さようなら、私の愛したあなた。

希猫 ゆうみ

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三章

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「あなた、まさか……クレアに何をしたの……!?」

チェルシーが恐怖を口にした時、ソレルは高らかに笑った。

「あはははははッ!やっぱり、楽して生きてる貴族様は馬鹿ね!私が何も備えていないと思ったの?こっちは命懸けなのよ!」

どういう事?
いったい、何をしでかしてくれたと言うの?

「ソレル……!」

ウィリアムズ侯爵が呻った。
母親に支配され、見下した愛人には出し抜かれ、全く以て情けない。これほど情けない男が上級貴族の血筋に甘んじた只それだけのことでファロンとチェルシーを傷つけたのだと思うと、本当に許せない。

でも、正直、今、ウィリアムズ侯爵はどうでもいい。
どうせ何もできない。

「クレア様に婿を取らせる?無理ですよ!だってもう、人買いに売っちゃったんですから!!私のここしか希望はないの!私の勝ちよ!!」
「……いやああぁぁぁぁッ!!」

チェルシーが絶叫した。
それから、混沌が訪れた。

頽れて慟哭を上げるチェルシーをファロンが抱きかかえ支えていた。
イヴリンはソレルに襲い掛かった。
周りの貴族が、ソレルの発言を真に受けて、未来のウィリアムズ侯爵を宿したと嘯くその肉体を守る。
マルムフォーシュ伯爵が捜索を指示する。
ウィリアムズ侯爵は呆然と立ち尽くしている。

ソレルの高笑いが響いていた。
チェルシーの慟哭と絡み合い、絶望が際立つ。

「……!」

私は走った。
誰の目にも留まらないでほしいと願いながら走った。走って、広間を出て、廊下を走り、出来る限り喧噪から離れた。でも一刻を争う。時間はない。

廊下を曲がり、暗がりに身を潜める。そして胸元のペンダントを握りしめて叫んだ。

「お願いします……!助けてください、ユーリア様!!」
「どうしたの?」

背後から声がして、白く冷たい手が私の二の腕に添えられていた。

「────ぅおあああああああっ!!」

我ながら、凄い悲鳴がまろび出た。
ついでにちょっと涙も出た。

「えっ、どっ、どうしたの?カタリーナ?」
「ひっ」

何か理解の及ばないことが起きるだろうと想像していたけれど、もう少し段階を踏んで姿を現すものだと思っていた私は、非常事態であるにも関わらず腰を抜かしその場に崩れ落ちた。

「カタリーナ!?」

心配した様子のユーリアが黒い疾風となり前へ回り込んできて、同じく膝をつき、更には顔を覗き込んでくる。ヴァンパイアの特殊な力を使って出現したからなのか、小柄で童顔の美女という見た目とは言い難い姿の方のユーリアだった。

白すぎる肌、白髪白眼。
それで心配そうに眉尻を下げられても、断然、恐怖が勝つ。頼ろうとしたのは私自身だけれど、ユーリアは私の思考が及ばない場所で生きている。
恐がらない努力はできるだろう。するべきだった。只、その努力を奮い立たせるところから始めなければいけないし、今の私にはその元気はない。

併し、私は全ての理性を手放したわけではなかった。私が自らの意志で助けを求めた。弁えるべきだ。

「あ……、ぉ、お越しいただき……ありがとうございます……っ」
「いいのよ。呼んでと言ったでしょう?何があったの?可哀想に、こんなに震えて」

……震えているのは、ユーリアが恐かったからだけれど……さすがに言えない……

「あ、ごめんなさい。私が恐がらせてしまったのね」

バレた……

「わかった。出直すわね」
「……、!」

ユーリアが霧となって消えた。
そして一拍置いてから、廊下の曲がり角からひょっこりと顔を出した。愛らしい、童顔の美女に見える方の姿だった。

「ごきげんよう、カタリーナ」
「……」

辛い。

「カタリーナ!カタリーナ、どうした!?無事か!?」

広間の方から声がして、見るとマルムフォーシュ伯爵が走ってくる姿があった。安堵感と意味のわからない怒りが湧き上がる。
なんというか、全て、あの人のせいなのよ。ユーリアについては。

「カタリーナ……!」

暗がりで蹲り震えて泣いていた私に覆いかぶさるようにして、マルムフォーシュ伯爵は切迫した様子で傍らに跪いた。それから私の肩を掴んだ。温かな手の温もりに、またもや安堵させられて悔しかった。

「ドグラス、いったい何があったの?あと、ごめんなさい。呼ばれたのが嬉しくて、勇んで来たらカタリーナを恐がらせてしまって。たぶん、泣かせてしまったのは私なの」
「ああ……そうか、よかった」

よかった?
何が?

