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上手く愛せない
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クロッセル公爵邸の寝室にて。
ルファスが帰ったあと、ユージンはベッドに身を預け、夜の帳が下りた窓の外を、見るともなしに眺めていた。灯りは最小限だけで、寝室の中は薄暗い。この邸の中に見るべきものは既にないので、彼にとっては十分だった。
イリーシャのいない邸は広々として、虚ろだった。
このベッドで彼女に怒りをぶつけたときのことを思い出す。ユージンは本気で、彼女の手足を切り落とすつもりだった。首輪をつけて、邸の一室に閉じ込めてしまおうと考えていた。イリーシャが毎日彼のことだけを考え、彼だけのために笑ってくれたら、それはどんなに素晴らしいことだろう。どれほど姿形が変わっても、彼女を愛するのに何の困難もなかった。
だが、彼の下で気を失い、青ざめてぐったりとする彼女を見下ろしたとき。別の感情が彼の胸をよぎった。
そうして気づけば彼は彼女を自由にしていた。
長くため息を吐き出す。こんなつもりでは、本当になかったのだ。
イリーシャに初めて出会ったときのことを、ユージンはよく覚えている。よく晴れた、暖かな春の日だった。
クロッセル公爵邸の客間に現れた彼女は、慎ましく俯いて立っていた。可愛らしいリボンでまとめた髪が陽射しを浴びて白銀に輝き、天の遣いか何かのように見せていた。うつむけた前髪の下、長い銀のまつ毛が伏せられて、大きな瞳をけぶらせていた。
顔が見たいな、と反射的に思った。そして即座にその想いをねじ伏せた。
ユージンは「呪われた子」で、邸の誰からも見放された存在だった。何を望んでも叶えられることはなく、死ぬまでずっと「そこにいない」ことを求められるのだと、完全に理解していた。
あれほど解呪に奔走し、彼に与える恥辱を顧みずに聖女をあてがった両親でさえ、もはや解呪は不可能とはっきりすると、目も合わせなくなった。呪紋が首を絞めるように痛むのだ、と泣いても、優しく慰めてくれる者は誰もいない。
だからユージンは、何も望まないように、苦痛を表に出さないように過ごしていた。何かの希望が生まれるたび、一つ一つ丁寧にそれを殺していった。
床に視線を投げ、黙然と立ち尽くす。なるべく誰の視界にも入らないように。両親から優しい言葉を投げられるロビンを視界に入れないように。ロビンは薔薇色の頬をした愛らしい少年だった。イリーシャとよく似た面差しで、けれど彼には何の感慨も抱かなかった。
そのとき、横顔に視線を感じた。今までユージンがぶつけられてきた、憐憫でも嫌悪でもない、フラットな柔らかさを持っていた。だから彼は気負わず顔を上げることができた。
——イリーシャが、紛れもなくこちらを見ていた。
ばちりと音がしそうなほど強く、目があった。
銀のまつ毛に縁取られた瞳は金色で、蜜を溶かしたような色合いだった。美味しそうな色だな、とユージンは唾を飲み込んだ。
目があって、びっくりしたようにイリーシャは瞬きした。それから、眉を下げ、照れくさそうに笑ってみせた。小さな歯が唇の隙間から覗いた。真珠色だった。
それで、ユージンはイリーシャから目が離せなくなった。
彼女が公爵邸で過ごすようになってから、ふとした瞬間にその姿を追っていた。
クロッセル公爵家嫡男として扱われるロビンと違って、イリーシャはあくまでも「おまけ」に過ぎなかった。最低限の淑女教育を受けてはいたが、だいたいは一人で放っておかれ、使用人にも雑な取り扱いを受けていた。
その日ユージンが見たのは、邸のメイドに突き飛ばされるイリーシャの姿だった。何があったのかは分からない。メイドは腕いっぱいに洗濯カゴを抱え、「邪魔よ」と鼻を鳴らすと庭の方へ歩いていった。何人かの使用人が通り過ぎたが、廊下の隅に転がるイリーシャに、誰も声をかけなかった。
ユージンは、近くの部屋から顔を出して、その様子を眺めていた。もしも泣いたら、慰めてみるのも良いかもしれない、などと思いながら。無様に倒れ伏すイリーシャの小さな体は、自分の姿とよく似ていたのだ。
