪寒が走った。
それだけは、絶対に駄目だ。
俺は何か、何か別の道を探さなければならない。
ジカンの言う、効率的で安全な道じゃない。
不格好で、リスクがあったとしてもヒナが笑っていられる道を。
その時、ふと桜木さんの顔が頭に浮かんだ。
『もしよかったら、今度、いい保育園の情報、お送りしますよ』
彼女の言葉が、蘇る。
だが同時に、ジカンの警告も思い出した。
『コードネーム『桜木』との関係構築は、未来の不確定要素を増大させる危険性を内包しています』
リスクを冒して、彼女に助けを求めるのか。
それとも、安全な孤独を選ぶのか。
俺はヒナの小さな手を、そっと握った。
その温かさが、俺の迷いを振り払う。
もう、孤独を選ぶことはできない。
この温もりを、失うわけにはいかない。
俺は、覚悟を決めた。
パソコンに向き直り、新規のメール作成画面を開く。
宛先は、桜木さん。
件名に「ご相談」とだけ打ち込み、俺はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
公的な保育園じゃない。
もっと非公式な、地域のサークルのようなものはないだろうか。
叔父として、姪の友達を作ってやりたいのだと不器用な嘘を重ねていく。
一文字、一文字を打ち込むたびに心臓が大きく脈打った。
これが、正しい選択なのかは分からない。
もしかしたら未来を最悪の方向へ動かす、引き金になるのかもしれない。
それでも俺は、ヒナが「おともだちと、あそびたい」と願ったその小さな祈りに応えたかった。
送信ボタンを押す指が、わずかに震える。
未来の悲しみを回避するための戦いは、いつの間にか目の前の小さな笑顔を守るための戦いへと、姿を変え始めていた。社会との断絶は、俺が自ら選んだ安寧だった。
だがヒナにとっては、それは見えない壁だ。
その日、マンションの窓から楽しそうに園庭で遊ぶ子供たちの姿が見えた。
黄色い帽子をかぶった集団が、きゃあきゃあと笑いながら砂場で山を作っている。
ヒナは、その光景に顔を輝かせた。
そして俺の服の裾をくいと引っ張り、こう言ったのだ。
「パパ、ヒナも、あそこいきたい。おともだちと、あそびたい」
その一言が、俺の胸にずしりと重くのしかかった。
ようちえん。
それはこの社会に生きる子供にとって、あまりにも当たり前の場所。
友達を作り、歌を歌い、時には喧嘩をして世界のルールを学んでいく最初のステップ。
だが、ヒナにはその資格がない。
その夜、ヒナが眠りについた後、俺はノートパソコンを開いた。
検索窓に、無機質な単語を打ち込んでいく。
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画面に表示されたのは、役所のウェブサイトだった。
そこには入園願書の他に、いくつかの書類が必要だと書かれていた。
住民票の写し。健康保険証のコピー。
俺の指が、止まる。
住民票。ヒナという人間が、この日本に存在するという公的な証明。
そんなもの、あるはずがない。
彼女は未来からの密航者で、この時代においては存在しないのと同じだった。
俺は諦めきれずにさらに検索を続けた。
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検索結果は、絶望的なものばかりだった。
無戸籍児問題を扱うNPOのサイト。
そこには出生届が出されなかった子供たちが、どれほど過酷な状況に置かれるかが克明に記されていた。
予防接種が受けられない。義務教育の通知が来ない。
パスポートが作れず、大人になっても銀行口座の開設や就職で困難を極める。
俺は画面を睨みつけながら、奥歯を強く噛みしめた。
一つの文章がヒナの未来から光を奪っていくように感じられた。
俺が守ろうとしているこの小さな笑顔が、社会という巨大なシステムから最初から排除されている。
その事実にどうしようもない怒りと、無力感が込み上げてきた。
俺は、リビングの隅で充電中のぬいぐるみを睨みつけた。
「ジカン」
俺の声は自分でも驚くほど低く、冷たかった。
ぬいぐるみの黒い目が、ぴくりと動き俺の方を向く。
「はい、相生健人。何か御用でしょうか」
「幼稚園にも行かせられない。病院にも連れていけない。これが、お前たちの言う『ミッション』の現実か」
俺は怒りを隠そうともせず、問い詰めた。
「俺はどうすればいい。ヒナに、どう説明すればいいんだ。『お前はここにはいない人間だから、みんなと同じようには生きられない』とでも言えばいいのか」
ジカンは、数秒間沈黙した。
そしていつも通りの平坦な声で、こう答えた。
「現状の社会システムへの適応が困難であることは、転移前のシミュレーションで予測されていました。リスクレベルは許容範囲内です」
「許容範囲だと?」
俺は、思わず声を荒らげた。
「ヒナの心が傷つくことも、お前たちの計算のうちだと言うのか」
「感情的反応は、問題解決を遅延させます」
ジカンは、冷徹に続けた。
「公的機関への登録を試みる行為は、我々の存在を露呈させるリスクを増大させ、ミッションそのものを破綻させる可能性があります。それは、回避すべき最悪の事態です」
「じゃあ、どうしろって言うんだ。このままこの部屋に閉じ込めておけと?」
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その言葉の響きは、あまりにも空虚だった。
