恋じゃないと噓を歌う(仮)

万里

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 奏との「身体だけの契約」が始まってから二ヶ月が経過した。 清一郎の生活は、研究と、奏への献身という二つの軌道で構成されていた。

 清一郎にとって、奏との関係は「キスはダメ」という最後のルールのおかげで、かろうじて理性の制御下に保たれていた。二人は、感情を交換しない、静かで、ドライな関係を維持していた。 しかし、その実態は、清一郎の一方的で非対称な献身だった。

 奏が疲れて帰ってきた夜、清一郎は何も言わずに部屋を片付け、翌日の講義に必要な資料を準備し、栄養バランスを計算した簡単な食事を用意してから、静かに部屋を後にした。サークルの会計業務も、奏が望むよりも数段上の効率で処理し続けた。

 全ては、奏にとって「セーイチローが必要な存在」であり続けるための、論理的な努力だった。

(この関係の持続性は、俺の提供するサービスの質と、彼が感じるコストの低さに比例する)

 清一郎はそう、自分に言い聞かせた。気持ちを悟られないための、完璧な演技。その裏側で、彼の心は毎夜のように張り裂けそうになっていた。


 奏は時折、何気なく女性の話をした。

「昨日、ゼミの子に飲みに誘われてさ。可愛いんだけど、なんか俺、そういう気分じゃなくて断っちゃった」

「この前、サークルの後輩に『奏さんって彼女いないんですか?』って聞かれてさ…」

「ライブの打ち上げで隣に座ってきた子、めっちゃ積極的でさ。正直、ちょっと疲れた」

 奏は軽い調子で話す。冗談めかして笑いながら、まるで自分にとっては取るに足らない出来事のように。

「セーイチロー先輩は、そういうのないの? 女の子に言い寄られたりとか」 
 奏は何気なく尋ねる。

「……俺は、そういう対象ではない」 
 清一郎は淡々と答える。表情は変えない。何気ない言葉が、清一郎の胸を鋭く突き刺す。 彼は理性の鎧を纏い直し、心の奥で呟いた。

(俺は、彼の傍にいる。それだけでいい。……それだけで、いいはずだ)


 一度だけ、奏が清一郎の頬に、「先輩、いつもありがとう!」と、感謝の意を込めて軽いキスをしようとしたことがあった。 その瞬間、清一郎の身体は雷に打たれたように硬直し、咄嗟に顔を背けた。

「やめてくれ……」 
 硬い声で言い切ると、奏は一瞬、不満そうに眉を寄せた。

「えー、なんで? 感謝の気持ちくらい、いいじゃん」 
 奏は少し拗ねたように笑みを浮かべる。

 清一郎は視線を逸らし、必死に呼吸を整えた。 
「……ダメだ。ルールだ…」

 奏は数秒黙り込み、やがて肩をすくめて笑った。 
「あー、そうだった。キスはダメ、な。ごめんごめん。セーイチロー先輩のルール、忘れてた」

 そして、冗談めかして続ける。 
「でもさ、そんなに大事なら、逆にちょっと気になるな。先輩にとってキスって、どんだけ特別なんだよ」

 清一郎は答えられず、ただ唇を固く結んだ。 その沈黙を見て、奏はふっと笑い、軽く肩を叩いた。
  「まぁいいや。ルールはルールだもんな。俺、破る気はないよ。安心して」

 このルールがあるからこそ、清一郎は奏の隣にいることができる。 気持ちを伝えることができない代わりに、この関係が壊れるのを防ぐための、唯一の策だった。

 *

 奏の、清一郎への認識は、ゆっくりと、しかし確実に変化し始めていた。 最初、奏にとって清一郎の献身は「頭の良い先輩の奇妙なサービス精神」に過ぎなかった。清一郎はいつも真面目で、無口で、感情の起伏がほとんどない。身体を重ねる時でさえ、最初こそ顔を真っ赤にして動揺していたが、最近ではまるで精密に設計されたロボットのように冷静で、奏の満足度を最優先にしていた。

「気持ちいいか…?」 
「君は大丈夫か…?」

 彼が口にするのは、いつもこちらを気遣う言葉ばかりだった。 それは、奏がこれまで経験してきたような感情的な駆け引きや、重苦しい恋愛感情とは無縁で――ただ新鮮で、そして不思議なほど快適だった。

 女の子と遊ぶ時のような、駆け引きや期待、時に面倒な感情のやり取りは一切ない。清一郎といる時間は、ただ静かで、落ち着いていて、余計な気を使わなくていい。 

(なんか、先輩といる方が楽なんだよな…) 
 奏はふとそう思うようになった。

 気づけば、以前のように女の子と飲みに行ったり、軽い遊びに付き合ったりすることも減っていた。むしろ、そうした時間よりも、清一郎と一緒に過ごす静かなひとときの方が居心地がよかった。

(女の子と会っても、結局疲れるだけだ。先輩といる方が、ずっと楽で安心する)

 次第に奏は、女の子と会うこともしなくなり、清一郎との時間を優先するようになっていった。


 ある日。 奏がバンドの曲作りで徹夜し、部屋で倒れるように眠ってしまったときのことだ。清一郎はいつものように、奏が快適に眠れるよう部屋の温度を調整し、肩に毛布をかけた。

 その瞬間、奏は薄っすらと目を開けていた。 そして見てしまった。清一郎が、寝ている自分の顔を、銀縁メガネの奥からじっと見つめている姿を。

 その瞳は、普段の冷静な理性の光を失い、まるで宇宙の果てを見つめるかのように、熱く、切なく、深い何かを湛えていた。 奏は、その一瞬の清一郎の表情に、身体が一瞬凍り付くのを感じた。

