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桜木さんからのメールは、俺の心に重い錨のように沈み込んだ。
夫が、いない。
その事実が、俺の全ての行動にブレーキをかける。
彼女にどう返信すればいいのか、分からない。『また、ご一緒させてください』という言葉に、どう応えればいいのか。俺は返信できないまま、ただ時間だけを無為に過ごしていた。
心が、再び灰色の壁の中に閉じこもろうとするのを感じる。
人と関わることは、未来の悲劇に一歩近づくことなのかもしれない。それなら、やはり俺は一人でいるべきなのか。ヒナと二人だけで、静かに息を潜めて生きていくべきなのか。
俺のそんな葛藤を、ヒナは敏感に感じ取っていた。
デザインの仕事をしていても、どこか上の空な俺の様子に、ヒナは不安そうな顔を向けた。
「パパ、どうしたの?げんき、ないね」
俺の膝の上にちょこんと座り、小さな手で俺の眉間の皺を一生懸命に伸ばそうとする。
「ヒナが、いいもの、あげる」
そう言うと、ヒナは自分の宝物であるスケッチブックを持ってきた。そこには、ヒナが描いたたくさんの絵が詰まっている。俺と手をつないでいる絵。クリームソーダを飲んでいる絵。そして、先日の、ハンバーグを食べている絵。
「これ、ぜんぶ、パパとヒナの、たのしいだよ」
ヒナは、一枚一枚ページをめくりながら俺に説明してくれた。
その無邪気な言葉とカラフルな絵が、俺のささくれだった心を少しずつ癒していく。この思い出は、俺が勇気を出して一歩踏み出したからこそ、手に入ったものだ。もし俺がずっと部屋に閉じこもっていたら、このスケッチブックは真っ白なままだったかもしれない。
そう思うと、ヒナに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。俺の迷いが、この子の笑顔を曇らせている。父親失格だ。
俺が自己嫌悪に陥っていると、タイミングを見計らったかのように玄関のチャイムが鳴った。モニターを見ると、隣の部屋の老婦人だった。彼女は俺の顔を見るなり、優しく微笑んだ。
「また、難しいお顔をなさっているわね」
「……すみません」
「いいのよ。今日は、かぼちゃのそぼろ煮。少し味が濃くなってしまったのだけど、ご飯には合うと思うわ」
彼女はそう言って、温かい煮物の入ったタッパーを俺に手渡した。その当たり前のような人の善意に触れるたびに、俺は自分がいかに歪んだ世界に生きていたかを思い知らされる。
老婦人は、帰りがけにぽつりと言った。
「うちの息子もね、若い頃、あなたみたいに考えすぎる癖があったのよ」
「……」
「まだ起きてもいない未来のことをあれこれ心配して、結局、何もできなくなってしまう。でもね、ある時、私が言ったの。**未来の嵐から誰かを守るために、今の陽だまりからその人を連れ出すのは、本末転倒じゃないか**って」
未来の嵐と、今の陽だまり。
その言葉が、雷のように俺の心を打ち抜いた。
俺は、まさにそれをしようとしているじゃないか。
起こるかどうかも分からない未来の悲劇を恐れるあまりに、ヒナから、桜木さんや湊くんと笑い合う「今の陽だまり」を奪おうとしている。それは、何よりも残酷なことだ。
「あなたが守りたいものは、未来の安心かしら。それとも、今の、あの子の笑顔かしらね」
老婦人は、全てを見透かしたような目を俺に向けた。そして「おやすみなさい」とだけ言って、静かに自分の部屋へと戻っていった。
俺は、手の中の煮物の温かさを感じながら、深く、深く反省した。俺は間違っていた。ジカンの警告や未来の断片に、振り回されすぎていた。俺が向き合うべきなのは、不確定な未来じゃない。目の前にいる、ヒナの今の気持ちだ。
俺は部屋に戻ると、スマートフォンを手に取った。
そして、数日間開くことのできなかった桜木さんからのメールを開く。覚悟を決めて、返信ボタンを押した。
『ご連絡、ありがとうございます。旦那様、海外赴任中だったのですね。それは、桜木さんも色々と大変なこととお察しします』
