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14.ヴァニラの香り
しおりを挟む「シャルル殿下、どうか落ち着いてお話しくださいますように、お願い申し上げます。義兄は休養明けでございますから何卒。」
アントワーヌの宥めるような、そして咎めるような声を聞いて、シャルルは唇を噛んで黙り込んだ。
フロレルは震える両手の指を組むようにして握りしめ、深呼吸をした。シャルルの言うことは支離滅裂だ。王妃が悪いと言ったかと思えば、フロレルが話を大きくしたなどと言う。
王妃が、まるで自分が被害者であるがごとく話を捻じ曲げていくのと同様の思考回路だと、フロレルは感じた。
シャルルは、荒い呼吸をしながらフロレルを睨みつけている。
いつの間にシャルルは、王妃と同じ行動を取るようになってしまったのだろうか。
伝えなければならないことを、言ってしまわねばならない。そう思い、フロレルはようやく口を開いた。
「殿下、あの場には、オランジュ教授がいらっしゃいました。大学院の教授が同席している状況で起きたことを、なかったことにはできないということは、まずご理解いただきたく存じます」
「……くっ」
フロレルの言葉を聞いたシャルルは、悔しそうに顔を歪めた。
シャルルもそれについては、わかっていた。わかっているのにフロレルに黙っていろと言ってしまった自覚はあったのだ。
王妃がフロレルに説教をするならば、なぜ王妃宮に呼び出さなかったのか。
そうすれば、フロレルを殴っていてもここまで大きな事にならなかったのに。シャルルは王妃がうまく立ち回らなかったことに対して憤りを覚えていた。
「そして、最初に申し上げたように王妃殿下の予算については、ショコラ公爵家の与り知らぬことでございます。ペシェ宰相閣下にお話されるのが賢明かと思われますが」
「しかしフロレルっ!」
「シャルル殿下、午後からの授業が始まります。教室の方へ移動を」
午後の授業開始五分前の鐘が鳴り響き、シャルルの護衛騎士が空気を読んだように主に声をかける。
「チっ! フロレルっ! とにかく母上の予算のことは何とかせよ!」
「は?」
シャルルは、王子らしからぬ舌打ちをしながら捨て台詞を吐く。そして席を蹴るようにして立ち上がり、部屋から出て行った。
とにかくこの場は、こうやり過ごすしかなかっただろうとフロレルは考えた。しかしながら、シャルルがあのように話が通じなくなっているとは、フロレルは思っていなかった。
フロレルは立ち上がってシャルルを見送った後。ふらりと体を揺らす。慌てて抱きとめるアントワーヌの腕の中に、フロレルはすっぽりと収まった。
「義兄上、今日はもう学園は早退しましょう」
フロレルはアントワーヌの言葉に頷き、体勢を立て直そうと彼の胸を押した。しかし、次の瞬間、フロレルは自分の身体がふわりと浮くのを感じていた。
そう、アントワーヌがフロレルを抱き上げたのだ。
「アントワーヌ……!」
「義兄上、このまま馬車までお運びします。本日は、義父上から義兄上のことを任されておりますので」
「お父様が……」
「はい」
「……そうか、ありがとうアントワーヌ」
ジョゼフの命だと聞いたフロレルは、アントワーヌの首に腕を回すと、肩にそっと頭を預けた。
フロレルは、自分を難なく抱き上げるアントワーヌを頼もしいと思った。しかしフロレルの心の中では、それを寂しいと思う気持ちの方が勝っていたのだ。
可愛いアンヌはもういないのだと。
どうしてそのことばかりを考えてしまうのか。フロレルは自分で自分の気持ちを持て余していた。
アントワーヌは、フロレルから離れたかと思うとこうして優しくしてくれる。だけど、それはジョゼフの思惑を察してフロレルに対しているだけなのかもしれない。アントワーヌが何を考えているのか、フロレルにはさっぱりわからない。
もしかしたら、アントワーヌはジョゼフの命を受けて動いているだけなのかもしれない。
アントワーヌの気持ちがわからないから、フロレルは自分の気持ちを持て余しているのだろうかとも思う。
身体はこんなに近くにあるのに心は離れたままだ。
フロレルはそんな風に考えながら目を閉じた。
密着したフロレルから、ヴァニラのような香りが立ち上り、アントワーヌの鼻孔をくすぐった。アントワーヌはそれを感じながらも無表情にフロレルを運んでいく。そのアントワーヌの心の葛藤を、フロレルは知る由もない。
ショコラ公爵邸に帰って休憩してから、フロレルはジョゼフに面会を申し込み、シャルルに問われたことをそのまま伝える。もちろん、アントワーヌも同席していた。
ジョゼフの執務室にある黒い皮のソファに座るフロレルは、いつもより小さく見える。それだけ憔悴しているのだ。そう思うと、ジョゼフの胸の中にある王妃とシャルルに対する怒りに燃料が投下されて燃え上がっていく。
そしてジョゼフには、王妃宮の予算が減ったのだと王妃とシャルルが思い込んでいることについて、心当たりがあった。
「なるほど、王妃殿下は我が家からの資金をご自分用に流用しておられたのだな」
二人から話を聞いたジョゼフは、ミルクを入れてから注がれた濃い紅茶を飲み、そう呟いた。
王妃の手元から高級な茶葉や菓子がなくなったというのは、それがショコラ公爵家から出ている伴侶教育のための資金で購入されていたからだろう。
本来、王子の伴侶になるための教育資金は、国家予算から捻出される。しかし、教育担当者、例えばオランジュ教授などが求める特別な資料に係る費用などは、ショコラ公爵家が援助していた。
王子の伴侶の教育は、王妃宮の管轄である。従って、教育担当者に支払われる報酬以外に係る経費、資料代や接待に係る費用は王妃宮の予算から捻出される。しかし、王妃宮の予算はあまり潤沢ではないうえ、母国であるラッテ王国からの支援金が引き出せない王妃はその資料代を出せないと言ってショコラ公爵家に資金援助を求めていたのだ。
フロレルが受ける教育のためであるから、ショコラ公爵家は教育資金を援助していたのだが、王宮での教育時間が減ったため、ここ数か月はその金額もそれに伴って減っていた。
それに加えて今回の事態である。
ジョゼフは今後王宮での教育でまだ残っているものがあればショコラ公爵邸で行うと国王に伝え、援助資金を引き揚げたのだ。
もちろん、それについては宰相府で速やかに手続きをされた。
「資金はかなり潤沢になるようにしていた。余った資金が王妃殿下の贅沢品に変わったのも知ってはいたが……。それが当然の、自分用の予算であると思っていたとはな……」
ジョゼフは残念そうにそう言うと、ヴァニラクリームの入ったチョコレートを口に入れた。
これまでのようにはいかないと、王妃には自覚してもらわねばならない。ジョゼフは口の中でゆっくりとチョコレートを溶かしながら、王妃にとことん思い知らせるにはどうしたら良いかと考えを巡らせた。
「お父様、それについての説明はわたくしからシャルル殿下にすべきでしょうか?」
「いや、わたしから陛下にお話しよう。ペシェにも伝えておくから、フロレルは心配しなくて良い」
ジョゼフは微笑を浮かべると、小さな子どもを相手にするようにフロレルの頭を撫でた。
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