恋じゃないと噓を歌う(仮)

万里

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 奏は一瞬、本当に理解が追いついていないようだった。ぽかんと口を開け、スマホを握ったまま固まる。 だが、彼の頭の回転の速さはすぐに清一郎の提案の「論理的」な側面を捉えた。

「……えーと、つまり、セーイチロー先輩は、その……俺と、……セフレになる、ってこと…?」

「……ああ、そうだ」

 清一郎は小さく、しかし明確に答えた。声は震えていたが、言葉は直球。

 奏は、清一郎の真面目すぎる表情と、あまりに直球な提案とのギャップに呆然としているようだった。だが、その瞳の奥には、好奇心と、退屈を打ち破る何かへの興味が灯っていた。

「ウケル…!でもさ、俺、男は初めてなんだけど……いいの?」 

 清一郎の頭の中では、ありとあらゆる警告灯が赤く点滅していた。 
(やばい……これは完全に研究室の安全基準違反……!)

 恋愛経験ゼロ、性的経験も皆無。なのに、彼はこのチャンスを逃すまいと必死に自分の内面を押し殺した。

「俺は慣れているから、大丈夫だ。任せてくれ」

 ――人生で最も大きな、命を懸けた嘘だった。

 奏は目を丸くした。 
「うわ……マジでか。セーイチロー先輩、見た目に似合わず、結構大胆なんだな」

 清一郎の銀縁メガネの奥の瞳を、奏がじっと見つめる。その眼差しは、清一郎の嘘を見抜こうとしているようにも、ただ単に「未知の生物」を観察しているようにも見えた。

 清一郎は心臓が爆発寸前なのに、必死に平静を装う。 
(落ち着け……これはただの仮説検証……!実験だ……!)

 やがて、奏は大きく息を吐き、口元に笑みを浮かべた。 その笑顔は、ステージ上で見せる輝きとも、日常の無邪気さとも違っていた。どこか諦めを含み、刹那的な快楽を求めるような陰を帯びていた。

「……いいよ。別に。めんどくさくないなら。確かに……男は妊娠しないからいいね。それが一番大きいかも」

 その言葉は、清一郎にとって最も聞きたくなかった理由であり、同時に最も効率的な理由でもあった。 彼の提案は、奏にとって「恋愛」ではなく、「煩わしさのない、一時的な肉体の処理」として受け止められたのだ。

 清一郎の胸に、小さな針が刺さるような痛みが走る。だが彼は、その痛みを理性の檻に閉じ込めた。

(いいじゃないか…。目的は、彼の最も近しい場所にいること。この繋がりが、俺の存在確率を上げる唯一の方法だ)

 銀縁メガネの奥で瞳を揺らしながらも、清一郎は自分を納得させる。 それは、彼にとって最大の論理の飛躍であり、同時に最も純粋な衝動だった。

 契約は成立した。だが、清一郎にはどうしても譲れない一線があった。 それは、彼自身が「恋」というものに抱いている、唯一の純粋な信仰だった。

 奏が頷いたのを確認すると、清一郎は静かに、しかし決然とした口調で「ルール」を口にした。

「……ただし、一つ、条件がある」

「条件? なに?」 
 奏は面倒くさそうに片眉を上げる。

「キスは、ダメだ」

 奏は一瞬、面食らったように目を見開いた。 
「キス? なんで? 別にいいじゃん」

「ダメだ」
 清一郎は強く言った。 
「キスは、俺にとって最も情緒的で、最も特別な行為だ。それは感情的な深入りを意味する。この関係は、肉体的な充足を目的とした、ドライな契約であるべきだ」

 清一郎にとって、キスは「愛」の証だった。身体の関係は論理と目的のために割り切れても、キスだけは彼の魂の聖域だった。もしそれを許してしまえば、理性は一瞬で崩壊し、奏への感情を抑えきれなくなる。

 奏は、清一郎の真剣な表情を数秒見つめた後、深く考えることもなく肩をすくめた。 
「ふーん。よく意味わかんねぇけど、先輩のルールならいいよ。キスなしね。別に俺、こだわりねーし」

 あっさりと、奏は清一郎の最も大切な境界線を受け入れた。 清一郎の魂の防波堤は、何の抵抗もなく、奏に認められたのだ。

 その瞬間、清一郎の胸には安堵と虚無感がない交ぜになった感情が広がった。 
 奏にとっては「どうでもいい条件」でも、清一郎にとっては「最後の砦」。 その温度差が、彼の心に奇妙な空洞を生み出した。

 それでも清一郎は、銀縁メガネの奥で静かに瞳を閉じ、心の中で呟いた。 
(でも……これでいい。俺はまだ、理性を保てる。彼の傍にいられるなら、それだけで十分だ)

 *

 その夜、清一郎は生まれて初めて、奏と二人きりで彼のマンションへと向かった。 夜の街を並んで歩く間も、清一郎の心臓は落ち着くことなく、鼓動の速さを増していた。マンションのエントランスを抜け、エレベーターの中で交わす何気ない沈黙さえ、彼にとっては息苦しいほどの緊張を伴っていた。

