初夜に訪れたのは夫ではなくお義母様でした

わらびもち

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セシリアの成長

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「避難は済んでいるの?」

「はい、教会と納屋に一時避難とのこと。ただし、食糧と薪が足りない可能性がございます。」

 セシリアは一拍の間も置かず、落ち着いた声で言った。

「厨房に言って、干し肉と保存穀をまとめさせて。薪は西棟の倉庫にあったはず。明朝を待たず、今夜のうちに届けさせましょう。馬車が通れぬなら、荷馬を出して。」

「かしこまりました。直ちに手配いたします」

「寒さもあるでしょう、毛布と薬箱も忘れずに。怪我人がいればすぐに知らせを」

 セシリアの声には一切の迷いがなかった。引き出しから地図を出し、それを机の上に机に広げ、被害の報告地に目を落とす。

「川沿いの土手はどうなっているの?」

「巡回を急がせます」

「そうして。これ以上の被害は、何としても防がないと……」

 執事は深く頭を下げ、すぐに命令を遂行するべく駆け出した。
 セシリアは一人、地図の上に両手を置き、静かに目を閉じた。夫のいないこの夜、領地を守る責はすべて女主人である自らの双肩にある。

「名ばかりとはいえ、私はガーネット侯爵夫人よ。領民の命は必ず守らなくちゃ……」

 そう小さく呟くと、雨音の中にも揺るぎない意志を瞳に灯らせた。


 その後、夜が明けるころには雨はようやくその勢いを弱めていた。
 灰色の空の向こうにかすかに金の光が差しはじめている。東の空には雲の切れ間が小さく覗いていた。

 邸の中は静かだった。夜通し走った召使いたちの足音も、いまはもう遠のいている。

 セシリアは広間の窓辺に立ち、ぼんやりと庭を見つめていた。
 昨日の激しい風雨に打たれた花々がなおも濡れたまま揺れている。けれど、それでもなお根を張り、朝の空気に応えようとしているように見えた。

 深夜、領地の使いから次々に届いた報せを受け、指示を出し続けた彼女の瞳には、疲れが隠せなかった。
 それでも顔に浮かぶのは、不安ではなかった。無事だったという確信。踏みとどまれたという誇りで満ちている。

「皆は無事?」

 セシリアの疲れの混じった声に執事は静かに頭を下げた。

「領地の被害は最小に抑えられました。怪我人も重症者はなく、避難も整っております。奥様の采配に、村人たちは深く感謝しております」

「そう……よかったわ」

 セシリアは微笑んだ。普段は厳しく引かれた眉が、ふっと緩む。

「旦那様の便りは?」

「まだですが、先ほど街道の通りが回復したとのこと。日が高くなれば、きっと——」

 そのとき、遠くから馬の蹄の音がかすかに響いた。セシリアはそっと窓を開け、冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。道の向こうから、一台の馬車がこちらへ向かって走ってくるのが確認できた。

「そう、私は疲れたから休みます。皆にも休むよう伝えてちょうだい」

「えっ……!? あの、奥様……あれは旦那様の馬車かと……」

 執事は遠回しに「旦那様を迎えに行かなくてよろしいのですか」と問いかけているのだろう。
 だが、セシリアに彼を出迎える意思は一切なかった。

「皆には順番で休むよう指示しておいて。一晩中動いて疲労が溜まっていることでしょう。今日の仕事は手を抜いても構わなくてよ」

「え……あ、はい……。ありがとうございます」

「旦那様には、後始末をしていただくよう伝えておきなさい」

 本来なら何があったのかをきちんと説明し、引き継ぎを行うべきだということは分かっている。
 だが、一晩中張り詰めていた神経と、無事に朝を迎えた安堵が重なりひどい眠気が襲ってきた。
 正直、もう立っているのがやっとの状態だ。

「少し休んだら私も旦那様の手伝いに回るわ。今は眠くて仕方ないのよ」

「分かりました。私の方から旦那様にしっかり伝えておきます。奥様はどうぞごゆっくりお休みください」

 セシリアの眠気が限界な事を見て察した執事はゆっくりと頷いた。
 一晩中気を張り詰めて、皆に指示を飛ばしていたのだから無理もないと。

「ありがとう。お願いね」

 そう言ってセシリアは足早に寝室へと向かった。寝台に手をかけた瞬間、体が限界を迎えたように崩れ落ち、そのまま倒れ込んだ。

「よかった、領民が無事で……。それにしても、領主の代理をこなす女主人の責務というのは……こんなにも重いものだったのね」

 誰に言うともなく呟いたその声は、ほとんど自分でも聞こえないほどだった。

 何人もの領民の命がかかっていた夜。雨に沈む村、火を求める老いた者たち、震える子どもたち。
 ガーネット侯爵の名において命じ、配慮し、守ったのは自分だった。

 貴族の妻としての役目だとわかっていた。だが、それでも……自分が肩に背負っていたものが、想像よりも遥かに大きく、重く、恐ろしくすら感じられた。

 思いがけず、母の姿が頭に浮かぶ。

 家を空ける父に代わり、母もこうして緊張感に満ちた夜を越えていたのだろうか。

 父が遠征に出ていた冬の日。まだ幼かった子供たちに心配をかけまいと、邸のことを一つ一つ采配していたあの背中。凛としていて、揺るがなくて、強かった……と、そう思っていた。けれど。

「……強かったんじゃない。ただ、倒れなかっただけなのね……」

 母の目に、夜中ふと浮かんだ翳りの理由を、いまになって初めて知った気がした。
 ひとりで抱えるものの静かさ。誰にも見せられない疲労。血のつながった者でさえ、気づけなかった孤独。

 セシリアはベッドに横たわり、胸元に手を当てる。拍動は静かに、けれど確かに疲れていた。
 重圧を終えた身体が、ようやく眠りに身を委ねようとしている。

「お母様……あなたのように、私も……」

 その続きを言い切ることはなかった。まぶたが静かに落ちていく。
 やがて静寂に包まれた部屋のなかでセシリアは眠りについた。
 彼女の中でひとつの時代が確かに重なり、継がれる。令嬢ではなく、一人の女主人として歩み始めた夜だった。
 たとえガーネット侯爵夫人という肩書を失ったとしても、彼女が成長を遂げたことは確かだった。

 申し訳ないが、後の処理はエリオットに任せて、体力が回復したら自分も手伝いに回ろう。
 領地の復興に向けてやることは山積みだ。これから忙しくなるだろうし、自分が倒れない為にも休んでおかねば。

 そう考えながらセシリアは眠りに就いた。後のことは領主であるエリオットに任せて大丈夫だと、彼女は疑いもしなかった。
 
 だが、それが間違いだったと気づくのは目を覚ました直後のことだった……。
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