恋じゃないと噓を歌う(仮)

万里

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 その夜の抱擁は、これまでで最も情熱的で、最も優しく、そして、最も悲しいものだった。

 いつも彼のセックスは優しいが、こんなにも甘やかされ尽くしたことはないくらい、清一郎の全身は隅々まで丹念に愛撫された。清一郎が抑えつけていたはずの快感が、堰を切ったように全身に押し寄せる。奏の指先、舌、唇が触れる場所すべてが灼熱し、甘く、じれったく、そして、どこまでも優しい。 その優しさが、逆に清一郎の理性を追い詰めていく。

「だ、ダメだ! 嫌だっ……! やめろっ……!」 
 必死に拒絶の言葉を吐き出す。

 だが、声は掠れ、震え、説得力を失っていた。 清一郎は腕を振りほどこうとするが、力が思うように入らない。 身体は言うことを聞かない。理性は必死に抵抗を叫び続けるのに、身体は奏の優しさに絡め取られていく。
 奏は清一郎の最も敏感な場所に愛撫を集中させ、蠱惑的な声で囁く。

「セーイチロー先輩、気持ちい? ここ、先輩の一番イイところでしょ?」 
「やめっ……ああっ……!! そこっ……、ダメっ……!」

 清一郎は、快感と絶望で涙の溜まった目で奏を睨んだ。壊れた声で、理不尽な懇願を吐き出す。

「もうやめ……っ、やるなら、もっと、酷くしろ……!」

 酷く扱われれば、奏へのこの非合理な未練を、断ち切れるかもしれない。これは、酷い仕打ちを受けるに値する、取るに足らない非倫理的な感情だと、奏自身に証明して欲しかった。

 しかし、奏は清一郎の汗で張り付いた髪を、優しく、本当に優しく撫でた。そして、清一郎の耳元に口を寄せ、囁く。
 甘い声が、清一郎の最後の理性をドロドロに溶かしていく。

「嫌だよ…。好きにしていいって、言っただろ? ……それとも、酷くしたら、これからもセフレ続けてくれるの?」

 その言葉は、清一郎の心をさらに深く抉った。清一郎は、嗚咽を漏らしながら、必死で首を横に振った。

「無理、だ……、俺は、もう、君の傍にはいられない……っ」

 奏は、清一郎の目尻から溢れる涙を、すべてを許すかのように舐め取るようにキスをした。そして、そのまま熱いキスで清一郎の言葉を飲み込む。

「俺なしで、満足できるの? セーイチロー先輩。……俺なしで、生きていけるの?」

 その問いかけは、清一郎の最も核心的な弱点を突いた。奏との関係が切れた後、一人でこの気持ちを、どう処理していけるのか。清一郎には、答えられなかった。

 奏の激しく、しかしどこまでも優美な動きに、清一郎の意識は遠のく。快感に、清一郎の体も心もぐずぐずに崩壊していく。


 意識が完全に途切れる直前、清一郎は最後に、奏の耳元でかすかに囁かれた言葉を聞いたような気がした。

「セーイチロー先輩…、俺、先輩のこと…」

 視界の隅で、奏の真剣な瞳が見えた。 だが、それもまた幻覚のように揺らぎ、現実かどうか判別できない。

「どうしたら、これからも一緒にいられるの……?」 
 耳の奥で、誰かの声が囁いたような気がした。

「先輩が妊娠すれば、いいのに……。俺のものになってよ……」

 それは非合理で、不可能で、狂気じみた願いだった。 だが、清一郎の意識はすでに濁流に呑まれ、現実と夢の境界は完全に溶けていた。 その声が本当に奏のものなのか、幻聴なのか、もう判別できない。

「……無理させて、ごめんね」 
 囁かれる声は、甘く、切なく、そしてどこまでも優しかった。

 その言葉は、現実か夢か分からないまま、清一郎は意識を失った。

 *

 ぼんやりと目を開けると、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。 
「……あさ、か」 
 昨夜、声を枯らすほど喘いだせいか、掠れた声が自分でも情けなく響いた。