まずは、彼女の状況への理解を示す言葉。そして、俺は震える指でこう続けた。
『もしご迷惑でなければ、またヒナを湊くんに会わせてやってください。今週末、お天気が良ければ、この間の公園などいかがでしょうか』
送信。
もう、後戻りはできない。俺は、恐怖よりも不思議な安堵感に包まれていた。
どんな未来が来ようとも、受け止めてやる。俺は、ヒナの陽だまりを守り抜く。そう、決めたのだから。
***
その夜、俺は久しぶりにジカンに話しかけた。
「俺は、桜木さんたちにまた会うことにした。これが、正しい選択か?」
ジカンは少しの間、沈黙していた。俺の選択を分析しているのかもしれない。
やがて、その合成音声が静かに響いた。
「その選択が未来にどのような影響を与えるか、断定はできません。しかし、現在のあなたの精神状態は、ミッション開始以降、最も安定しています」
ジカンはそう言うと、「新たな参考情報を提示します」と続けた。
また、あの曖昧な映像か。俺は身構えた。
だが、目の前に現れた光景は、俺の予想とは全く違うものだった。
そこは、あの河川敷だった。夕焼けに染まる、美しい場所。俺と、少し成長したヒナがシャボン玉で遊んでいる。そこまでは、以前に見た映像と同じだった。
だが、今回はもう一人、人物がいた。
少し離れた場所で、俺たちの方を微笑みながら見ている女性の姿。逆光で顔ははっきりと見えない。だが、そのシルエットは明らかに桜木さんとは違っていた。もっと髪が長くて、背が高いような気がする。
彼女は、誰だ。未来の、ママなのか。
映像はそこで消えた。だが、俺の心には恐怖ではなく、新たな、そして温かい謎が灯っていた。未来は、俺が思っているよりもずっと複雑で、そして豊かなのかもしれない。
桜木さんは、未来の妻ではないのかもしれない。
でも、彼女は今の俺とヒナにとって、かけがえのない陽だまりの一部だ。それで、いいじゃないか。
俺は晴れやかな気持ちで眠りにつくことができた。
週末の公園の、青い空を心に思い浮かべながら。
夫が、いない。
その事実が、俺の全ての行動にブレーキをかける。
彼女にどう返信すればいいのか、分からない。『また、ご一緒させてください』という言葉に、どう応えればいいのか。俺は返信できないまま、ただ時間だけを無為に過ごしていた。
心が、再び灰色の壁の中に閉じこもろうとするのを感じる。
人と関わることは、未来の悲劇に一歩近づくことなのかもしれない。それなら、やはり俺は一人でいるべきなのか。ヒナと二人だけで、静かに息を潜めて生きていくべきなのか。
俺のそんな葛藤を、ヒナは敏感に感じ取っていた。
デザインの仕事をしていても、どこか上の空な俺の様子に、ヒナは不安そうな顔を向けた。
「パパ、どうしたの?げんき、ないね」
俺の膝の上にちょこんと座り、小さな手で俺の眉間の皺を一生懸命に伸ばそうとする。
「ヒナが、いいもの、あげる」
そう言うと、ヒナは自分の宝物であるスケッチブックを持ってきた。そこには、ヒナが描いたたくさんの絵が詰まっている。俺と手をつないでいる絵。クリームソーダを飲んでいる絵。そして、先日の、ハンバーグを食べている絵。
「これ、ぜんぶ、パパとヒナの、たのしいだよ」
ヒナは、一枚一枚ページをめくりながら俺に説明してくれた。
その無邪気な言葉とカラフルな絵が、俺のささくれだった心を少しずつ癒していく。この思い出は、俺が勇気を出して一歩踏み出したからこそ、手に入ったものだ。もし俺がずっと部屋に閉じこもっていたら、このスケッチブックは真っ白なままだったかもしれない。
そう思うと、ヒナに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。俺の迷いが、この子の笑顔を曇らせている。父親失格だ。
俺が自己嫌悪に陥っていると、タイミングを見計らったかのように玄関のチャイムが鳴った。モニターを見ると、隣の部屋の老婦人だった。彼女は俺の顔を見るなり、優しく微笑んだ。
「また、難しいお顔をなさっているわね」
