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いのり
しおりを挟む──トェルが、いない。
陽が落ちた。
魔精が出る。
昇りゆく月を見あげた瞬間、リィフェルは飛んでいた。
「リィフェル──!」
アライアとノォナの叫びを背に、月の宮へと翔あがる。
月の宮は、月の精とその加護を受けた者だけに開かれた、他の精霊は、ゆけぬ宮だ。
追いかけようとして止まるアライアとノォナがちいさくなり、すぐに森の緑に溶けた。
月の宮の結界を通り抜けることさえ、もどかしかった。
突き破り、最高速度のまま月の宮まで突撃する。
「母上──!」
まるで、悲鳴だ。
自分の喉からあふれたと思えぬ声だった。
──感情が動かない……?
……冷静沈着……?
それは誰のことだったろう。
まるで違う自分に戸惑う余裕さえなかった。
めずらしく眠っていたのだろう、目をこすりながら起きあがった月のきみリヴァリゼは、人間ならよだれが垂れていそうな半開きだった唇を、ぽかんとあけた。
「……リィフェルか」
「トェルがいなくなった──!
森にいると思う、陽が落ちた、魔精が出る、さがしてくれ──!」
……哀願だった。
ぼうぜんとリヴァリゼが息子を見つめた。
──何を言いたいのか、わかる。
こんなのは、いつもの自分じゃない。
今までの自分じゃない。
そんなことトェルの前では、どうでもいい。
「トェルが──……!」
……人間なら、泣いただろうか。
リィフェルには、わからない。
月の精の力が、苦しげに揺れている。
見つめたリヴァリゼは、吐息した。
「しばし待て」
月の瞳が、閉じられる。
月の力が、噴きあがる。
母が月のきみとしての力をふるうとき、リィフェルはいつも畏怖をおぼえる。
無力な己を噛みしめる隙間さえないほど、精霊の本能として命の危機を感じる力に圧倒される。
知らずに、ふるえる。
それが、リヴァリゼだ。
天を統べるきみだ。
誇らしさと恐ろしさの狭間で、リィフェルは息をつめた。
精霊界のすべてを見晴るかす月のきみが、異物と言ってもいい魔族の血の混ざった人間のトェルを見つけられないなんて、ありえない。
絶対に、見つけてくれる。
吹きつける力に飛ばされそうになりながら待ったリィフェルに、月の瞳が開かれる。
リィフェルとおなじ瞳で、リヴァリゼは告げた。
「いない」
…………………………
「…………え…………?」
時が、進むのをやめたようだった。
「いない」
繰りかえすリヴァリゼに、悲鳴をあげた。
「そんなはずはない!
トェルと引き離したいなら別の時にしてくれ、今じゃない!」
母は、しずかに首をふる。
「……遅かったな、リィフェル。
トェルはもう、精霊界にいない。
──もしくは、死んでいる」
つかみかかろうとした。
『嘘だろう』
『止めてくれ』
『こんな時に質の悪い冗談を』
すべてが白々しくなるほど、母の瞳は凪いでいた。
──真実だ。
トェルはもう、精霊界にはいない。
もしくは──……死んだ。
息が、できない。
目の前に、闇が降りる。
全身から精霊の力が消えてゆくのを感じていた。
──……トェルは……もう……
くずおれそうになったリィフェルは、足に力をこめる。
トェルが川に投げ捨てられたとき、あのときもトェルの命の火は消えていた。
いや、死んだと思ったほど、微かになっていた。
母の力は強大だ。
だからこそ小さな力を感じとることは、不得手だ。
死にかけなら、なおさらだ。
──……トェルは、きっと、生きている。
思うだけで、精霊の力がよみがえる。
死んだことを嘆くのは、むくろを抱いてからでいい。
生きていると信じてさがすなら、その間はリィフェルも生きてゆける。
きびすを返したリィフェルは、飛びあがる。
精霊界を支配する母の力を頼ったことを恥じた。
──トェルを、この手で救いたい。
凍える川に投げこまれたトェルをすくいあげた時のように。
我が子を、この手で
きみを、この手で
たすけたい。
きっと、きみを生かすために、生まれてきたんだ。
きみの、父になるために、生まれてきたんだ。
「生きてくれ、トェル──……!」
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