未来から来た5歳児と始める、不器用パパの子育て逆転生活

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決意とは、行動に移して初めて意味を持つ。

俺は、ヒナのあの絵を守ると決めた。そのために、まずすべきことは二つ。
一つは、桜木さんへの謝罪。
そしてもう一つは、ヒナとの約束を果たすこと。つまり、煮込みハンバーグを作ることだった。

翌日、俺は再びスーパーのカートを押していた。だが、前回のように途方に暮れてはいない。スマートフォンには「絶品 煮込みハンバーグ 初心者でも絶対失敗しない」という、頼もしいタイトルのレシピが表示されていた。

ひき肉、玉ねぎ、パン粉、牛乳。
見慣れない食材を、俺は迷いなくカートに入れていく。まるで、クライアントから渡された仕様書通りに素材を集めるデザイナーのように。違うのは、その先に待っているのがピクセルパーフェクトなデータではなく、温かい湯気の立つ、不格好な料理だということだけだ。

キッチンに立つと、不思議と以前のような絶望感はなかった。
玉ねぎを刻めば、やっぱり涙は出る。だが、その涙はただの生理現象だと割り切れるようになっていた。

ボウルにひき肉とパン粉、卵を入れ、手でこねる。ぬるりとした生命感のある感触が、指先にまとわりついた。それは、マウスの冷たくて硬い感触とは全く違うものだった。俺は、自分の手で何かを「作っている」という、原始的な実感を得ていた。

「パパ、なにしてるのー?」
ヒナが、足元から興味深そうに見上げてくる。
「ハンバーグだ。ヒナの大好きな」
「わーい!ヒナもおてつだいする!」

ヒナの「お手伝い」は、案の定、戦力としてはマイナスだった。こねた肉のタネを、小さな手で粘土のように丸め、無邪気に床に落とす。だが、俺はもう怒鳴ったりはしなかった。

「ヒナ、上手だな。でも、それは後でちゃんと拭こうな」
そう言って、笑うことができた。

ヒナは、楽しそうに肉をこねながら、ぽつり、ぽつりと未来のママの話をした。
「ママのハンバーグはね、なかに、おほしさまがはいってるの」
「星?」
「うん、きいろくて、あまいおほしさま!」

黄色くて、甘い星。チーズか、それとも星形に抜いたサツマイモか何かだろうか。断片的な情報が、まだ見ぬ誰かの人物像をぼんやりと形作っていく。彼女は、子供が喜ぶような、ちょっとした工夫をするのが好きな、優しい女性なのだろう。その想像は、少しだけ俺の胸を温かくした。

フライパンで肉の表面に焼き色をつける。ジュウ、という音と香ばしい匂いが部屋に満ちていった。生活感のなかった俺のモノクロームの城が、確実に家族の住む匂いに変わっていく。

ソースを煮詰め、ハンバーグを投入し、蓋をして弱火で煮込む。レシピにはそう書いてあった。あとは、待つだけだ。
この「待っている時間」というのも、俺にとっては新しい感覚だった。デザインの仕事は常に時間に追われ、一分一秒を惜しんで手を動かす。だが、料理は火が、時間が、美味しくしてくれるのをただ待つしかない。その穏やかな待ち時間は、どこか人の成長を見守る時間に似ているのかもしれない。

そして、ついに俺の人生初の手作り煮込みハンバーグが完成した。
見た目は、正直、不格好だった。少し焦げ付いて、形もいびつだ。

だが、ヒナはその皿を見て、今までで一番の笑顔を俺に見せてくれた。
「パパ、すごい!おいしそう!」

小さなフォークで一生懸命にハンバーグを切り分け、大きな口で頬張る。もぐもぐと、リスのように頬を動かし、ごくりと飲み込んだ後、ヒナは満面の笑みでこう言った。

「おいしい! ママのつぎに、おいしい!」

その言葉が、俺の心の、一番柔らかい場所をぎゅっと掴んだ。
ママの、次。それは、俺にとって最高の褒め言葉だった。俺は、自分の作ったハンバーグが、ヒナの中で未来の母親の味とちゃんと繋がっていることに、どうしようもないほどの感動を覚えていた。

不格好でも、完璧じゃなくても、想いはちゃんと届くのだ。

俺はヒナの向かいに座り、自分の分のハンバーグを口に運んだ。少しだけ味が薄かった。でも、それは俺が今まで食べたどんな高級料理よりも、ずっと深く、温かい味がした。

自分のためだけに生きていた頃の、空っぽの食事。栄養補給のためだけの、無味乾燥な時間。その全てが、この不格好なハンバーグ一つで塗り替えられていく。じわ、と目頭が熱くなるのを感じた。

これが、幸せ、というものなのかもしれない。

***

その夜、心の中に生まれた温かい勇気に後押しされて、俺は桜木さんへのメールを書き始めた。
だが、いざ書くとなると言葉が出てこない。何から、どう説明すればいいのか。

『先日は、大変失礼いたしました』
まずは、謝罪からだ。
『急に、姪の体調が優れなくなり、慌ててしまいまして』
苦し紛れの、下手な嘘。彼女には見透かされているかもしれない。それでも、何か理由をつけなければ、ただの失礼な男で終わってしまう。

『ヒナも、湊くんと遊べたのが、とても楽しかったと申しております』
『桜木さんとのお話も、大変、参考になりました』
感謝の言葉を丁寧に綴る。彼女との会話は、本当に俺にとって救いだったのだから。

これで、いいだろうか。俺は何度も文章を読み返し、修正した。まるでクライアントに提出するデザイン案のキャプションのように、言葉を選ぶ。そして数十分の格闘の末、ようやく送信ボタンを押した。

ふう、と大きなため息が漏れる。たった一通のメールを送るだけで、こんなにもエネルギーを使うなんて。人との関係を築くというのは、本当に骨の折れる作業だ。

もう、返信は来ないかもしれない。そう思いながら、俺はその日は眠りについた。達成感と、ほんの少しの後悔を抱きながら。

だが、夜中。枕元に置いていたスマートフォンが、ぶ、と短く震えた。
眠い目をこすりながら画面を見ると、そこには桜木さんからの返信が届いていた。こんな深夜に?

俺は、心臓がどきりと音を立てるのを感じながらメールを開いた。
そこに書かれていたのは、俺の予想を遥かに超える内容だった。

『こちらこそ、ありがとうございました。お子さんがいると、予定通りにいかないことばかりですよね。よく分かります。気にしないでください』

丁寧な、優しい言葉。だが、問題はその後に続く一文だった。

『実は、うちの夫、今は長期の海外赴任中なんです。なので、普段は湊と二人きり。だから、相生さんみたいに、同じような立場で頑張っている方とお話しできて、私も、とても嬉しかったんですよ。よかったら、また、ご一緒させてくださいね』

夫が、海外赴任。

その言葉が、俺の頭の中で何度も、何度も反響した。
ファミレスで感じた、束の間の安堵。それは、あまりにも脆く、儚いものだった。

夫が、いない。今は、いない。
その事実が、あの煮込みハンバーグの匂いと、再び強く結びついてしまう。

未来に起こる悲劇。俺が回避すべき、大いなる悲しみ。
それは、やはり彼女の身に降りかかるものなのか。
俺が彼女と関わることで、その引き金を引いてしまうのか。

せっかく手に入れた温かい勇気。それは、彼女からのたった一行のメッセージで、いとも簡単に冷たい恐怖へと姿を変えてしまった。

俺は、スマートフォンの画面をただ呆然と見つめることしかできなかった。
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