 清一郎は、奏が起きていることに気づかず、すぐにいつもの冷静な表情に戻り、静かに部屋を出ていった。

(……なんだ、今の?) 
 奏は心の中で呟いた。

 初めて、清一郎の表面的な「冷静さ」の下にある、恐ろしいほどの情熱を感じたのだ。 それは、ステージの上で観客を熱狂させる自分に向けられる、熱狂的なファンの視線とは全く違った。 もっと静かで、もっと深く、もっと一途で――まるで清一郎の全存在を賭けた、純粋で、恐ろしいほどの何かだった。

 奏は毛布の温もりを感じながら、目を閉じた。 


 そして、最も奏の心を引っ掻いたのは、「キスはダメ」というルールだった。

(なんでキスだけは頑ななんだろ、セーイチロー先輩…)
 奏は、自問自答した。清一郎は他の全てを許すのに、キスだけは頑なに拒む。

(普通、身体だけの関係なら、キスから始めるもんじゃないのか? 身体はくれてやるのに、キスはダメって……なんか逆じゃね?)

 奏は、清一郎のその潔癖さ、不器用さ、そして一途な「ルール」に、奇妙な興味を抱き始めていた。 他の女たちのように、感情で彼を縛ろうとしない清一郎の態度が、逆に奏を惹きつけていた。

(あの人、ほんとに変わってるよな……)

 その日から、奏は清一郎に対して、これまでにない特別な感情を持ち始めた。


「なんか、セーイチロー先輩って、見てて飽きないんだよな。不器用で、ちょっと、かわいいよな」 
 奏は、ふとした会話の中で友人にそう漏らした。

 友人はすぐに笑いながら茶化した。 
「かわいいって……お前、先輩のことそういう目で見てんの?」

 奏は否定しなかった。ただ、曖昧に笑って肩をすくめるだけだった。

(かわいい、って言葉が一番近いんだよな……)

 それは、奏が今まで経験したことのない感情だった。 女の子のように「かわいい」わけではない。清一郎は体も声も、ちゃんと男だ。なのに、いじらしいくらいの献身を見せる。自分のことよりもこちらを優先して、無理をしてでも支えてくれる。

 一緒にいると、余計な駆け引きもなく、気を張る必要もない。楽で、落ち着いて、ただ安心できる。それは、柔らかくて不思議な感情だった。

 奏は無意識のうちに愛おしく感じ始めていた。 

 *

 清一郎と奏の関係に、外からの大きな変化がやってきた。 
 奏のバンド『ディストーション・ゲート』は、インディーズ界で急速に人気を集めていた。SNSでの拡散、ライブの動員数の伸び、そして何より奏が作るキャッチーなメロディと、カリスマ的なステージパフォーマンス。気づけば、音楽関係者の目がどんどん集まってきていた。

 ある日。清一郎がいつものようにサークルの会計報告書をチェックしていると、奏が勢いよく部室に飛び込んできた。

「セーイチロー先輩! 聞いて! ヤバい!」 
「奏くん、落ち着いて。何が『ヤバい』んだ? 家計簿の赤字か…?」 
 清一郎はメガネを押し上げながら、わざと冷静に返す。

「違うって! メジャーデビューの話が来たんだよ! 大手のレーベルのプロデューサーが次のライブに来るって!」 
 奏は文字通り飛び跳ねて喜んでいた。

 清一郎の胸は、喜びと同時に強烈な危機感で引き裂かれる。 
(バンドの成功……つまり、彼は俺の手の届かない次元へ行くってことだ…)

「それは……おめでとう、奏くん。成功率を上げるために、広報費とスタジオ代の予算を増やす提案をすぐに作る」 
「さすがセーイチロー先輩! そういうとこ頼りになるわ! 俺、これからマジで忙しくなるからさ!」


 その言葉通り、奏の生活は一気に加速した。 ライブの回数は増え、プロデューサーとの打ち合わせ、新曲のレコーディング。清一郎が会える時間はどんどん減っていった。

 週に一度だった「身体だけの契約」も、二週間に一度、そして三週間に一度と間隔が空いていく。

「ごめん、セーイチロー先輩! 今日、スタジオ入りが押してさ。リハも延びて、打ち合わせも詰まってて……もうスケジュールがパンパンなんだよ!」 
 電話越しの奏の声は、以前よりも遠く、熱気に満ちていた。

「昨日も徹夜で曲作ってさ、今日も朝からずっと動きっぱなし。正直、寝る時間もないくらいで……でも楽しいんだよな!」 
 奏は息を弾ませながら笑う。

「……わかった。無理はするな」 
 清一郎は短く答える。だが、その熱気が自分に向けられていないことを痛いほど理解していた。

「そうだ、先輩! 今度のライブ、来てよ! でっかい会場なんだ。絶対盛り上がるから!」 
 奏の声は期待に満ちていた。

 清一郎は一瞬、言葉を失った。 
(ライブ……彼の世界の中心。彼のファンもたくさんいるんだろう…)

「あ、ああ……予定を確認してみる」 
 曖昧に返事をしながら、清一郎は視線を落とした。

「絶対来てね!じゃあ!」 
 奏は軽く笑い、また次の予定へと駆け出していった。

(観測対象と観測者の距離が広がっている。このままじゃ、観測は途絶する……)

 清一郎はスマホを置き、静かに目を閉じた。 理性の鎧を纏い直しながらも、心の奥では焦燥がじわじわと広がっていた。

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