 指一本も動かせず、ぐったりと横たわったまま、視線だけで辺りを見渡す。 ベッドの隣は冷たく、そこに人の気配はなかった。

 奏は、清一郎が目を覚ます前に部屋を出ていったようだ。 テーブルの上には、清一郎の銀縁メガネと、飲みかけのペットボトルが置かれている。

(……これで、いい。これで、いいんだ) 
 自分にそう言い聞かせる。

 彼は、奏の未来を脅かすリスク要因を自ら排除した。 彼を繋ぎとめておく資格は、自分にはない。
 しかし、胸の奥から、どうしようもない痛みが込み上げてくる。

(痛い……)

 頬を伝う涙は止めどなく溢れ、枕を濡らしていった。 
(なんでこんなに胸が痛い? どうして、涙が出るんだろう…?)

 清一郎は、理性と感情の狭間で、ただ朝日の中に取り残されていた。


 ***

 奏との別れから、およそ二年が経った。 清一郎は、あの夜に流した涙を理性の力で完全に封じ込めた。感情を「非効率なノイズ」として切り捨てる作業は、彼の得意分野だった。

 その後、彼は大学院に進学し、研究と就職活動に全力を注いだ。論理的なアプローチと冷静な分析力は、目標としていた企業への内定という確かな成果をもたらした。 机の上には整然と並んだ論文の草稿やデータ解析の結果だけがあり、かつてのサークル備品リストや会計報告書はもう存在しない。奏の影は、日常から完全に消えたかのように見えた。

 ――ただし、夜になると話は別だった。 誰もいない研究室でひとりデータ解析に没頭する時、清一郎はこっそりイヤホンを耳に差し込む。流れてくるのは、奏のバンド『ディストーション・ゲート』の曲。

 彼らはメジャーデビューを果たし、今やテレビやラジオ、SNS、街中の大型ビジョンまで、どこを向いても奏の姿がある。 
「観測対象の軌道は安定している。俺の離脱は、彼の成功に寄与した。論理は正しかった」 
 清一郎はそう自分に言い聞かせ、遠くから奏の輝きを眺めることで、自分の献身を肯定した。

 けれど、奏の歌声は理性の奥底を揺さぶり続ける。特にメジャーデビュー曲のリードトラックは、聴くたびに胸が締め付けられた。 

 理性という防波堤には、少しずつ亀裂が入っていた。 彼が排除しようとした愛は、宇宙の果てへ消え去るどころか、強烈な重力となって彼の心を引き戻し続けていた。

 季節は巡り、周囲の人々は新しい恋や生活を始めている。友人は結婚を語り、後輩は新しい夢を追い始めた。 その中で、清一郎だけが取り残されたように感じていた。

「……俺は正しかったはずだ。なのに、なんで……」 
 掠れた声で呟きながらも、イヤホンを外すことはできなかった。

 奏の歌声は、くだけた日常の中でも、清一郎の胸に甘く、痛烈な余韻を残し続けていた。

 *

 深夜。いつも通り、データ解析の作業に没頭していた清一郎の研究室に、不意に人の声が流れ込んできた。

「……あれ?」

 電源を入れた覚えのないラジオの音源に驚いて顔を上げる。研究室の隅に置かれた古い防災ラジオが、低い音量で勝手に流れていた。普段は誰も触らないはずのものだ。

『今日のゲストは、カナデさんです! よろしくお願いします!」』
『よろしくお願いします』

 ラジオから響いたのは、懐かしい、甘くて切ない、そして以前よりも深みを増した奏の声だった。 清一郎は、驚きと動揺で姿勢を正す。胸の奥が急に熱くなり、目頭がじんわりと滲む。二年間、必死に蓋をしてきた感情が、一気に溢れそうになる。

