呪われ公爵様は偏執的に花嫁を溺愛する

香月文香

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大神官

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 マリアンヌと別れたあと、イリーシャは広間の壁の花となっていた。

 時折、通り過ぎる人の視線を感じるが、それに構ってはいられない。

 ——ヨハン殿下とマリアンヌさまを取り持ったのはユージンだった。

 イリーシャはこれの意味するところを考えていた。すなわち、ユージンは初めから、イリーシャをヨハンの元へ嫁がせるつもりなどなかったのだ。

 ロビンを殺めたのは衝動的なものではなく、綿密に練られた計画の最後の結果だったに違いない。おそらく、イリーシャがあの現場を見てしまったことは彼の計算違いだったのではないか。

 あの惨劇を目の当たりにしなければ、イリーシャはロビンの死を事故と信じ、悲しみに暮れる中、無邪気にユージンの手を取っただろうから。

(一体、私の何が、ジーンをそこまでさせるのだろう……)

 イリーシャは絹の手袋に包まれた手を、そっと頬に当てた。

 ずっと分からないのはそこだった。イリーシャは、特別美しいわけでもないし、心根が優しいわけでもない。正直に言って、どこにでもいる凡庸な人間だった。それを得るために、なぜユージンはその手を血で汚したのだろう。

 辺りを見回す。美しい令嬢が鮮やかなドレスの裾を翻して、ひらひらと舞っている。彼女たちと自分の違いがよく分からない。彼女たちの中には、イリーシャよりも可愛らしい女性も、純真な女性も山ほどいるはずだった。きっと、呪いのことを案じてくれる女性も。

 そこへ、先ほどからチラチラとイリーシャの方を見ていた男が、意を決したように近寄ってきた。

「——失礼、美しい方。僕と一曲踊っていただけませんか?」

 栗色の髪をした、見知らぬ青年だった。髪を綺麗に撫でつけ、流行りを抑えた装いだ。笑みを形作る唇に、自信が満ちていた。
 イリーシャは一瞬虚をつかれたが、すぐに礼儀正しく微笑み返した。

「ごめんなさい、連れを待っているものですから」
「こんなに可憐な女性を待たせるなど罪深い。僕の手を取ってくだされば、楽しい一夜をお約束しますよ」

 イリーシャは何も言わず、ただ正確無比な微笑を浮かべた。この男と愛しあう乙女であれたら、いくらか気楽な人生を送れたに違いない。それとも、たとえ一夜だけでも、後腐れのない恋に興じようか。短い間でもすべての鬱屈を忘れられるかもしれない。マリアンヌの言葉が蘇る。不倫と浮気は恋のスパイス。

 ——それでも、男の手を取る気にはなれなかった。

「いえ、本当に……」
「せっかくの舞踏会なのですから、少しくらいはしゃいでも誰も咎めません。何もかも忘れて、一緒に楽しみましょう」

 拒むイリーシャに構わず、男は強引に手を掴んできた。手袋越しでも、触れられたところからゾワッと悪寒が走る。イリーシャは思わずきょろきょろと大広間を見渡した。ユージンはどこにいるのだ。何かあったら呼べなんて言っていたのに見当たらない。駆けつけるとか言っていたくせに、肝心なときにいないではないか。

 まったくもう、と八つ当たり気味に思いながら、イリーシャは礼儀を失さない程度に困り顔を作った。

「私、少し疲れてしまっているのです。ですから……」
「それは大変だ。どこかで休みますか? ご一緒しましょう」

 鼻息荒く顔を近づけてくる。イリーシャは呻き声を噛み殺すのに必死だった。頭の中で、淑女教育を受けたときに配られた教本をパラパラとめくる。どこかにダンスの断り方が書いていなかったか?

(だいたい、どうしてこの人はこんなにしつこく私に迫るの!?)

 内心で頭を抱える。壁の花は他にもいる。それこそ、今こちらへ向かってくる男の方がイリーシャより美しいではないか。

(うん? 男?)

 イリーシャは金の瞳を瞬かせ、自分の元へ歩いてくる男を注視した。女と見紛うほど美しい顔をした男で、神官服を身につけている。彼のまとう神官服には他の神官よりも上質な布が使われ、ささやかながら宝石も飾られており、彼が高い地位にいることを示していた。

 神官の男はイリーシャの元へやってくると、彼女に迫る男を冷たく一瞥した。

「嫌がっていらっしゃるでしょう。無理強いするのはおやめなさい」
「横から来て何を……」

 男は反射的に噛みついたが、神官の迫力に気圧されたらしい。イリーシャの手を離し、何事かモゴモゴと呟きながら立ち去った。あっという間の出来事だった。

 唖然としているイリーシャに、神官は何事もなかったように温和に微笑みかけた。

「イリーシャさまですか? ご挨拶したく、お探ししておりました」
「は、はい……」
「ああ、申し遅れました。私は大神官のルファスと申します。お気軽にルファスとお呼びください」
「大神官?」

 イリーシャはぎょっと頬をひきつらせた。大神官といえば、神殿の最上位に座する人間だ。国中の神殿の統括をしており、信仰に励んでいると聞く。そのような人間が、どうして縁もゆかりもないイリーシャを助けたのだろう。

 そこまで考え、遅れて思い当たる。そういえば、自分は公爵夫人であった。とすれば、これも神殿のための根回しの一環か。

 そうと決まれば、イリーシャの受けた教育が、彼女を完璧な淑女として立たせてくれる。
 彼女はしとやかな笑みを口元に漂わせ、折り目正しく彼と差し向かった。

「まあルファスさま、助けていただきありがとうございます。あいにくと、夫は席を外しておりますが……」
「いえ、私はイリーシャさまにご挨拶申し上げたかったのです」
「私に?」
「ええ。——ロビン卿の死は、本当にお可哀想な事件でございました」
「な……」

 イリーシャは目を見開く。彼は今、事件と言ったか。
 ユージンによって「不幸な事故」として処理されたロビンの死を。
 ルファスは憂いを帯びた眼差しで、イリーシャを捉える。

「よろしければ、庭園の散策などいかがですか? ここにいても気詰まりでしょう」

 すっと手が差し伸べられる。今度はそれを、拒むことができなかった。
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