恋じゃないと噓を歌う(仮)

万里

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 ラジオ局の前まで来ると、清一郎は足を止めた。 夜にもかかわらず、局の出入り口には十数人の若い女の子たちが集まり、スマートフォンを構えながら騒いでいる。笑い声と期待のざわめきが、冷えた夜気の中に熱を帯びて広がっていた。

 清一郎は、路地の影に身を潜めた。街灯の届かない暗がりに立ち、息を潜める。心臓の鼓動が耳の奥で響き、落ち着こうとしても落ち着けない。

 しばらくして、局の扉が開いた。黒い帽子にサングラス、マスクで顔を隠した長身の人影が出口から現れる。 瞬間、キャーキャーと黄色い歓声が夜の空気を切り裂いた。

 ――奏だ。

 清一郎は、その姿を一瞬だけ見た。 帽子とサングラスの隙間から、奏の目がこちらを見たような気がした。

「……っ」 
 心臓が止まるような衝撃。反射的に目を逸らす。

(来るんじゃなかった。きっと勘違いだ。彼は俺のことなんて、覚えていない…)

 胸の奥で理性が必死に囁く。だが、足は震え、呼吸は乱れていた。 清一郎は、自分の愚かな衝動を恥じ、踵を返す。

 夜の街は冷たく、暗い。街灯の下を歩くたびに影が伸び、彼の背中を追いかけてくる。 
「……俺は、何をしているんだ」 
 掠れた声で呟きながら、清一郎は逃げるように歩き出した。

 歓声はまだ背後で響いている。だが、それはもう遠ざかり、清一郎の耳には自分の足音と、胸の奥で鳴り続ける後悔の鼓動だけが残っていた。

 *

 ピンポーン。 
 深夜に響いたインターホンの音に、清一郎は凍り付いた。こんな時間に訪ねてくる人間など、いるはずがない。心臓が一瞬で跳ね上がり、呼吸が浅くなる。居留守を使おうと体を硬くした、その瞬間――。

「セーイチロー先輩。俺だよ、奏」

 低い、けれど甘く、記憶に焼き付いた声が、インターホン越しに直接、清一郎の理性を揺さぶった。 耳に届いた瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。

 清一郎は混乱のままドアを開けた。 そこには、数多の光を浴びるはずの、奏が立っていた。帽子もマスクもしているが、夜の闇の中でその存在は異様に鮮やかだった。まるで周囲の空気そのものが彼を中心に熱を帯びているように感じられた。

「な、なんで……」
 清一郎の声は掠れ、震えていた。

「先輩と、話したい」 
 奏の声は短く、しかし切実だった。

「俺は話すことはない。……帰ってくれ」 
 清一郎は反射的にドアを閉めようとする。だが、その瞬間――。

 奏の大きな手が、ドアの枠を静かに、しかし動かせない力で支えた。 その手の温度が、清一郎の指先にまで伝わる気がした。

「お願い。ちょっとだけでいいから」 
 奏の声は低く、必死さを隠しきれない。

 清一郎は押し問答が周囲の目を引くことを恐れ、観念したようにわずかにドアを開いた。 奏は滑り込むように中へ入り、すぐに背後のドアを閉める。

 その瞬間、部屋の中は一気に奏の香りと熱量で満たされた。 清一郎は息を呑む。狭い部屋の空気が急に濃くなり、鼓動が耳の奥で響く。

(……逃げられない)

 清一郎は壁際に立ち尽くし、目の前の奏を見つめることしかできなかった。

 奏は清一郎の顔をじっと見つめた。 
「……髪の毛、伸びたね」

 その何気ない一言で、清一郎はハッとした。 離れてからというもの、彼は身なりに構わなくなっていた。かつては論理的な生活を徹底し、自己管理を怠らなかったはずなのに――今は髪も乱れ、服もくたびれている。奏に指摘されて初めて、その事実を突きつけられた。

「ねえ、先輩、ラジオ局の外にいたでしょ」 
 突然の問いに、清一郎は息を呑む。

「知らない。人違いだろう…」 
 嘘だと自分でも分かっている言葉を吐き出す。

「人違いか……俺、先輩を見間違えることはないんだけど…」
 奏は深いため息を吐いた。
「あんなところで何してたの」

「君には関係ない……」 
 清一郎は冷たく言い放った。

「関係ないって……!」 
 奏は一瞬声を荒げたが、すぐに言葉を飲み込み、深く息を吐いた。 そして、真剣な眼差しで清一郎を射抜く。 その瞳には、怒りでも苛立ちでもなく、ただ必死な思いが宿っていた。