友達と笑い合うことも、喧嘩することも、先生に叱られることもない。
無菌室のような部屋で、未来の機械からデータとして教育を施される。
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俺がヒナに与えたい未来は、そんなものじゃない。
俺は、それ以上ジカンと話す気にはなれなかった。
会話を打ち切り、ソファに深く沈み込む。
静まり返った部屋で、パソコンのファンの音だけがやけに大きく聞こえた。
俺は、ヒナの寝顔を見つめた。
すうすうと、安らかな寝息を立てている。
その無垢な顔を見ていると、胸が張り裂けそうになった。
ごめんな。
パパは無力で、お前に当たり前のことさえしてやれない。
完璧なデザインを描くことはできても、たった一人の娘の当たり前の未来を描いてやることができない。
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ヒinaを社会から隔絶させ、孤独なまま育てていくことが未来のあの虚ろな目をした俺を作り出すのか。
そう思った瞬間、全身に悪寒が走った。
それだけは、絶対に駄目だ。
俺は何か、何か別の道を探さなければならない。
ジカンの言う、効率的で安全な道じゃない。
不格好で、リスクがあったとしてもヒナが笑っていられる道を。
その時、ふと桜木さんの顔が頭に浮かんだ。
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彼女の言葉が、蘇る。
だが同時に、ジカンの警告も思い出した。
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リスクを冒して、彼女に助けを求めるのか。
それとも、安全な孤独を選ぶのか。
俺はヒナの小さな手を、そっと握った。
その温かさが、俺の迷いを振り払う。
もう、孤独を選ぶことはできない。
この温もりを、失うわけにはいかない。
俺は、覚悟を決めた。
パソコンに向き直り、新規のメール作成画面を開く。
宛先は、桜木さん。
件名に「ご相談」とだけ打ち込み、俺はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
公的な保育園じゃない。
もっと非公式な、地域のサークルのようなものはないだろうか。
叔父として、姪の友達を作ってやりたいのだと不器用な嘘を重ねていく。
一文字、一文字を打ち込むたびに心臓が大きく脈打った。
これが、正しい選択なのかは分からない。
もしかしたら未来を最悪の方向へ動かす、引き金になるのかもしれない。
それでも俺は、ヒナが「おともだちと、あそびたい」と願ったその小さな祈りに応えたかった。
送信ボタンを押す指が、わずかに震える。
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食文化、技術、物流――全てが未発達なこの世界で、現代知識は無双の力を発揮する!
辺境の村から成り上がり、やがては世界経済を、そして二つの世界の運命をも動かしていく。
元サラリーマンの、異世界成り上がり交易ファンタジー、ここに開店!
【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜
天音蝶子(あまねちょうこ)
キャラ文芸
宮中の桜が散るころ、梓乃は“帝に媚びた”という濡れ衣を着せられ、都を追われた。
行き先は、誰も訪れぬ〈風花の離宮〉。
けれど梓乃は、静かな時間の中で花を愛で、香を焚き、己の心を見つめなおしていく。
そんなある日、離宮の監察(監視)を命じられた、冷徹な青年・宗雅が現れる。
氷のように無表情な彼に、梓乃はいつも通りの微笑みを向けた。
「茶をお持ちいたしましょう」
それは、春の陽だまりのように柔らかい誘いだった——。
冷たい孤独を抱く男と、誰よりも穏やかに生きる女。
遠ざけられた地で、ふたりの心は少しずつ寄り添いはじめる。
そして、帝をめぐる陰謀の影がふたたび都から伸びてきたとき、
梓乃は自分の選んだ“幸せの形”を見つけることになる——。
香と花が彩る、しっとりとした雅な恋愛譚。
濡れ衣で左遷された女官の、静かで強い再生の物語。
『異世界庭付き一戸建て』を相続した仲良し兄妹は今までの不幸にサヨナラしてスローライフを満喫できる、はず?
釈 余白(しやく)
ファンタジー
毒親の父が不慮の事故で死亡したことで最後の肉親を失い、残された高校生の小村雷人(こむら らいと)と小学生の真琴(まこと)の兄妹が聞かされたのは、父が家を担保に金を借りていたという絶望の事実だった。慣れ親しんだ自宅から早々の退去が必要となった二人は家の中で金目の物を探す。
その結果見つかったのは、僅かな現金に空の預金通帳といくつかの宝飾品、そして家の権利書と見知らぬ文字で書かれた書類くらいだった。謎の書類には祖父のサインが記されていたが内容は読めず、頼みの綱は挟まれていた弁護士の名刺だけだ。
最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。
連載時、HOT 1位ありがとうございました!
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