恋じゃないと噓を歌う(仮)

万里

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 距離が開くにつれて、清一郎の心は、孤独な解析に没頭していった。 彼は、自分が奏に抱く感情が、どれほど非効率的で、そしてどれほど強固なものであるかを、嫌というほど思い知らされていた。

「セフレ」という距離感を維持しようと、清一郎は理性で自分を縛り続けた。 この気持ちを伝えれば、奏は間違いなく重荷に感じ、関係は即座に終了するだろう。だから、彼は「便利な先輩」の仮面を脱ぐことはできなかった。

 *

 清一郎は、曖昧に返事をしたにもかかわらず、結局奏のライブへ足を運んでいた。 大きな会場。熱気に満ちた観客の歓声。ステージの上でスポットライトを浴びる奏は、まるで別世界の住人だった。

(……すごい。これが、彼の本当の場所だ…) 
 清一郎は客席の隅に立ち、銀縁メガネの奥からその姿を凝視した。 

(俺は、ただの観測者だ。彼の光を測定するだけの存在……)

 演奏が終わり、観客の歓声が鳴り止まない中、清一郎は拍手をしながらも胸の奥に痛みを覚えた。 
(この熱気は、俺に向けられたものじゃない。彼は、もう俺の手の届かない場所にいる)

 ライブ後。帰り道でスマホが震えた。奏からのメッセージだった。

『先輩、来てくれてた? ステージからは見えなかったけど、もし来てたなら嬉しい』
『今日のライブ、マジで最高だった! でも正直、緊張してたんだ。先輩が客席にいたら安心できたのにな』

 清一郎は画面を見つめ、指が止まった。 
「……見たよ。素晴らしいステージだった」 短く返信を打ち込む。

 すぐに奏から返事が来た。

『ありがとう、セーイチロー先輩!』

 清一郎はスマホを胸に抱え、深く息を吐いた。 

 *

 夜中、一人きりの部屋で、清一郎は奏からもらった、何の変哲もないライブのピックを握りしめた。 
「奏くん……」 と、小さく名前を呼ぶ声は、誰にも届かない。

 清一郎は、自分が奏に抱くこの感情を、改めて定義しようとした。 これは執着か、それとも信仰か。 違う。それは、ただ、彼が一目惚れしたステージの光景に由来する、純粋な恋だった。

 彼は、自分の恋の非効率性を嘆いた。 もし、自分が奏にとって、情緒的な安心を与えられる人間だったら。 もし、彼が恋愛に疲弊していない時期に出会っていたら…。

 しかし、清一郎には、計算と論理しかなかった。 彼は、自分の持つ全て――知性、献身、そして肉体を、奏の傍にいるための「対価」として差し出した。

「次に会えるのは……いつだろう」 
 清一郎は独り言のように呟き、手元のノートに確率の計算式を書き始めた。 だが、その数式は、奏のバンドの成功という、あまりに巨大な「未知数」によって、完全に崩壊してしまう。

(計算不能……彼の未来は、俺の論理の外にある)

 清一郎はベッドに横たわり、銀縁メガネを外し、天井を見つめた。 ぼやけた視界の中に、遠ざかる奏の姿が浮かぶ。

(俺は、いつまで、この非対称な契約を続けられるだろうか)

 彼の理性のエネルギーは、底を尽きかけていた。 それでも、奏の名前を呼ぶ声だけは、かすかに震えながらも途切れることなく、彼の胸の奥で響いていた。

 *

 奏のバンド『ディストーション・ゲート』のメジャーデビューに向けた動きが、いよいよ現実味を帯びてきた。 清一郎の心に巣食っていた不安は、もはや「量子的な不確定性」などという曖昧なものではなく、確固たる破壊的な事実へと変わりつつあった。

 奏は以前にも増して忙しく、清一郎と会う頻度は大幅に減った。 電話越しに聞こえる奏の声には、プロのミュージシャンとしての期待と熱気が満ちていた。

『先輩、ヤバイよ!次のライブ、プロデューサー来るって!もうスケジュール詰まりすぎ!』
「……そうか。無理はするな」 
『いや、無理するしかないんだって!でも楽しいんだよな、これが!』

 その熱気は、清一郎が一目惚れしたステージの上の輝きそのものであり、彼の献身の目的は、その輝きを維持することだった。 だが同時に、清一郎は、自分の存在をその輝きに対する「雑音」として認識し始めていた。

(奏くんは、もう大学のサークルという枠組みには収まらない。彼の世界は拡大し、影響力も増大する)

 彼の人生は、これから計り知れない可能性に満ちている。 そんな奏の隣に、自分のような、内向的で不器用な、そして何より「身体だけの関係」という、非効率で曖昧な存在が居続けていいのだろうか。

 奏の成功は、清一郎の理性を完全に打ち砕いた。 心は二つの矛盾した論理に引き裂かれる。

 一つは、「奏の傍にいたい」という、感情。 
 もう一つは、「奏の成功を妨げてはならない」という、理性。

 清一郎は徹夜でデータを分析した。 ノートに数式を書き連ね、確率を計算しようとしたが、結論はあまりにも冷酷だった。

 結論:観測者(清一郎)の存在は、観測対象(奏)の未来に対し、現時点では微小だが、無視できないリスク要因となり得る。リスク要因を排除することが、奏の軌道維持における最善の選択である。