「……ねぇ、先輩。俺の新曲、聴いてくれた?」

 その問いは、清一郎の心臓を直撃した。 耳の奥にまだ残っている旋律、ラジオから流れたあの歌声。 思い出した瞬間、胸が締め付けられる。

「わ、わか……らない……」 
 清一郎の答えは、ほとんど悲鳴だった。声は震え、喉が詰まり、言葉にならない。

 奏はその様子をじっと見つめ、静かに目を細めた。 
「わからないって何? ……あのね、あれ、先輩のことだよ」

「…っ?!」 
 清一郎の理性は完全に停止した。頭の中で警鐘が鳴り響くのに、身体は動けない。

 奏は一歩近づき、清一郎の手をそっと包み込む。 
「俺さ、先輩のことばっかり思い出すんだ…。変な先輩だったなあ、とか。ずっと優しかったなあ、とか。俺のこと、めちゃくちゃ大事にしてくれてたよなあ、って」

「し、してない……」 
 清一郎は必死に否定する。

「嘘」 
 奏は微笑んだ。その微笑みは、清一郎の心の最も弱い部分を正確に突いた。
「先輩、俺のこと好きでしょ?」

「好きじゃない!」 
 清一郎は狼狽し、慌てて声を荒げた。

 奏はその否定を軽く受け流し、深く、率直に続けた。 
「だから、あのとき離れたんでしょ……?」

「違う!!」 

 奏は一瞬だけ目を伏せ、そして真剣な眼差しで清一郎を見つめ直す。 
「俺、先輩みたいな人、今までいなくてさ。誰よりも真面目で、いつも俺の気持ちを一番に考えてくれて……俺を支えてくれた」

 その言葉に、清一郎は息を呑んだ。 胸の奥で、理性と感情が激しくぶつかり合う。 否定の言葉を探そうとするが、奏の瞳に射抜かれて、喉が詰まり、声にならない。

 奏はさらに言葉を重ねる。 
「俺、ステージに立ってても、ファンに囲まれてても、結局思い出すのは先輩なんだよ。先輩の言葉とか、笑った顔とか……全部、忘れられない」

「やめろ……」 

「やめない」 
 奏は強く言い切った。

「俺は、ずっと会いたかったよ。これからもずっと傍にいてほしい。……俺は、先輩のことが好きだよ」

 その言葉は、清一郎の胸を鋭く抉った。理性と感情の板挟みで心臓が軋み、呼吸は乱れ、視界が揺れる。奏の瞳は真剣で、逃げ場を与えない。

 清一郎は喉を詰まらせ、必死に息を整えようとした。だが、奏は一歩踏み込み、決意を込めた目で清一郎を見つめ続ける。

「俺の恋人になって、セーイチロー先輩」 

「……?!」 
 清一郎は声を失った。 恋人――その響きは、最も望んで、最も否定してきたもの。心臓が跳ね、頭の中で警鐘が鳴り響く。

「む、無理だ……」 
 清一郎は震える声で拒絶した。

「どうして?」 
 奏は問い詰めるようにではなく、ただ真剣に尋ねた。

「君は勘違いしている……。それに、合理的に考えて、俺となんて付き合うべきじゃない」 
 清一郎は最後まで「論理」を盾にした。声は震え、言葉は空回りしているのに、それでも必死に理性を守ろうとする。

 奏は首を横に振った。 
「勘違いしてない。俺は本気だよ。合理的とか、そんなのどうでもいい。……俺が聞きたいのは、先輩の本当の気持ちだけだよ」

 清一郎は息を呑む。 胸の奥で、理性が「否定しろ」と叫ぶ。だが、奏の瞳は揺るぎなく、清一郎の心を捕らえて離さない。

「先輩……俺のこと、好きなんだろ?」 
 奏の声は優しく、しかし逃げ場を塞ぐように響いた。

 清一郎の唇は震え、言葉にならない。理性は必死に抵抗するが、心臓は裏切るように熱を帯びていた。

 ――初めてライブを見たときから、ずっと好きだった。 
 奏は、眩い光の中で輝いていて、手が届かない、自分とは別世界の人間だ。だ
 から、そんな彼が少しでも自分を思ってくれただけで、満足しないと……。
 これ以上望んではいけない。拒まないと……。

 清一郎の頭の中で、論理と願望が激しく衝突する。 だが、自分の気持ちに嘘はつけなかった。奏の正直な告白と、目の前にある希望を、もう否定できない。

 清一郎の目尻から、諦めと歓喜の涙が滲み始めた。

「先輩……?」 
 奏は清一郎の顔を覗き込む。その瞬間、一筋の涙が頬を伝い落ちるのを見て、息を呑んだ。

「俺は、これからも、ずっと先輩と一緒にいたいよ。だから……俺のこと、好きって言って」

 奏の声は、祈りにも似ていた。

 清一郎の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ落ち、床に染みを作っていく。

 言わなければ――。「もう、会わない」と。
 ここで拒絶しなければ、もう二度と離れられなくなる。 
 言わなければ――。「君の邪魔をしたくはない」と。
 自分のような凡庸な人間が、輝く君の未来を汚してはいけないと。 
 言わなければ――。