 玄関を開けて足を踏み入れた瞬間、清一郎は思わず立ち止まった。 そこに広がっていたのは、奏の外見からは想像もつかない空間だった。生活感は薄いのに、無造作に置かれた雑誌やギターケース、散らばるコードや小物。整然とはしていないが、不思議と居心地の悪さはなく、むしろ「彼の世界」に迎え入れられたような感覚があった。

 壁際にはアンプやスピーカーが置かれ、テーブルの上には飲みかけのペットボトルと楽譜の束。清一郎は、研究室の無機質な空間とはまるで違うその部屋に、戸惑いと同時に妙な安心を覚えた。

 しかし、安心よりも強く彼を支配していたのは緊張だった。手の震えを悟られまいと、清一郎は指先に力を込め、必死に平静を装った。視線は自然に奏の背中へと吸い寄せられ、その歩みを追うだけで精一杯だった。


 部屋の薄暗さの中、奏が清一郎の銀縁メガネを静かに外し、ベッドサイドのテーブルに置いた。 視界はぼやけ、奏の輪郭も部屋の細部も曖昧になる。だが、その曖昧さがかえって感覚を研ぎ澄ませ、清一郎は彼の存在だけを強く意識した。

「メガネ邪魔でしょ…? セーイチロー先輩」 
 奏の声は、ひどく甘く響いた。耳元に近づいたその囁きは、清一郎の背筋をぞくりと震わせる。彼は普段、音声を「データ」として処理する人間だったが、この瞬間だけは、奏の声が理屈を超えて身体に直接染み込んでくる。

「ちょ、ちょっと……待っ…」 
 思わず言葉が漏れる。だが奏は、わざと唇を耳に近づけては離し、指先で清一郎の頬をなぞった。

「焦らすなよ……」 
 低く囁かれたその一言に、清一郎の心臓は跳ね上がる。耳元で響く声は、彼にとって最も危険な刺激だった。論理も理性も、すべてがその囁きの前では無力になる。

 ぼやけた視界の中で、奏の顔は近く、遠く、夢のように揺れていた。 清一郎はその曖昧さに救われながらも、耳元に落ちる声の一つひとつに、抗えない快感を覚えていた。

(……ヤバイ……っ!)

 心の中でそう呟いた瞬間、清一郎の「慣れている」という嘘の自信は完全に崩れ去った。彼は何一つ慣れてなどいなかった。論文や理論で積み上げた知識は、目の前の奏という温かく息づく現実の存在に、全く通用しなかった。

 奏が彼に触れる。熱を帯びた皮膚、しなやかな筋肉の感触、肌に広がる香水の残り香。 清一郎はそれらを必死に「データ」として処理しようとする。心拍数、呼吸数、奏の満足度を最大化するための論理的手順。

 奏は、そんな清一郎の硬直を見て、ふっと笑った。 
「セーイチロー先輩、緊張しすぎ。そんなに固くならないでよ…」

「し、してなっ…」 
 清一郎は慌てて否定するが、声は震えていた。

 奏は耳元に近づき、さらに囁く。 
「ほら、もっと力抜いて。俺、先輩のそういう真面目なとこ、嫌いじゃないけど……今は、ちょっと邪魔かな」

 清一郎の肩に触れながら、奏は意地悪そうに続ける。 
「ねぇ、先輩。さっき『慣れてる』って言ってたよね…? 本当は、初めてなんじゃないの…?」

「ちがっ…!」 
 清一郎は必死に否定するが、視界のぼやけの中で奏の輪郭を追うことしかできない。

 奏は低い声で囁いた。 
「大丈夫だよ。俺が、ちゃんとリードするから」

 清一郎は言葉を詰まらせ、顔を赤くする。

「ねぇ、セーイチロー先輩。俺の声、好きなんでしょ? さっきから、ゾクゾクしてる顔してる」

 清一郎は反論できず、ただ心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。

「ほら、顔真っ赤だよ…?」 
 奏は笑いながら、清一郎の髪を軽く撫でる。

 その言葉は、清一郎の理性を揺さぶり、心の奥に甘い衝撃を走らせた。

(俺は、観測対象の傍にいる。今、彼の最も深部へ入り込んでいる。これこそが、俺の論理の勝利だ)

 清一郎は自分にそう言い聞かせた。唇は触れ合わない――その約束だけが、心の痛みをぎりぎりのところで和らげていた。これは効率的で、感情を交わさない「身体の契約」だった。

 *

 翌朝。清一郎は初めて奏の腕の中で目を覚ました。 隣には、安らかな寝顔の奏がいる。

「……おはよ、セーイチロー先輩」 
 奏は目を細めて笑い、まだ眠そうな声で囁いた。

 清一郎はそっと手を伸ばし、茶色の髪に触れる寸前で止めた。キスは許されない。恋愛は許されない。

 彼は理性の鎧を全身に纏い、自分の心に鍵をかけた。 これは恋じゃない。これは彼の人生における、ただの「実験」なのだと。
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