さようなら、私の愛したあなた。

希猫 ゆうみ

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六章

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サルヴァゲートの門を潜った瞬間、夕焼け空に花火が上がった。
お祭り騒ぎとは正にこのことで、私は数えるほどしか目にした事が無かった花火の、それもいちばん派手なものを仰ぎ、思わず歓声をあげていた。

「わあ!凄い!綺麗だわ!!」
「君の方が綺麗だよ!」
「煩い!」
「綺麗綺麗綺麗!俺のキティの方が綺麗!」

マルムフォーシュ伯爵と腕を組んで賑やかな歓楽街を歩き回る。
何もかもが初めての体験で、私はすっかり密偵の助手という立場を忘れて燥いだ。私がどれだけ燥いでも、同じくらいか、その倍の勢いでマルムフォーシュ伯爵が燥いでくれる。楽しかった。

完全に遊びに来ている。

「あ、伯爵!あれ、食べてみたい!」
「いいぞ。キティに粗野で野蛮な味を教えてやろう」
「そんな、失礼を言ってはいけません。パッテンデン侯爵がおかしな食べ物の提供を許すはずありません」
「箱入り娘も今日で終わりだな。飛び出せ!」

などという刺激も味わいながら、サーカスを観たり、花びらの形のキャンドルが浮かぶ人工の池をボートで流されたり、生まれて初めて射的をしたり、妖しい占い師に前世は砂漠の宮殿の巫女と言われたり、珍しい布を売りつけられそうになったり、ドレスとは言い難い薄さの衣装をすすめられたり、二度目の花火に見惚れたり……

「キティ。あの店で好きなものを選べ。買ってあげる」
「?」

本当にお揃いのジュエリーを選ばされたり。

「一年、これで我慢しよう。なかなかいい」
「伯爵……」

マルムフォーシュ伯爵の小指と、私の小指。
シンプルなデザインながら希少な宝石アレキサンドライトがあしらわれている。光源で色の変わる珍しいこの宝石は、昼はエメラルド、夜はルビーに似た輝きを放つ。

「これならユーリアのペンダントとも色が合うし、小ぶりだから丁度いいだろう」
「丁度って……」
「パッテンデン侯爵はいい加減な商売は許さない。一級品だ。安心していい」
「いえ、その心配ではなくて……」
「ああ、その心配か。勿論、俺からの贈り物だよ」

たぶん違う。
親戚の新国王からいただいたお小遣いで買ってもらったのかしらなんて心配はしていない。そんな人ではないのはもう理解している。

単純に、旅先の興奮に任せて買うには高価すぎだ。

確かに、何かしらこれ綺麗と言って一目散に手に取ったけれど、そんなつもりじゃ……。

併し、言い訳しようにも、もう済んでしまった。
唖然としている間に取引が済み、私たちの小指に収まってしまったのだ。

「俺を、忘れるなよ。離れていても」
「え?お出かけですか?」
「いいや。いくら俺でも、四六時中、傍にいられるわけじゃないから」
「まあ、基本的には、伯爵といない時は親元におりますけれど」
「俺もオースルンド伯爵家に住もうかな」
「いえ、それはおかしいでしょう」
「父上とは結構うまくやれていると思うんだけどな」
「父は誰とでもうまくやれます。第一、考えてみてください。お忘れかもしれませんけれど、マルムフォーシュ伯爵と私たち親子では格が違い過ぎて……」