「ユーリア。力を貸してくれ」

言いながらマルムフォーシュ伯爵が私を抱き寄せた。不服なのに安堵感に包まれる心を理性で律し、私は深い呼吸を繰り返す。

泣いている場合ではない。
今、クレアとチェルシーを救わなければ。

「ええ。勿論よ。どうしたの?」

度々そう尋ねてくれていたユーリアに、マルムフォーシュ伯爵が全て説明してくれた。

「わかったわ。クレアを探せばいいのね」
「間に合うか?」
「両親に会わせて。匂いを辿れば、すぐ見つけられると思う」

匂い。
体臭という意味ではないだろう。きっと、血の匂いを辿るのだ。それからあの黒い疾風となって、一瞬でクレアを見つけてくれるはず。

只の人間である私には、無事を祈ることしかできない。

マルムフォーシュ伯爵が私を抱き上げ、ユーリアを伴って広間に戻った。その瞬間、時空がうねり、歪んだ。
視界が昏い霧に覆われる。
音が消え、凍てついた風が抜き抜ける。

誰もが皆、呆けたように、宙を見ている。

「……これが、幻術……?」
「恐いなら、肩に顔を埋めていろ」

呟きは低く、優しかった。
私は目を逸らさなかった。前とは違う。今度は、マルムフォーシュ伯爵に抱き上げられていた。確かな体温に触れていた。しがみついていれば恐怖は半減すると身を以て知った。

マルムフォーシュ伯爵の首に腕を回してしがみつきながら、ユーリアがゆっくりと歩みを進める後ろ姿を見つめる。
髪色が変わった。
チェルシーが醒め、気づいて震えた。次いで、ファロンが醒めて瞬時に事態を把握し強くチェルシーを抱きしめた。この空間で私たちだけが目覚めていた。二人にマルムフォーシュ伯爵が声をかける。

「全て夢だ。クレアを迎えに行こう」

ユーリアが、チェルシーの前に跪き、体の匂いを嗅ぎ始めた。私の早とちりで、体臭を辿るのだろうか。ファロンが恐れながらも警戒している。それでも、ユーリアに押し退けられると素直に従った。
チェルシーの瞳が恐怖と困惑で揺れていた。でも、それも、真実に気づくまでのことだった。

「ヴァンパイア……?」

私にはユーリアの後頭部しか見えないけれど、チェルシーは確かにユーリアと見つめあった。それから、嘆くことをやめた。

「クレアを探してくださるのね。どうぞ、必要なら私の指でも耳でも持って行ってください。あの子を見つけて……!」
「……」

ユーリアは言葉では答えなかった。代わりに、そっとチェルシーの痩せた手を取り、静かに手首に口を寄せた。チェルシーが一瞬だけ顔を顰める。噛まれたようだ。けれど、いつかのラルフ卿のように長く吸引するわけでもなく、ユーリアは咬傷から流れた血をぺろりと舐めて終わらせた。

次は父親の方だった。

宙を眺めたまま呆然と立ち尽くしているウィリアムズ侯爵の方を、首を擡げて見上げる。眼前に立ったユーリアがウィリアムズ侯爵を目覚めさせる。
その瞬間、ウィリアムズ侯爵が大粒の涙を溢れさせ、泣き崩れた。

「クレア……!」

今更、と……思わなくもない。
不道徳な父親の、誰の為にもならない後悔の涙など、有難くもなければ美しくもない。

それでも……一切の愛情も、関心さえもないよりかは、ましなのかもしれない。

ユーリアはウィリアムズ侯爵の涙を雑に指で拭ってそれを舐め、次の瞬間、黒い疾風となってソレルの前に現れた。腹部に鼻先を寄せ、険しい表情で白眼を剥いている。見えてしまえば、恐いのは事実だ。
そのままユーリアは消えた。昏い霧も霧散した。

「キャハハハハ!」

ソレルの高笑いと喧噪が戻ってくる。イブリンの怒号が轟く。そういえば、ユーリアはクレアの祖母にあたるはずのイヴリンには接触しなかった。そこに深い意味があるのか、ないのか。今は確かめようがなく、この際、些末な問題なのかもしれない。

「立てるか?」

マルムフォーシュ伯爵の声には、不必要なほど優しさと労わりが込められていた。それを耳元でやられるのだから、さすがに落ち着かない。
頷いた私をマルムフォーシュ伯爵が丁寧に着地させる。少し覚束なかったけれど、私はファロンとチェルシーの元へ駆け寄った。

「カタリーナ……夢では、ないのよね」

ファロンがチェルシーの手を握りながら確信を口にする。私は、頷かなかった。夢として片付けられるなら、それがいいような気がしたから。ただ、ファロンとチェルシーが何を信じるかまでは、私の意志の及ぶところではない。

フォーシュバリ侯爵家の新婚夫婦が、ハネムーンの道すがら迷子を保護したと言ってウィリアムズ侯爵家に現れたのは、それからほんの数分後のことだった。
マルムフォーシュ伯爵が、チェルシーとクレアの再会を誰にも邪魔させないよう動いてくれた。
幼過ぎるクレアが恐怖や悲しみを忘れて成長できることは、不幸中の幸いと言えるだろう。

マルムフォーシュ伯爵はイヴリンの幽閉をウィリアムズ侯爵に命じ、充分な慰謝料と共にチェルシーと離縁するのであれば便宜を図ると提言した。
ウィリアムズ侯爵は従順だった。
チェルシーはクレアと共に、ファロンに守られながら最も安全な場所である生家マッカラーズ伯爵家へと旅立った。マルムフォーシュ伯爵は、クレアのウィリアムズ侯爵家の相続及び継承権を保持させると約束している。

ソレルは誘拐の罪で逮捕。
連行されるのを見届けた頃には、私の頬の腫れもすっかり引いていた。マルムフォーシュ伯爵と私もウィリアムズ侯爵家を後にした。
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