けれど、イリーシャは無言で立ち上がると、薄い麻のドレスを叩き、埃を払った。凛然と顔を上げ、周囲には一瞥もくれることなく、廊下の向こうへ歩き去った。
その背中が手の届かないほど輝かしく見えて、ユージンは呆然と見送っていた。イリーシャが完全に自分とは異なる生き物であることを認識した瞬間だった。
それ以降だったと思う。ユージンはイリーシャやロビンの良き先達として、彼らの面倒を見た。二人はユージンによく懐き、慕ってくれた。
上手くやっていた、と自負している。ユージンは二人の頼れる「お兄ちゃん」だった。様々な相談を受け、助けてやった。特にイリーシャにとっては、満たされた環境だっただろう。当たり前だ。ユージンがそうなるように気を配っていたのだから。
だが、成長するにつれてそれでは足りなくなった。
イリーシャの全てが欲しかった。未来も希望も幸福も、何もかもを奪い尽くしてしまいたかった。彼女から与えられるなら、死だって甘美な蜜だった。
だから邪魔なものは排除した。ロビンを殺したのは、ユージンがイリーシャの手に入れるために尽くした手のうちの一つに過ぎない。
イリーシャに優しくしたい。彼女の望みはあまねく叶えてやりたい。毛布で包むように愛して、ひどいことは何一つしたくない。
そう思ってはいるのだが、どうも上手くいかない。
ユージンは唇に苦笑を滲ませた。
あの夜、まさかイリーシャにロビンを殺すところを見られるなんて、思ってもみなかった。双子の絆の成せる業だろうか。
だが、それのおかげで、イリーシャがユージンだけに憎しみを向けてくれるのは心地良かった。彼女に殺意に染まった瞳を向けられたのは、この世でユージンだけだろう。
——廊下から、ひそやかな足音がする。使用人だろう、と彼は気にも留めなかった。それはまっすぐに寝室に向かってきた。そして。
ノックもなしに扉が開かれる。華奢な人影が、廊下の灯りに照らされて寝室に黒々と影を投げかける。星の河のように銀の髪が流れ、きりりと吊り上がった眉の下で、金の瞳が眩い輝きを灯す。
ユージンは息を呑み込んだ。
「……イル」
二度と戻ってくることはないと思っていた恋しい人が、決然とそこに立っていた。
ルファスが帰ったあと、ユージンはベッドに身を預け、夜の帳が下りた窓の外を、見るともなしに眺めていた。灯りは最小限だけで、寝室の中は薄暗い。この邸の中に見るべきものは既にないので、彼にとっては十分だった。
イリーシャのいない邸は広々として、虚ろだった。
このベッドで彼女に怒りをぶつけたときのことを思い出す。ユージンは本気で、彼女の手足を切り落とすつもりだった。首輪をつけて、邸の一室に閉じ込めてしまおうと考えていた。イリーシャが毎日彼のことだけを考え、彼だけのために笑ってくれたら、それはどんなに素晴らしいことだろう。どれほど姿形が変わっても、彼女を愛するのに何の困難もなかった。
だが、彼の下で気を失い、青ざめてぐったりとする彼女を見下ろしたとき。別の感情が彼の胸をよぎった。
そうして気づけば彼は彼女を自由にしていた。
長くため息を吐き出す。こんなつもりでは、本当になかったのだ。
イリーシャに初めて出会ったときのことを、ユージンはよく覚えている。よく晴れた、暖かな春の日だった。
クロッセル公爵邸の客間に現れた彼女は、慎ましく俯いて立っていた。可愛らしいリボンでまとめた髪が陽射しを浴びて白銀に輝き、天の遣いか何かのように見せていた。うつむけた前髪の下、長い銀のまつ毛が伏せられて、大きな瞳をけぶらせていた。
顔が見たいな、と反射的に思った。そして即座にその想いをねじ伏せた。
ユージンは「呪われた子」で、邸の誰からも見放された存在だった。何を望んでも叶えられることはなく、死ぬまでずっと「そこにいない」ことを求められるのだと、完全に理解していた。
あれほど解呪に奔走し、彼に与える恥辱を顧みずに聖女をあてがった両親でさえ、もはや解呪は不可能とはっきりすると、目も合わせなくなった。呪紋が首を絞めるように痛むのだ、と泣いても、優しく慰めてくれる者は誰もいない。