『久しぶりに、ホームに帰ってきました』 
 奏の笑い声が、研究室の静寂を破る。

『新曲は、珍しくバラードで、とても切ない曲調ですね。何かあったんですか?』
『ええ? いや~、まあ好きな人のことを歌ったっつーか』

『え! 好きな人?! それ、言っていいやつですか、カナデさん!』
『あ、ダメダメ! 今のカットで!』
『生放送ですよ(笑)』

 スタジオの笑い声が広がる。清一郎は、胸が締め付けられるのを感じた。

『好きな人って言っても、もう過去の話です。でも、届くといいなって思います。うわー、めっちゃ恥ずかしい!』
『キャー、きゅんとしますね! それでは、その新曲をお届けしましょう!』

 清一郎は、無意識に息を止めた。 アコースティックギターの静かなイントロが流れ出す。

 その音は、研究室の蛍光灯の下で響くキーボードの打鍵音を一瞬でかき消した。 清一郎の指は止まり、ただ耳を澄ます。

 胸の奥で、理性という名の防波堤がきしむ音がした。 二年間、遠ざけてきた記憶が、音楽に呼び戻される。

 清一郎は、机の上に置いたペンを握りしめたまま、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。 それでも、奏の歌声は、彼の心を容赦なく揺さぶり続けていた。

 *

  はじめて 

 変わった人だと思った 
 自分とは交わらない 遠い星だと 
 それなのにあなたは いつも静かに傍にいて 優しくて 
 ただ、とても居心地が良かった

 ねぇ、いつからだろう こんなにもあなたに甘えていたのは 
 失うまで 気づかなかった光

 あなたと過ごした日々の温度を まだこの手は 強く覚えている 
 あの時見落とした小さな幸せが こんなにも胸を 締め付けるなんて 
 こんな気持ちは、初めてなんだ

 時が過ぎても あなたの笑顔が消えない 
 いっそ記憶の全てが 無くなれば 
 この痛みから 楽になれるだろうか

 あなたと過ごした日々の温度を まだこの手は 強く覚えている 
 あの時見落とした小さな幸せが こんなにも胸を 締め付けるなんて 
 こんな気持ちは、初めてなんだ

 いつも どこでも あなたの影を追う 
 どうしてあの夜、これは恋じゃないと嘘をついて離れてしまったのか

 あなたは今、どこで どうしてるの 
 あなたが本当に幸せならば 諦められるのか 
 ただ、もう一度 あなたに会いたい

 *

 自分のことではないはずだ。 
「……そんなはずはない」 
 清一郎はそう呟き、唇を噛んだ。だが、涙は止まらなかった。

 奏の懇願のような、後悔のような歌声が、清一郎の堅固な理性を内側から破壊していく。 二年間積み上げてきた冷徹な論理が、たった数分の歌声で崩れ去ろうとしていた。

『それでは『はじめて』をお送りしました! この後もラジオは続きます! カナデさん、今日はありがとうございました!』
『ありがとうございました!』

 放送が終わった瞬間、研究室の空気が急に静まり返る。 清一郎は、全身の血が逆流するような衝動に駆られた。

 ――会いたい…。

 放送局の場所は知っている。行けば、会えるのか? その考えが頭をよぎった瞬間、理性が必死に反論を始める。

(全部、自分で断ち切ったはずだ……! こんな衝動に駆られるなんて、矛盾している! 非合理的だ! こんなことをしても、何の意味もない……!)

 頭の中で理性が叫ぶ。 だが、心臓は理性を裏切り、鼓動を速める。 胸の奥から湧き上がる熱は、論理では抑えられなかった。

 清一郎の体は既に動いていた。 机を離れ、コートを掴み、研究室を飛び出す。

 夜のキャンパスは静まり返り、冷たい風が頬を打つ。 
(……馬鹿だ。俺は、馬鹿だ) 
 そう思いながらも、足は止まらない。

 理性は「戻れ」と命じる。 だが、衝動は「進め」と背中を押す。

 その矛盾の中で、清一郎はただ走り続けていた。 奏の声がまだ耳に残っている。 それは幻聴のように、彼を放送局へと導いていた。

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