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三十話 中堅の役割
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「くそ、坊主じゃ」
童の叫び声が聞こえる。
今川家が調達した資金の借書(借用書)の財務書状を揃えて
今川館に出仕した元実は、奥の部屋で遊んでいる龍王丸様を見かけた。
龍王丸様はいつも遊んでおられる。
御父君今川義元公が教養を身につけさせんがため、
京職人に作らせた百人一首の貝合わせを全部裏返しにして、
姫が出たら貝の総取り、坊主が出たら今まで取った貝の総返しなどという
お遊びをやっておられる。
本来は歌を詠んで上の句と下の句をあわせ、
歌を覚えるのが貝合わせの趣旨であるが、
これでは何も身に付かぬ時の無駄である。
まったく余計な事ばかり思いつかれる。
もうそろそろ七才になられる頃か。
またたく間に大きくなられた。
「おい、元実ではないか」
龍王丸様が実元をお見つけになった。
「こっちへこい」
「かしこまりました」
「女御の相手ばかりで飽いていたのだ。兵法の勉強をするぞ」
「ほう、頼もしい」
元実が喜び勇んで部屋に入ると竜王丸様の他にもう一人、同年代の童がいた。
「誰じゃこいつ」
知らぬ童が喚いた。
「そちこそ誰じゃ」
遠慮を知らぬ童であった。
「これは一宮実元というて父上の家来じゃ」
龍王丸様が隣の童に向かうて仰せになった。
「家来ではござらぬ、郎党でござる」
「家来でも郎党でも同じではないか」
「全く違いまする」
言わずと知れたことではあるが、
家来とは家に来る者。同じ今川家中であれば主君の掛け持ちをしてもよい。
郎党は代々お家に仕える者。
ただひたすら今川義元公のみにお仕えする者である。
実元が何度も言い返すと龍王丸様は元実を相手にせず、
童の方に顔だけでなく体も向けけられた。
「このように馬鹿で強情であるが、なかなか面白い奴ぞ、こいつで一緒に遊ぼう」
「恐れながらそちらは」
「うむ、伊豆守の息子じゃ」
大原資良のところの童であった。
「おい、女房ども、貝をかたづけて布団をもってまいれ」
龍王丸様が指図すると、女房たちは慣れたもので、
即座に貝を集めて片付け、布団を持ってきて座敷に広げた。
そこに龍王丸様と大原ずれの童めが乗った。
「おい、元実、ぱらかん、ぱらかんと叫びながらこの布団を引け」
「はあ、されば、その童を退かせてくださいませ、
かりにも某は今川家譜代の家臣」
「いいから早く引け、大原も降りんでよい」
「されど」
「引け」
「はい」
実元は書類を床に置き、布団を引っ張って座敷の中で円をかいた。
「ぱからん、ぱらかんと言え」
「はい、ぱからん、ぱからん」
「もっと大きい声で、はいよー」
「ぱからん、ぱからん、ぱからん」
外の廊下を歩いている他の家臣と目があった。
その者は思わず手で口をおさえ、
後ろを向いて肩をふるわせながら笑いを押し殺している。
はずかしい。
「これ、何をしておる」
それはまさしく今川義元公のお声であった。
「ははっ、龍王丸様のお召しにて、武芸のお稽古をお手伝い申し上げておりました」
「その事ではないわ。もし龍王丸の相手をするなら、
なぜたれか呼んで書状を預けぬか。
この書状には千金の価値があることはそちも分かっておろうが」
「申し訳ございませぬ」
元実はその場に平伏した。
戦費調達など大名諸侯の借用書は商人によって売買されるものである。
その値は大名が戦で勝ち、名声が轟いて大名としての株があがれば
高値で取引され、没落して諸人から見捨てられれば値が暴落する。
「あまり言いたくはないが、
最近の若い者は惰眠をむさぼり、
まことに働きが悪い。
そなたら中堅の管理職が進んで見本を見せてもらわねば困る。
寝る間は我と同じ一刻しか眠らず、
忠勤に励んでいるとは聞いているが、
ただ働く時間を長うするだけでなく、
諸事隙無く常に緊張感をもって仕事に向かうように」
「ありがたきお言葉、肝に銘じまする」
実元は床に頭をすりつけるように平伏して答えた。
実るほど頭を下げる稲穂かな。
頭を下げておれば風はその上を通り過ぎてゆくものだ。
寝る間も夜は一刻であるが、
移動する時も馬に荷馬車を付けて馬子に引かせてその上で寝、
勉強と称して奥座敷で寝、要領よくやっていた。
そうしなければ中間職の者はやっていけぬものだ。
かというて、元実が義元公を軽んじているわけではない。
義元公は清廉潔白すぎるのだ。
武士の範たらんとして誰よりもよく働いておられる。
その姿は尊敬に値する。
ただ、世の中というものはそれだけでは動かぬ。