マルムフォーシュ伯爵の手が頬に触れた。

「……」

煌びやかな夜の街では、誰も、他人など気に留めない。
私たちはよくいる恋人たちとして自由に振舞う事ができる。誰も咎めない。

マルムフォーシュ伯爵が私の目を覗き込んだ。

「俺たちの間に、何がある?」

低く囁く声に、いつもとは違う甘さがあった。

「これは……」

恋人のふり。
私は、私の理性を繋ぎとめる。

でも以前とは違う。
マルムフォーシュ伯爵の優しさも、甘さも、私は拒まなくなっている。寧ろ、喜んで享受するようになっていた。

だから、こんなふうに、頬に触れて瞳を覗かれ囁かれては、鼓動が……高鳴ってしまう。

「カタリーナ。俺は、君を──」

三度目の花火が上がった。
激しい音と歓声がマルムフォーシュ伯爵の囁き声をいとも容易く掻き消したけれど、私はその唇が形作る言葉の意味を理解してしまった。

愛している。

言葉が正しい意味を持って私の中に入って来たとき、私の心が熱く波打った。熱い波は全身に広がり、私は思わず、自らの手で口を押えた。

恥ずかしい。
こんなにも喜んで、照れている自分が、あまりにも恥ずかしい。

ところが、その空気を一変させたのはマルムフォーシュ伯爵だった。それまでの甘さも、真剣さも、一瞬で隠されて、マルムフォーシュ伯爵はやや他人行儀に私の肩を抱いた。

「?」

そして戸惑う私に何の説明もなく暫く歩くと、やがて見知らぬ紳士と挨拶を交わした。
私はすぐに察した。各地に散らばるマルムフォーシュ伯爵の部下の一人が、人ごみに紛れて何某かの報告をするために接近したのだ。普段であれば、私に配慮する形で距離をとっていた。けれど今夜のような場所ではそうもいかないのだろう。

私は俯いて、出来るだけ無であろうと努める。
そうしているうちに、マルムフォーシュ伯爵は部下と思しき紳士から一冊の詩集を受け取り、他愛ない短い挨拶で会話を締めた。そして、其々が背を向け合いまた歩き出す。

少し進んだ辺りでマルムフォーシュ伯爵がいつもの私を甘やかす顔になり、眉尻を下げて言った。

「ご免な。急を要する相手だったから」
「いえ。私のことはお気になさらず。邪魔にならないよう大人しくしておりましたけれど、ご迷惑ではなかったですか?」
「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」

マルムフォーシュ伯爵は私の頭をよしよしと撫でて、派手なゴンドラを指差す。

「あれに乗ろう」

仕切り直しという意味らしい。
助手の分際で余計な気を遣わせてはいけないので、私も快く応じた。

「よかった。歩いて回るには、些か広すぎますものね」

こうして遊んでいるふりの建前でその実しっかり遊んだ夜が更けてゆき、豪勢な宿できちんと二部屋に分かれて五日間滞在してから、到着時に立てた計画通り、しっかりと日の沈んだ夜にサルヴァゲートを発った。

少し離れた場所から眺める王国きっての歓楽街は、特別、煌めいていた。
どこか毒々しさも感じる背徳的なサルヴァゲートには、実際、マルムフォーシュ伯爵の手で摘んでおくべき芽があった。収穫は、七つ。

私にとっても、価値のある冒険だった。

それでも……私の小指に繋がれた、お揃いの宝石。それが心にどっしりと住み着いて、常に意識の片隅に在り続けていた。

マルムフォーシュ伯爵は、私を甘やかす。
私を大切にしてくれている。

私は……私は、まだ、答えを求められてはいない。もし明確な答えを求められることがあったなら、私は、どう返すだろう。
わからない。

身分が違い過ぎる。
助手として、節度を弁えるべきだ。

それに……また、いつか失うのが恐い。

マルムフォーシュ伯爵との楽しい満ち足りた時間を維持できるなら、何もそれは、王家の密偵とその助手という関係以上のものでなくてもいい。
対外的に公の関係を表明する必要があるなら、甘んじて受けよう。断れる立場ではない。

でも……私の心には、もう、嘘ではない気持ちが芽生えてしまっている。

どうするのが正解だろうか。
助手として己を律するべきか、心のままにマルムフォーシュ伯爵との将来を願うか。許されるなら、どちらも欲しい。

王家の密偵の助手としての自分も、只マルムフォーシュ伯爵の隣で甘やかされる自分も、失いたくない。

夜を走る馬車の中で眠ったふりをしながら、私は、そんな事を考えていた。
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