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庭園にて
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真白い月光の降り積もる王宮庭園は、夜露に濡れて輝いていた。
風が少し冷たくなってきたかもしれない。だが、イリーシャの高揚した体には、それがちょうどよかった。
「ルファスさま、あなたはロビンの死について、何をご存じなのです?」
宮殿沿いのひと気のない道をそぞろ歩きながら、イリーシャは単刀直入に切り出す。少し先を進んでいたルファスが、バルコニーの下で足を止めた。
神官服の裾を翻らせ、ゆっくりと振り返る。滑らかな銀の髪が、きらめく光の帯となって背中に流れた。
長いまつ毛の下、思慮深いハシバミ色の瞳が、何もかもを見通すように見開かれる。
色のない唇が動き、神託のように告げた。
「——すべてを」
「!」
イリーシャは咄嗟に両手で口元を押さえた。そうしないと、悲鳴が漏れてしまいそうだった。
だが、とわずかに残った冷静な部分が注意を与える。これはカマをかけているだけかもしれない。適当なことを言って宰相の弱みを握ろうとしているだけならば、余計な希望を抱いても辛いだけだ。
しかし、ルファスは冷然と続けた。
「ユージン卿は、ロビン卿を殺めましたね」
鼓動が速くなる。痛いほど強く脈打っている。手足から血の気が引いて、冷たくなっていくのが分かった。
ルファスはまじろぎもせず、イリーシャの様子を見つめていた。
「私はどこかに訴え出るつもりはありません。そんなことをしてもユージン卿が阻むでしょうからね。ただ、あなたが望むのであれば、救いを与えて差し上げられます」
「救い、ですか……?」
「はい」
確信に満ちた目つきで、ルファスは肯く。月の光が降り注ぎ、彼を清冽に染め上げた。
「イリーシャさまが救いを求めるのであれば、神殿に来てください。全力をもってあなたを保護しましょう」
「な、なぜそこまで……」
「決まっています。苦悩する人々を救うのが、使徒たる私たちの使命だからです」
ルファスの瞳には、慈愛すら浮かんでいた。月光が彼を縁取り、彼自身が輝いているように見える。イリーシャは言葉を失い、その場に膝をつきそうになった。
奥歯を噛みしめ、必死に呼吸を整えるイリーシャの肩を、ルファスが優しい手つきでさすった。
「……イリーシャさま、今まで、よく堪えてきましたね。己の半身たる弟君を失って、血濡れた男に身を委ねて。悲しいときには、泣いてもよいのですよ」
イリーシャの瞳に、涙が膨れあがった。
ああ、そうだ。イリーシャは、今まで弟の死を悼むことすらできなかったのだ。
弟の殺されたさまを目の当たりにして、血溜まりの中でこの腕に死体を抱いて。
いつも心は不安で、怯えて、泣く余裕などどこにもありはしなかった。
残念、と言われる程度の死でも、彼女にとっては、たった一人の弟だったのに。
ルファスが、神官服で優しくイリーシャを覆い隠す。イリーシャの唇が震えた。
「……っ」
だが、涙がこぼれる寸前、庭園に乱れた足音が飛び込んできた。
「イリーシャ!」
振り向かずとも、イリーシャにはその声の持ち主が分かった。聞き間違えようもない、美しく忌まわしい声。
さっと顔を上げ、目元をこする。急いでルファスから一歩距離を取った。泣いている場合ではない。
振り向くと、髪を乱したユージンが駆け寄ってくるところだった。険しい顔つきでルファスを睨みつけている。
「ルファス、イルに何をした?」
「イリーシャさまが不埒な男に声をかけられていたので、お助けしただけです。大切な奥方なら一人にすべきではなかったですね。イリーシャさまは壁際に立っているだけでも、会場中の男の注目を集めていましたよ」
「……イル、こちらへ来い」
地の底を這うような低い声音だった。イリーシャの足がすくむ。だが、ユージンは大股で歩いてくると、イリーシャの腰を抱いてすっぽりと片腕の中に収めた。こわばるイリーシャの背中を、落ち着かせるように大きな手が撫でる。おそるおそる胸元に頭を預けると、速い心音が伝わってきた。焦って探しに来たのだろうか。彼女を囲う腕も熱い。