だからユージンは、何も望まないように、苦痛を表に出さないように過ごしていた。何かの希望が生まれるたび、一つ一つ丁寧にそれを殺していった。
床に視線を投げ、黙然と立ち尽くす。なるべく誰の視界にも入らないように。両親から優しい言葉を投げられるロビンを視界に入れないように。ロビンは薔薇色の頬をした愛らしい少年だった。イリーシャとよく似た面差しで、けれど彼には何の感慨も抱かなかった。
そのとき、横顔に視線を感じた。今までユージンがぶつけられてきた、憐憫でも嫌悪でもない、フラットな柔らかさを持っていた。だから彼は気負わず顔を上げることができた。
——イリーシャが、紛れもなくこちらを見ていた。
ばちりと音がしそうなほど強く、目があった。
銀のまつ毛に縁取られた瞳は金色で、蜜を溶かしたような色合いだった。美味しそうな色だな、とユージンは唾を飲み込んだ。
目があって、びっくりしたようにイリーシャは瞬きした。それから、眉を下げ、照れくさそうに笑ってみせた。小さな歯が唇の隙間から覗いた。真珠色だった。
それで、ユージンはイリーシャから目が離せなくなった。
彼女が公爵邸で過ごすようになってから、ふとした瞬間にその姿を追っていた。
クロッセル公爵家嫡男として扱われるロビンと違って、イリーシャはあくまでも「おまけ」に過ぎなかった。最低限の淑女教育を受けてはいたが、だいたいは一人で放っておかれ、使用人にも雑な取り扱いを受けていた。
その日ユージンが見たのは、邸のメイドに突き飛ばされるイリーシャの姿だった。何があったのかは分からない。メイドは腕いっぱいに洗濯カゴを抱え、「邪魔よ」と鼻を鳴らすと庭の方へ歩いていった。何人かの使用人が通り過ぎたが、廊下の隅に転がるイリーシャに、誰も声をかけなかった。
ユージンは、近くの部屋から顔を出して、その様子を眺めていた。もしも泣いたら、慰めてみるのも良いかもしれない、などと思いながら。無様に倒れ伏すイリーシャの小さな体は、自分の姿とよく似ていたのだ。
けれど、イリーシャは無言で立ち上がると、薄い麻のドレスを叩き、埃を払った。凛然と顔を上げ、周囲には一瞥もくれることなく、廊下の向こうへ歩き去った。
その背中が手の届かないほど輝かしく見えて、ユージンは呆然と見送っていた。イリーシャが完全に自分とは異なる生き物であることを認識した瞬間だった。
それ以降だったと思う。ユージンはイリーシャやロビンの良き先達として、彼らの面倒を見た。二人はユージンによく懐き、慕ってくれた。
上手くやっていた、と自負している。ユージンは二人の頼れる「お兄ちゃん」だった。様々な相談を受け、助けてやった。特にイリーシャにとっては、満たされた環境だっただろう。当たり前だ。ユージンがそうなるように気を配っていたのだから。
だが、成長するにつれてそれでは足りなくなった。
イリーシャの全てが欲しかった。未来も希望も幸福も、何もかもを奪い尽くしてしまいたかった。彼女から与えられるなら、死だって甘美な蜜だった。
だから邪魔なものは排除した。ロビンを殺したのは、ユージンがイリーシャの手に入れるために尽くした手のうちの一つに過ぎない。
イリーシャに優しくしたい。彼女の望みはあまねく叶えてやりたい。毛布で包むように愛して、ひどいことは何一つしたくない。
そう思ってはいるのだが、どうも上手くいかない。
ユージンは唇に苦笑を滲ませた。
あの夜、まさかイリーシャにロビンを殺すところを見られるなんて、思ってもみなかった。双子の絆の成せる業だろうか。
だが、それのおかげで、イリーシャがユージンだけに憎しみを向けてくれるのは心地良かった。彼女に殺意に染まった瞳を向けられたのは、この世でユージンだけだろう。
——廊下から、ひそやかな足音がする。使用人だろう、と彼は気にも留めなかった。それはまっすぐに寝室に向かってきた。そして。
ノックもなしに扉が開かれる。華奢な人影が、廊下の灯りに照らされて寝室に黒々と影を投げかける。星の河のように銀の髪が流れ、きりりと吊り上がった眉の下で、金の瞳が眩い輝きを灯す。
ユージンは息を呑み込んだ。
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