そこを理解できぬ下々の者との間に入って調整するのが
中堅の役割であると元実は考えていた。
童の叫び声が聞こえる。
今川家が調達した資金の借書(借用書)の財務書状を揃えて
今川館に出仕した元実は、奥の部屋で遊んでいる龍王丸様を見かけた。
龍王丸様はいつも遊んでおられる。
御父君今川義元公が教養を身につけさせんがため、
京職人に作らせた百人一首の貝合わせを全部裏返しにして、
姫が出たら貝の総取り、坊主が出たら今まで取った貝の総返しなどという
お遊びをやっておられる。
本来は歌を詠んで上の句と下の句をあわせ、
歌を覚えるのが貝合わせの趣旨であるが、
これでは何も身に付かぬ時の無駄である。
まったく余計な事ばかり思いつかれる。
もうそろそろ七才になられる頃か。
またたく間に大きくなられた。
「おい、元実ではないか」
龍王丸様が実元をお見つけになった。
「こっちへこい」
「かしこまりました」
「女御の相手ばかりで飽いていたのだ。兵法の勉強をするぞ」
「ほう、頼もしい」
元実が喜び勇んで部屋に入ると竜王丸様の他にもう一人、同年代の童がいた。
「誰じゃこいつ」
知らぬ童が喚いた。
「そちこそ誰じゃ」
遠慮を知らぬ童であった。
「これは一宮実元というて父上の家来じゃ」
龍王丸様が隣の童に向かうて仰せになった。
「家来ではござらぬ、郎党でござる」
「家来でも郎党でも同じではないか」
「全く違いまする」
言わずと知れたことではあるが、
家来とは家に来る者。同じ今川家中であれば主君の掛け持ちをしてもよい。
郎党は代々お家に仕える者。
ただひたすら今川義元公のみにお仕えする者である。
実元が何度も言い返すと龍王丸様は元実を相手にせず、
童の方に顔だけでなく体も向けけられた。
「このように馬鹿で強情であるが、なかなか面白い奴ぞ、こいつで一緒に遊ぼう」
「恐れながらそちらは」
「うむ、伊豆守の息子じゃ」
大原資良のところの童であった。
「おい、女房ども、貝をかたづけて布団をもってまいれ」
龍王丸様が指図すると、女房たちは慣れたもので、
即座に貝を集めて片付け、布団を持ってきて座敷に広げた。
そこに龍王丸様と大原ずれの童めが乗った。
「おい、元実、ぱらかん、ぱらかんと叫びながらこの布団を引け」
「はあ、されば、その童を退かせてくださいませ、
かりにも某は今川家譜代の家臣」
「いいから早く引け、大原も降りんでよい」
「されど」
「引け」
「はい」
実元は書類を床に置き、布団を引っ張って座敷の中で円をかいた。
「ぱからん、ぱらかんと言え」
「はい、ぱからん、ぱからん」
「もっと大きい声で、はいよー」
「ぱからん、ぱからん、ぱからん」
外の廊下を歩いている他の家臣と目があった。
その者は思わず手で口をおさえ、
後ろを向いて肩をふるわせながら笑いを押し殺している。
はずかしい。
「これ、何をしておる」
それはまさしく今川義元公のお声であった。
「ははっ、龍王丸様のお召しにて、武芸のお稽古をお手伝い申し上げておりました」
「その事ではないわ。もし龍王丸の相手をするなら、
なぜたれか呼んで書状を預けぬか。
この書状には千金の価値があることはそちも分かっておろうが」
「申し訳ございませぬ」
元実はその場に平伏した。
戦費調達など大名諸侯の借用書は商人によって売買されるものである。
その値は大名が戦で勝ち、名声が轟いて大名としての株があがれば
高値で取引され、没落して諸人から見捨てられれば値が暴落する。
「あまり言いたくはないが、
最近の若い者は惰眠をむさぼり、
まことに働きが悪い。
そなたら中堅の管理職が進んで見本を見せてもらわねば困る。
寝る間は我と同じ一刻しか眠らず、
忠勤に励んでいるとは聞いているが、
ただ働く時間を長うするだけでなく、
諸事隙無く常に緊張感をもって仕事に向かうように」
「ありがたきお言葉、肝に銘じまする」
実元は床に頭をすりつけるように平伏して答えた。
実るほど頭を下げる稲穂かな。
頭を下げておれば風はその上を通り過ぎてゆくものだ。
寝る間も夜は一刻であるが、
移動する時も馬に荷馬車を付けて馬子に引かせてその上で寝、
勉強と称して奥座敷で寝、要領よくやっていた。
そうしなければ中間職の者はやっていけぬものだ。
かというて、元実が義元公を軽んじているわけではない。
義元公は清廉潔白すぎるのだ。
武士の範たらんとして誰よりもよく働いておられる。
その姿は尊敬に値する。
ただ、世の中というものはそれだけでは動かぬ。
そこを理解できぬ下々の者との間に入って調整するのが
中堅の役割であると元実は考えていた。
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