ルファスは二人の様子をうち眺め、すっと目を窄めた。唇の端が吊り上がる。
「それと、ささやかながら我々の使命についてお話しさせていただきました。苦しむ人々に、神殿の門戸はいつでも開かれている、と」
「イルをお前に渡しはしない!」
ユージンが声を荒げる。イリーシャをますます強く抱え込んだ。
イリーシャはそっと顔を上げ、ユージンを見据えた。彼は痛々しく顔を歪め、ルファスを睨みつけていた。
一方、ルファスは落ち着き払った様子だった。揺るがぬ光を瞳に宿し、ユージンに対峙する。
「それを決めるのはあなたではない。イリーシャさまの御心次第です」
そうして、指を天に向けた。
「——神は見ています。罰が下りますよ」
そのとき、彼らの頭上にあったバルコニーから、無数の剣が降ってきた。
なぜそんなものが落ちてきたのか分からない。ただの事故なのか、故意なのか。
月光にきらめく剣先を見て、イリーシャの体が凍りつく。頭の裏に、ロビンの顔が過ぎった。
こんなに鋭いものを向けられて、一体どれほど怖かっただろう。これが肉をえぐる痛みはどれほどのものなのだろう。あの夜、ロビンが流した血は廊下に大きな染みを作り、駆け寄ったイリーシャの寝衣の裾を汚した。あんなに血が流れるほど斬り刻まれたのだ。
ロビンは痛がりだった。子どもの頃はよく転んでは、すり傷を作り「イル、手当てしてよ」と情けない泣きべそをかきながらイリーシャのもとを訪れた。ロビンはイリーシャと違って公爵家嫡男として扱われるのだから、きちんとした医師に治療してもらった方がいい、と言うと、唇を尖らせて拗ねた。
「僕はイルがいいんだよ。それにあのお抱えの医者は怖いからやだ。傷口に無理やり消毒薬を押し付けるんだ。絶対わざとだよ」
「私だってそうするわよ」
「でもイルのやり方とは全然違うんだよ。僕がちょっとでも痛そうにすると、馬鹿にするみたいに笑うんだ。イルはそんなことしないだろ」
イリーシャは眉尻を下げて笑った。ロビンの言うことは、すべてが被害妄想というわけでもないだろうと思った。
いくら公的にクロッセル公爵家の嫡男として養子登録されたからと言って、関わる人の心までが書きかわるわけではない。
ロビンやイリーシャを男爵家の妾腹の子どもとして軽んじる者は確実にいた。特に長年公爵家に関わってきた人間に、その傾向は強かった。
イリーシャはとりわけ丁寧に傷口を洗いながら語りかけた。
「ここに来る前にした約束、覚えてる?」
「当たり前だろ」
ロビンは憤然と言った。
「僕たちは双子だから、絶対にお互いの味方をして、何があっても守り合おうって誓っただろ。忘れるわけない」
「うん。あのね、私たちの生まれを馬鹿にする人はいなくならないよ。でも、そういう人たちに文句を言わせないくらい、私たちはよく勉強して、努力して、強く、誇り高く、完璧に、公爵家の人間らしく振る舞わなくちゃいけない……んだと思う」
イリーシャの言葉に、ロビンはしょんぼり俯いた。
「でも……そんなの辛いよ」
「うん、私も。だから」
傷口に軟膏を塗ってやり、イリーシャはロビンに笑いかけた。
「辛くなったら、お互いにだけ弱音を吐こう。私たちは何があったって味方でしょ? どれだけ情けないところを見たって、嫌いになんてならないよ」
ロビンはぼうっとイリーシャを眺めていた。なんだか照れ臭くなって、イリーシャはちょっと乱暴に傷口に布を巻いた。
「はい! そういうことだから! 何か言いたいことある!?」
「いてて、ひどいよイル!」
ロビンが大げさに泣き真似をする。けれど、すぐにしみじみと頷いた。
「うん……そうだね。僕らは双子なんだから」
それから時々、何かあるとロビンはイリーシャのもとを訪ねた。ただ無言でそばにいることもあるし、泣き喚くこともあった。もちろん、イリーシャがロビンにそうすることも同じくらいあった。
ロビンとイリーシャは、お互いの秘密の箱だった。そこには弱い自分や柔らかな心や泣き言が入っていた。公爵家の嫡子としてはふさわしくないものだ。でも、ロビンとイリーシャにとっては、無くてはならないものだった。そうやって、二人はお互いを守り合ってきたのだ。
