恋が温まるまで

yuzu

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#8 臆病な恋

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 翌朝、エントランスの空気は思いのほか穏やかだった。就業開始のざわつきがまだ始まる前の、ほんの束の間の静けさの中、私は息を潜めるようにエレベーターに向かって歩いていた。

 バッグの紐をぎゅっと握る。

(お願い、気づかないで)

 エレベーターを待つ人の列に紛れて歩を進めながら、自然を装って目線をそらす。

 視界の端に映る中央のソファスペースには、軽く身を預けるように座る田上さんが、阿部さんと笑いながら談笑していた。

 何が可笑しいのか、阿部さんが声を立てて笑い、田上さんは穏やかな笑みで応じている。

 柔らかく笑う彼の横顔に一瞬視線を奪われ、ハッと我に返ってすぐ。

 カバンで顔を隠し、過ぎ去ろうとした……そのとき。

 「花田さん。」

 低く穏やかな声が、まっすぐに私を呼んだ。

 肩がわずかに震えたのが自分でもわかった。
 当然、聞こえないフリは出来なかった。

 ゆっくりと振り返ると、田上さんがソファ席を立ってこちらへ駆け寄ってくる。

 「お……はようございます。田上さん。」

 精一杯、平静を装って作り笑顔で応じる。

 本当はそのまま、足早にエレベーターへ向かうつもりだったのに。

 「おはよう。ちょっと時間もらえない?」

 咎めるような調子は一切ない。

 けれどやっぱり気まずくて、気づけばそのまま踵を返していた。

 エレベーターまでは大体50メートル…逃げ切れると思ったのに……

 呆気なく掴まれた腕。

 振り返る暇もなく、そのまま彼の歩調に引きずられるように、別棟の奥へと吸い込まれた。

 「えっ、あの……どこへ……」

 田上さんは無言のまま、会議室のドアを開ける。
 小さな打ち合わせスペース。朝の光が差し込むその空間に、彼は私を押し込んだ。

 「ここなら誰も来ないかな。」
「いや、あの……ちょっと待ってください田上さん」

 戸惑っている私に構う様子もなく、田上さんは後ろ手でドアを閉めた。

……鍵のかかる音が響くと、静かに心臓が跳ねた。
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