冷酷な旦那様が記憶喪失になったら溺愛モードに入りましたが、愛される覚えはありません!

香月文香

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11 襲撃(3)

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 一瞬の暗転。ふと目を上げると、リゼルはまた魔法庭園の前に戻っていた。目くらましにメイユが張っていたのであろう結界が、粉々に砕けて散っていく気配がある。

「メイユ……」

 目の前に立つ妹は、信じられないという表情をしてリゼルを凝視していた。白目が充血し、目が真っ赤になっていた。

「つまらない小細工をしないでください。私たちは魔女でしょう。魔法にだけは、真摯にならないと。それが魔女の誇りではないですか」

「うるさいっ! うるさいうるさい! 何が誇りよ、わかったような口をきかないで!」

 再び火球が襲ってくるが、速度も威力も落ちていた。心が乱れているのだろう。簡単に払い落とせる。

「もう帰ってください。それで二度と、私には関わらないで」

「ふざけないで! 役目から逃げ出した〈鳥の目〉なんかより、私の方がずっと優れているんだから! あんたを連れ戻すまで私は帰れない!」

 メイユの叫びが烏夜を貫く。リゼルは仄暗い心地で短剣を握りしめた。

 妹との距離はたったの五歩。でもこの隔たりが、魔法でだって越えられない彼我の差と知った。

 血を分けた妹に、攻撃するのは気が進まなかった。

 良い思い出など少しもない。彼女は物心ついた時から〈鳥の目〉のリゼルを見下していて、食事に泥を混ぜたり、ネイを苛めたり、散々だった。

 それでも魔法の進歩の先にあるのは、そんな景色ではないはずだった。もっと素敵なものが見られるはずだと、リゼルは信じてここまで来た。

(……だけど、やらないと)

 もう一度柄を握り直す。よく研がれた刃を手のひらに押し付けたとき。

「――リゼルがそんなことをする必要はない」

 強い声が降ってきて、リゼルの手から短剣が奪われた。

「え……?」

 ぽかんと口を開いて見上げれば、いつの間にかグレンが隣に立っていた。リゼルから取りあげた短剣を懐に収め、底光る両目は油断なくメイユを捉えている。月光を浴びた髪が、銀砂を振りかけたように輝いていた。どれほど足音を殺していたのだろう。全く気づかなかった。

 思わずふらついたリゼルの背を、揺らぐことなく片腕で支えてくれる。

 その腕の力強さにホッと息を吐きだしながら、リゼルは掠れた声で訊ねた。

「旦那様が、どうしてここに……?」

「妙な気配がしたから様子を窺いに来た。そうしたら突然リゼルが消えて、手をこまねいていたところだったんだ。悪い、遅参を詫びさせてくれ」

「そ、そんなことはありません」

 カタカタ震える指先を握ろうとして失敗した。爪が手のひらの傷に食いこんで、鈍い痛みが走る。かすかに息を詰めたリゼルに、グレンがハッと視線を移した。

「酷い怪我だ。頼むから、今日はもう大人しくしていてくれ。こんな事件ばかりで、寿命が十年くらい縮んだ気がする」

「ご心配をおかけして申し訳……」

「謝らなくていい。俺は俺のしたいことをしているだけだ」

 グレンは手早くリゼルの手に手巾を巻きつけると、「それで」とメイユに顔を向ける。

「おおよそ話は聞いた。貴様はリゼルの妹だな。俺の妻に手を出して、まさか無事に帰れると思ってはいないだろうな?」

 結婚以来、リゼルが聞いたことのないほど冷ややかな口調。一番恐ろしかった初夜でさえ、それなりに容赦されていたのだと今更ながらにリゼルは納得する。

 凍てついた瞳で睨まれて竦み上がったメイユだが、しかし負けじと小瓶を見せつけた。

「お待ちください! 妻だと言いますが、あなたは記憶がないからその女を大切にしているだけですわ! 失われた記憶を取り戻せば、その女がどれだけ凡庸で価値がないかお分かりになるはず。どうか元に戻ってください!」

「……ほう」

 グレンが押し殺した声で応じる。それからちらりとリゼルに目を当て、本当にどうでもよさそうに肩をすくめた。

「俺はどちらでも構わない。リゼルが選べ」

 飛び上がったのはリゼルだ。思わず自分を指差して、

「わ、私が……っ?」

 呻くように言えば、グレンは鷹揚に頷いた。

「ああ。それが一番良いだろう」

 思いもよらぬ提案に、愕然と首を振る。どうしてそんな大切なことをリゼルに明け渡すのだろう。

「……記憶を失くしたままでいてください、と頼むかもしれないのですよ」

「それがリゼルの望みなら」

 さらりと告げられ、ますます困惑する。グレンの面持ちのどこにも冗談の気配は見つけられない。心の底から、リゼルの選択に従うつもりのようだった。

 グレンに記憶が戻れば――。

 目を閉じて、彼が記憶喪失になってからのことを思い返す。本当に、魔法にかけられたような時間だった。どれをとっても愛おしくて、宝物みたいに抱きしめて、死ぬまで絶対に忘れない。

 初夜の寝室で冷たく追い払われて以降、永遠に心は通わせられないのだと諦めきっていたのに。

(――だとしても。この時間が、泡みたいに消えても、いい)

 リゼルの心はとっくに決まっていた。ついと顔を上げ、メイユに向かって手を差しだす。

「旦那様の記憶を返してください。他人の記憶は、誰かがいじっていいものではありません」

 隣でグレンが微笑む気配がする。それだけで、この選択は間違っていないのだと信じられた。

「お姉様、正気?」

 小馬鹿にするような笑みを作ったメイユが、ゆっくりと近づいてくる。最後の一歩が埋まると思った刹那、最後の足掻きか、メイユが手を振りかぶった。

 決着は一瞬だった。メイユの魔法が発動する前に、グレンが素早く当て身を食らわせ昏倒させた。リゼルの目ではしかと捉えられないほど鮮やかな手並みだった。

「本当に見下げ果てた女だ。――リゼル、指一本触れられていないな?」

「は、はい……」

 地面にメイユが倒れ伏す。受け身も取れなかったからか、鼻から血が流れ出ていた。力なく投げ出された手から、ころころと小瓶が転がってくる。

 リゼルは小瓶を拾い、手の中のそれを見つめた。そうして、ちょっと首を傾げた。

「……あら?」

 物体化した記憶を見るのは、リゼルも初めてだ。けれどリゼルはずっと研鑽を積んできた魔女で、だからこそ、魔法に関する物に関しては鋭く研ぎ澄まされた天性の才覚があった。

 だからわかった。

 ――これは、グレンの記憶ではない。

 どういうことかと戸惑って、思わずグレンを見上げる。彼は気まずげに目を伏せていた。

「これは……どういう?」

 グレンが何か知っている風なのが気にかかった。リゼルは魔法については詳しいが、こと陰謀などになるとからきしだ。

 月に雲がかかり、辺りが闇に沈む。吹きつける風が、魔法庭園のガラス戸をガタリと鳴らした。暗夜の向こうから、秘密を打ち明けるようにひそめられた声が届いた。

「俺の愛する魔女は、記憶の戻し方を教えてくれた」

 グレンが小瓶を取り上げる。かと思うと、コルク栓を開け、躊躇いなく中身を口に含んだので、リゼルは飛び上がった。

「正体のわからないものを飲むのは危険で……んっ」

 悲鳴は、柔らかく重ねられた唇の間に消える。初めて知る感触にパニックになったリゼルは、けれど脳裏に何かが流れ込んでくるのを感じ取って、抵抗をやめた。

 ――それは、リゼルの記憶だった。
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