剣先はもう目前に迫っていた。イリーシャはふっと体の力を抜いた。
ロビンはあの夜、悲鳴をあげなかったか? それにも気づかず、イリーシャは寝こけていたんじゃないか。
——これが罰というのなら、私は喜んで受け入れよう。
刃に映る自分の顔さえ見えそうだった。イリーシャは天を仰ぎ、静かに目を閉じた。
次の瞬間、誰かに横ざまに突き飛ばされた。
その真横を、ヒュンと音を立てていくつもの剣が落下していく。ついで、押し殺した呻き声が聞こえてきた。
イリーシャはよく手入れされた芝生に無防備に突っ込んだ。身体中が鈍い痛みを訴える。だが、剣が肉を貫く衝撃ほどではない。
「ジーン!」
目を開ける前から、誰がそうしたのかは分かっていた。そんなことをするのは、この世に一人しかいなかった。
瞼を上げると、散らばった剣の真ん中で、ユージンがくずおれていた。礼装は鋭い剣先で何ヵ所も裂かれ、その下には例外なく、血の滲む肌が見えている。何より、一本の剣が、彼の手のひらを地面に縫いとめていた。
じわじわと、地面に血溜まりが広がっていく。ユージンは歯を食い締め、苦悶の声を押さえつけていた。
イリーシャは悲鳴を上げながら彼に駆け寄った。自分の体の痛みなど気にならなかった。
「ジーン、動かないで。すぐに医者を……」
「イル」
ユージンは脂汗を浮かべながら、無事な方の手で、気遣わしげにイリーシャの頭を撫でた。
「怖くなかったか? イルも体中すり傷だらけじゃないか。もう少し上手く庇えたら良かったんだが」
「そ」
イリーシャは絶句した。ひどい痛みを感じているはずなのに、血の気の引いたユージンのかんばせは穏やかだった。一心にイリーシャだけを気遣い、心配の色を瞳に浮かべている。
「そんなことはどうでもいいでしょう!」
ほとんど怒りに近い声が喉をついた。イリーシャはわずかでも痛みが和らぐよう祈りながら、彼の背に手を当てた。
「自分の心配をしてください。私のことはどうでもいいから……」
喉が震えて、嗚咽に似ているのが嫌だった。
その後すぐに、騒ぎを聞きつけた人々が集まってきた。王宮医師が呼ばれ、ユージンは手当てを受けるため医務室に運ばれていく。
ルファスは、いつの間にか姿を消していた。
風が少し冷たくなってきたかもしれない。だが、イリーシャの高揚した体には、それがちょうどよかった。
「ルファスさま、あなたはロビンの死について、何をご存じなのです?」
宮殿沿いのひと気のない道をそぞろ歩きながら、イリーシャは単刀直入に切り出す。少し先を進んでいたルファスが、バルコニーの下で足を止めた。
神官服の裾を翻らせ、ゆっくりと振り返る。滑らかな銀の髪が、きらめく光の帯となって背中に流れた。
長いまつ毛の下、思慮深いハシバミ色の瞳が、何もかもを見通すように見開かれる。
色のない唇が動き、神託のように告げた。
「——すべてを」
「!」
イリーシャは咄嗟に両手で口元を押さえた。そうしないと、悲鳴が漏れてしまいそうだった。
だが、とわずかに残った冷静な部分が注意を与える。これはカマをかけているだけかもしれない。適当なことを言って宰相の弱みを握ろうとしているだけならば、余計な希望を抱いても辛いだけだ。
しかし、ルファスは冷然と続けた。
「ユージン卿は、ロビン卿を殺めましたね」
鼓動が速くなる。痛いほど強く脈打っている。手足から血の気が引いて、冷たくなっていくのが分かった。
ルファスはまじろぎもせず、イリーシャの様子を見つめていた。
「私はどこかに訴え出るつもりはありません。そんなことをしてもユージン卿が阻むでしょうからね。ただ、あなたが望むのであれば、救いを与えて差し上げられます」
「救い、ですか……?」
「はい」
確信に満ちた目つきで、ルファスは肯く。月の光が降り注ぎ、彼を清冽に染め上げた。
「イリーシャさまが救いを求めるのであれば、神殿に来てください。全力をもってあなたを保護しましょう」
「な、なぜそこまで……」
「決まっています。苦悩する人々を救うのが、使徒たる私たちの使命だからです」