「……俺のせいで、奏くんのバンドや未来がダメになったら…」 

 それは、切実な恐怖だった。 

 彼は決意した。奏が忙しさに追われている間に――自分から身を引かなければならない。 これこそが、彼にできる最後の、そして最大の献身なのだと。

 *

 週末の夜。たまたまスケジュールに空きが出たと、奏から短いメッセージが届いた。

『先輩、急だけど、今日会える?』

 何気ない一文だったが、清一郎の胸には重く響いた。 彼は銀縁メガネをかけ直し、来るべき別れのシミュレーションを頭の中で何度も繰り返した。表情には一切の感情を滲ませないよう、細心の注意を払った。

 彼の部屋の玄関に入ると、奏が少し疲れた顔で立っていた。だが清一郎の姿を見ると、いつものように無邪気に笑った。

「先輩、会いたかった…」 
 その声は、疲労の奥にある安堵を含んでいた。

「……」 
 清一郎は心臓が爆発しそうなほどの激しい鼓動を無視し、淡々と口を開いた。

「奏くん、君との関係は、もう終わりにする」

 奏の笑顔が、一瞬で凍り付いた。 
「……は? セーイチロー先輩、何言ってんだよ。冗談だろ?」

 清一郎は夜の闇に表情を隠したまま、理詰めで続けた。 
「俺の大学での研究は最終段階に入る。卒業実習と就職活動も本格化する。これ以上、不確実なスケジュールでの契約を維持することは、非効率的だ」

 奏は目を見開き、信じられないというように首を振った。 
「いやいや、待ってよ。俺たち、別に恋愛してたわけじゃないだろ? ただのセフレじゃんか。スケジュールが合わないなら、合う時に会えばいいだけだろ!」

 奏は清一郎の肩を掴み、強く揺さぶった。 
「なんで急にそんなこと言うんだよ!」

 清一郎は、その力強い接触に心臓が震えたが、顔色一つ変えなかった。 
「その『合う時』の確率が、限りなくゼロに近づいている。現に忙しくて会えなかっただろう。そういうことだ。君の成功は、俺を必要としなくなることを意味する。それが論理的結論だ」

 奏は眉根にしわを寄せた。 その顔からは、ステージ上でのカリスマ性も、日頃の人たらしな魅力も消え失せ、ただの傷ついた青年の姿が残った。

「……俺は、もう先輩にとって、用済みってことかよ…」 
 声は震え、瞳には深い悲しみが宿っていた。

 清一郎はその瞳を見た瞬間、自分の胸の中に熱い鉛が流し込まれたような痛みを感じた。 

 だが、その言葉を口にすることはできなかった。 
「……君の未来に、俺は不要だ」 
 冷たい声でそう告げるしかなかった。


 清一郎の冷徹な決意を前に、奏は一瞬、諦めの表情を浮かべた。 しかし、その諦念はすぐに別の強い情熱へと変わった。

「……先輩がそう言うなら…」 
 奏は自らの感情を押し殺すように言った。だが、その声には抑えきれない熱が滲んでいた。

「先輩の合理的な結論だもんな。でもさ、セーイチロー先輩。じゃあ、最後くらい、俺の好きにしていいだろ?」

 清一郎は驚き、息を呑んだ。 彼の提案は、清一郎の論理には含まれていない、感情的な要求だった。

「っ……?!」
 清一郎の胸に、予測不能な不安が広がる。 
 一体、何をするというのだろうか……。もしかしたら、酷くされるのかもしれない。だが、それもいいのかもしれない……。理性と感情がせめぎ合い、心臓の鼓動は制御不能に速まっていく。

「契約とか、もう関係ねぇだろ。だって、これで終わりなんだから」 
 奏はそう言うと、清一郎の銀縁メガネに手をかけ、そっと外した。

 視界がぼやける。清一郎は逃げる術を失った。

「……ああ、そう、だな……」 
 抵抗する理性を失い、絞り出すように了承した。

 奏はその答えを聞くと、一瞬躊躇した後、清一郎の身体を強く抱きしめた。 それは、いつも彼が清一郎に求めてきた肉体的な充足のための抱擁とは全く違っていた。 優しく、しかし情熱的に。

 そして、奏の唇が、清一郎の唇に触れた。

「っ……!」 
 清一郎の身体に、雷が落ちたような衝撃が走った。 理性の防波堤が一瞬で軋み、崩れかける。

「や、やめっ……」 
 必死に声を絞り出すが、奏は逃がさない。

「先輩、ちゃんと、こっち向いて」 
 奏は清一郎の顎を押さえ、視線を絡め取るようにして口に吸い付いた。

「嫌だっ……キスは……」 
「黙って」

 その瞬間、清一郎の世界は反転した。
 奏のキスは、清一郎が本で読んだ知識とは全く違うものだった。 熱く、甘く、そして涙が出るほど切ない。

 唇が重なるたびに、心臓は暴走し、呼吸は乱れ、理性は溶けていく。 
(こんなの……ダメだ……!)

 だが、奏の舌が触れるたび、清一郎の胸の奥に隠していた感情が暴き出される気がした。 

「……っ、あ……」 
 清一郎の目に涙が滲む。清一郎は、初めて味わう感情の洪水に、理性で作り上げた防波堤が崩壊する音を聞いた。

 奏は唇を離し、真剣な瞳で清一郎を見つめた。

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