「……すみません」
「いいのよ。今日は、かぼちゃのそぼろ煮。少し味が濃くなってしまったのだけど、ご飯には合うと思うわ」
彼女はそう言って、温かい煮物の入ったタッパーを俺に手渡した。その当たり前のような人の善意に触れるたびに、俺は自分がいかに歪んだ世界に生きていたかを思い知らされる。
老婦人は、帰りがけにぽつりと言った。
「うちの息子もね、若い頃、あなたみたいに考えすぎる癖があったのよ」
「……」
「まだ起きてもいない未来のことをあれこれ心配して、結局、何もできなくなってしまう。でもね、ある時、私が言ったの。**未来の嵐から誰かを守るために、今の陽だまりからその人を連れ出すのは、本末転倒じゃないか**って」
未来の嵐と、今の陽だまり。
その言葉が、雷のように俺の心を打ち抜いた。
俺は、まさにそれをしようとしているじゃないか。
起こるかどうかも分からない未来の悲劇を恐れるあまりに、ヒナから、桜木さんや湊くんと笑い合う「今の陽だまり」を奪おうとしている。それは、何よりも残酷なことだ。
「あなたが守りたいものは、未来の安心かしら。それとも、今の、あの子の笑顔かしらね」
老婦人は、全てを見透かしたような目を俺に向けた。そして「おやすみなさい」とだけ言って、静かに自分の部屋へと戻っていった。
俺は、手の中の煮物の温かさを感じながら、深く、深く反省した。俺は間違っていた。ジカンの警告や未来の断片に、振り回されすぎていた。俺が向き合うべきなのは、不確定な未来じゃない。目の前にいる、ヒナの今の気持ちだ。
俺は部屋に戻ると、スマートフォンを手に取った。
そして、数日間開くことのできなかった桜木さんからのメールを開く。覚悟を決めて、返信ボタンを押した。
『ご連絡、ありがとうございます。旦那様、海外赴任中だったのですね。それは、桜木さんも色々と大変なこととお察しします』
まずは、彼女の状況への理解を示す言葉。そして、俺は震える指でこう続けた。
『もしご迷惑でなければ、またヒナを湊くんに会わせてやってください。今週末、お天気が良ければ、この間の公園などいかがでしょうか』
送信。
もう、後戻りはできない。俺は、恐怖よりも不思議な安堵感に包まれていた。
どんな未来が来ようとも、受け止めてやる。俺は、ヒナの陽だまりを守り抜く。そう、決めたのだから。
***
その夜、俺は久しぶりにジカンに話しかけた。
「俺は、桜木さんたちにまた会うことにした。これが、正しい選択か?」
ジカンは少しの間、沈黙していた。俺の選択を分析しているのかもしれない。
やがて、その合成音声が静かに響いた。
「その選択が未来にどのような影響を与えるか、断定はできません。しかし、現在のあなたの精神状態は、ミッション開始以降、最も安定しています」
ジカンはそう言うと、「新たな参考情報を提示します」と続けた。
また、あの曖昧な映像か。俺は身構えた。
だが、目の前に現れた光景は、俺の予想とは全く違うものだった。
そこは、あの河川敷だった。夕焼けに染まる、美しい場所。俺と、少し成長したヒナがシャボン玉で遊んでいる。そこまでは、以前に見た映像と同じだった。
だが、今回はもう一人、人物がいた。
少し離れた場所で、俺たちの方を微笑みながら見ている女性の姿。逆光で顔ははっきりと見えない。だが、そのシルエットは明らかに桜木さんとは違っていた。もっと髪が長くて、背が高いような気がする。
彼女は、誰だ。未来の、ママなのか。
映像はそこで消えた。だが、俺の心には恐怖ではなく、新たな、そして温かい謎が灯っていた。未来は、俺が思っているよりもずっと複雑で、そして豊かなのかもしれない。
桜木さんは、未来の妻ではないのかもしれない。
でも、彼女は今の俺とヒナにとって、かけがえのない陽だまりの一部だ。それで、いいじゃないか。
俺は晴れやかな気持ちで眠りにつくことができた。
週末の公園の、青い空を心に思い浮かべながら。
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