ルファスの瞳には、慈愛すら浮かんでいた。月光が彼を縁取り、彼自身が輝いているように見える。イリーシャは言葉を失い、その場に膝をつきそうになった。
奥歯を噛みしめ、必死に呼吸を整えるイリーシャの肩を、ルファスが優しい手つきでさすった。
「……イリーシャさま、今まで、よく堪えてきましたね。己の半身たる弟君を失って、血濡れた男に身を委ねて。悲しいときには、泣いてもよいのですよ」
イリーシャの瞳に、涙が膨れあがった。
ああ、そうだ。イリーシャは、今まで弟の死を悼むことすらできなかったのだ。
弟の殺されたさまを目の当たりにして、血溜まりの中でこの腕に死体を抱いて。
いつも心は不安で、怯えて、泣く余裕などどこにもありはしなかった。
残念、と言われる程度の死でも、彼女にとっては、たった一人の弟だったのに。
ルファスが、神官服で優しくイリーシャを覆い隠す。イリーシャの唇が震えた。
「……っ」
だが、涙がこぼれる寸前、庭園に乱れた足音が飛び込んできた。
「イリーシャ!」
振り向かずとも、イリーシャにはその声の持ち主が分かった。聞き間違えようもない、美しく忌まわしい声。
さっと顔を上げ、目元をこする。急いでルファスから一歩距離を取った。泣いている場合ではない。
振り向くと、髪を乱したユージンが駆け寄ってくるところだった。険しい顔つきでルファスを睨みつけている。
「ルファス、イルに何をした?」
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「……イル、こちらへ来い」
地の底を這うような低い声音だった。イリーシャの足がすくむ。だが、ユージンは大股で歩いてくると、イリーシャの腰を抱いてすっぽりと片腕の中に収めた。こわばるイリーシャの背中を、落ち着かせるように大きな手が撫でる。おそるおそる胸元に頭を預けると、速い心音が伝わってきた。焦って探しに来たのだろうか。彼女を囲う腕も熱い。
ルファスは二人の様子をうち眺め、すっと目を窄めた。唇の端が吊り上がる。
「それと、ささやかながら我々の使命についてお話しさせていただきました。苦しむ人々に、神殿の門戸はいつでも開かれている、と」
「イルをお前に渡しはしない!」
ユージンが声を荒げる。イリーシャをますます強く抱え込んだ。
イリーシャはそっと顔を上げ、ユージンを見据えた。彼は痛々しく顔を歪め、ルファスを睨みつけていた。
一方、ルファスは落ち着き払った様子だった。揺るがぬ光を瞳に宿し、ユージンに対峙する。
「それを決めるのはあなたではない。イリーシャさまの御心次第です」
そうして、指を天に向けた。
「——神は見ています。罰が下りますよ」
そのとき、彼らの頭上にあったバルコニーから、無数の剣が降ってきた。
なぜそんなものが落ちてきたのか分からない。ただの事故なのか、故意なのか。
月光にきらめく剣先を見て、イリーシャの体が凍りつく。頭の裏に、ロビンの顔が過ぎった。
こんなに鋭いものを向けられて、一体どれほど怖かっただろう。これが肉をえぐる痛みはどれほどのものなのだろう。あの夜、ロビンが流した血は廊下に大きな染みを作り、駆け寄ったイリーシャの寝衣の裾を汚した。あんなに血が流れるほど斬り刻まれたのだ。
ロビンは痛がりだった。子どもの頃はよく転んでは、すり傷を作り「イル、手当てしてよ」と情けない泣きべそをかきながらイリーシャのもとを訪れた。ロビンはイリーシャと違って公爵家嫡男として扱われるのだから、きちんとした医師に治療してもらった方がいい、と言うと、唇を尖らせて拗ねた。
「僕はイルがいいんだよ。それにあのお抱えの医者は怖いからやだ。傷口に無理やり消毒薬を押し付けるんだ。絶対わざとだよ」
「私だってそうするわよ」
「でもイルのやり方とは全然違うんだよ。僕がちょっとでも痛そうにすると、馬鹿にするみたいに笑うんだ。イルはそんなことしないだろ」
イリーシャは眉尻を下げて笑った。ロビンの言うことは、すべてが被害妄想というわけでもないだろうと思った。
いくら公的にクロッセル公爵家の嫡男として養子登録されたからと言って、関わる人の心までが書きかわるわけではない。