 脳内では、幾百もの「別れるべき論理」が警報のように鳴り響いていた。しかし、清一郎を包み込む奏の腕は、そんな冷たい思考をすべて無効化するほどに熱く、力強い。

「……っ、……き……」

 掠れた声が、震える唇から漏れる。

 そして次の瞬間、清一郎は二年間の絶望と、人生のすべてを捧げてきた「理性」という名の盾をかなぐり捨てた。それは、彼にとって最も非合理的で、同時に、この宇宙で最も純粋な真実の告白だった。

「君が……っ、好き、だ……っ……」

 その言葉は、嗚咽と涙に濡れながらも、確かな形を持って夜の静寂を震わせた。長い沈黙を破るその一言は、清一郎自身の心を呪縛から解き放ち、奏の魂の最深部へと深く刻まれた。

 奏の身体が、歓喜に震える。

「先輩……っ」

 奏は目を閉じ、宝物を扱うかのような手つきで、清一郎の濡れた頬を両手で包み込んだ。そして、確かめるようにゆっくりと、唇を重ねた。

 それは、あの別れの夜に交わした、絶望に満ちた味とは全く違っていた。 互いの存在を肯定し、許し合い、共に歩むことを誓い合う――温かいキス。

「先輩……ありがとう。大好きだよ。もう、絶対に離さないから」

 奏の囁きは、甘い毒のように清一郎の耳元で響き、止まっていた彼の鼓動を激しく打ち鳴らす。

 清一郎は涙に濡れた瞳で奏を見返し、言葉にならない声を漏らしながら、彼の広い背中に指を立てるようにして抱きしめ返した。 二人は、どちらからともなく求め合うように、再び深く口づける。

 孤独という名の冷たい闇を溶かす、奏の熱情。 その熱は、清一郎の胸の奥に長く閉じ込められていた感情を解き放ち、理性の壁を完全に崩していった。

 唇が離れると、奏は清一郎の頬を両手で包み込み、真剣な眼差しで見つめた。 

 その夜、清一郎のワンルームの部屋で、二人はこれまでで最も深く、一夜を過ごした。 それは、欲望に支配された関係ではなく、互いの存在を慈しみ、未来を願う時間だった。



 エピローグ

 数ヶ月後。 
 清一郎の部屋には、以前はなかったものが置かれていた。 それは、奏の最新アルバムのCDと、二人で撮った少し照れくさそうな写真。机の隅に並べられたそれらは、清一郎の整然とした生活に、柔らかな色を添えていた。

 なかなか会える機会は少ない。奏はツアーや収録で忙しく、全国を飛び回っている。 それでも、彼は忙しい合間を縫って清一郎の部屋を訪れ、当たり前のように「ただいま」と言う。 

 出演中に「恋人ができた」「一緒に住みたい」などと危うい発言を繰り返し、清一郎を心配させることもある。いつかバレるのではと不安になるが、奏は気にしていないようだった。

 今は同性カップルでも「パートナー宣言」をしている人たちがいる。 まさか自分がそうなるとは夢にも思わなかったが――そんな日も近いかもしれない。 清一郎の胸元には、奏から贈られたネックレスが光っていた。


「先輩、またデータ分析に没頭してる。たまには俺のことも観察してよ」 
 後ろから抱きついてきた奏に、清一郎は困ったように、けれど幸せそうに微笑む。

「……君のことは、24時間リアルタイムで観測しているよ。あまりにも不規則な挙動が多いから、目が離せないんだ」

「不規則な挙動って……俺、そんなに予測不能?」 
 奏は少し拗ねたように笑った。

 清一郎は肩をすくめ、柔らかな声で答える。 
「そうだな。君は、俺の理論じゃ説明できない、唯一の存在だ」

「それって……良い意味?悪い意味?」 
 奏が探るように問いかける。

「もちろん、良い意味でだ」 
 清一郎は視線を逸らしながらも、微笑みを浮かべた。

「じゃあ、……愛してるってこと…?」 
 奏の声は少し照れながらも、真剣だった。

「……論理的に考えれば、そうなるだろうな」 
 清一郎は静かに答え、甘えてくる恋人の髪を優しく撫でた。

 奏は嬉しそうに目を細め、さらに強く抱きついた。 

 非合理で、不条理で、予測不能な毎日。 だが、そのすべてが清一郎にとっての正解だった。 かつては「効率」と「論理」だけを信じていた彼が、今はただ一人の存在を信じている。

 未来はまだ不確かで、困難もあるだろう。 それでも、奏と共に歩む日々を選んだことを、清一郎は疑いもしなかった。

 ――その選択こそが、彼の人生で最も合理的な答えだった。
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