ロビンやイリーシャを男爵家の妾腹の子どもとして軽んじる者は確実にいた。特に長年公爵家に関わってきた人間に、その傾向は強かった。
イリーシャはとりわけ丁寧に傷口を洗いながら語りかけた。
「ここに来る前にした約束、覚えてる?」
「当たり前だろ」
ロビンは憤然と言った。
「僕たちは双子だから、絶対にお互いの味方をして、何があっても守り合おうって誓っただろ。忘れるわけない」
「うん。あのね、私たちの生まれを馬鹿にする人はいなくならないよ。でも、そういう人たちに文句を言わせないくらい、私たちはよく勉強して、努力して、強く、誇り高く、完璧に、公爵家の人間らしく振る舞わなくちゃいけない……んだと思う」
イリーシャの言葉に、ロビンはしょんぼり俯いた。
「でも……そんなの辛いよ」
「うん、私も。だから」
傷口に軟膏を塗ってやり、イリーシャはロビンに笑いかけた。
「辛くなったら、お互いにだけ弱音を吐こう。私たちは何があったって味方でしょ? どれだけ情けないところを見たって、嫌いになんてならないよ」
ロビンはぼうっとイリーシャを眺めていた。なんだか照れ臭くなって、イリーシャはちょっと乱暴に傷口に布を巻いた。
「はい! そういうことだから! 何か言いたいことある!?」
「いてて、ひどいよイル!」
ロビンが大げさに泣き真似をする。けれど、すぐにしみじみと頷いた。
「うん……そうだね。僕らは双子なんだから」
それから時々、何かあるとロビンはイリーシャのもとを訪ねた。ただ無言でそばにいることもあるし、泣き喚くこともあった。もちろん、イリーシャがロビンにそうすることも同じくらいあった。
ロビンとイリーシャは、お互いの秘密の箱だった。そこには弱い自分や柔らかな心や泣き言が入っていた。公爵家の嫡子としてはふさわしくないものだ。でも、ロビンとイリーシャにとっては、無くてはならないものだった。そうやって、二人はお互いを守り合ってきたのだ。
剣先はもう目前に迫っていた。イリーシャはふっと体の力を抜いた。
ロビンはあの夜、悲鳴をあげなかったか? それにも気づかず、イリーシャは寝こけていたんじゃないか。
——これが罰というのなら、私は喜んで受け入れよう。
刃に映る自分の顔さえ見えそうだった。イリーシャは天を仰ぎ、静かに目を閉じた。
次の瞬間、誰かに横ざまに突き飛ばされた。
その真横を、ヒュンと音を立てていくつもの剣が落下していく。ついで、押し殺した呻き声が聞こえてきた。
イリーシャはよく手入れされた芝生に無防備に突っ込んだ。身体中が鈍い痛みを訴える。だが、剣が肉を貫く衝撃ほどではない。
「ジーン!」
目を開ける前から、誰がそうしたのかは分かっていた。そんなことをするのは、この世に一人しかいなかった。
瞼を上げると、散らばった剣の真ん中で、ユージンがくずおれていた。礼装は鋭い剣先で何ヵ所も裂かれ、その下には例外なく、血の滲む肌が見えている。何より、一本の剣が、彼の手のひらを地面に縫いとめていた。
じわじわと、地面に血溜まりが広がっていく。ユージンは歯を食い締め、苦悶の声を押さえつけていた。
イリーシャは悲鳴を上げながら彼に駆け寄った。自分の体の痛みなど気にならなかった。
「ジーン、動かないで。すぐに医者を……」
「イル」
ユージンは脂汗を浮かべながら、無事な方の手で、気遣わしげにイリーシャの頭を撫でた。
「怖くなかったか? イルも体中すり傷だらけじゃないか。もう少し上手く庇えたら良かったんだが」
「そ」
イリーシャは絶句した。ひどい痛みを感じているはずなのに、血の気の引いたユージンのかんばせは穏やかだった。一心にイリーシャだけを気遣い、心配の色を瞳に浮かべている。
「そんなことはどうでもいいでしょう!」
ほとんど怒りに近い声が喉をついた。イリーシャはわずかでも痛みが和らぐよう祈りながら、彼の背に手を当てた。
「自分の心配をしてください。私のことはどうでもいいから……」
喉が震えて、嗚咽に似ているのが嫌だった。
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