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三十一話 借書
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天文十三年になると井伊家家臣、小野道高から
井伊直満、井伊直義が謀反を画策しているとの密告が入った。
義元公は両人の言い訳を聞かず、即座に切腹の命令を下した。
井伊家としても家中から出た密告であるので異議の申し立てようもない。
義元公は、今川館に小野道高を呼んで、
後顧の憂いが無くなったと大いに喜びお褒めになった。
また小野道高が己の命に代えてもと嘆願した、
井伊直盛亡きあとは次郎法師に跡目を継がせるようにとの嘆願も、
井伊家中の総意で世継ぎを決めることを許すとのたまった。
これは井伊家の考え次第では女が当主となるという事だ。
少なくとも一宮元実にとっては前代未聞であった。
米の市場を開き、座を壊し、女を君主にする。
それは凡俗の身には理解を超えた所行であったが、
これこそが新しい世を作るための改革であるのだと元実は信じた。
遠州で大きな勢力を誇った堀越氏は座を取り上げられて逼塞し、
井伊家は家中の反目収まらず弱体化した。
これにてもし北条と戦っても再び遠州で謀反を起こすだけの力は両者には残っていなかった。
「井伊家にはお気の毒なれど、これで後顧の憂いが無くなりましたな」
館においでになった義元公に
父、宗是が茶など振る舞いながら言った。
最近義元公は我が家に立ち寄られる事が多くなった。
ご心労が溜まっておられるのであろう。
「いや、まだだ、北条を攻めれば必ず織田が背後を衝こう」
「ならば先に織田を攻めまするか」
「いや、ならば北条が背後を衝く」
「ではいかがなされまする」
「さて」
実元は障子越しに耳を澄ました。茶をすする音が聞こえる。
「織田信秀は土岐頼純の借書を買い集めておるそうではないか」
「はい、土岐頼純と言えば斎藤道三に美濃を
逐われて越前朝倉に庇護されている根無し草、
金を貸した商人どもも返金を取りあぐねて借書は紙くず同然の安値になっておりまする」
「その紙くず、もし土岐頼純が美濃守護に返り咲いたらなんとする」
「それは借書が法外な値につり上がりましょうが、
徒手空拳の頼純に与力する者などありまそうか。
いくら安いからと言うて、
そのような借書に手を出されれば落ちてくる
槍を手で掴むようなもの。大火傷をいたしまする」
「そうではない、そんな紙くずを何故あの用心深くく計算高い織田信秀が
買いあさっているかという事じゃ」
「あっ、もしや、織田と朝倉で美濃斉藤を挟撃せんとする
策謀でございまするか。
これなら土岐頼純にも勝ち目はございます。
早速、頼純の借書を買い付けましょう」
「違う」
「何がでございまするか」
「頼純の借書ではない。
攻められる斉藤の借書を買い集めるのだ」
「されど、いかな斉藤道三といえども、
織田、朝倉から挟撃されれば勝ち目は薄うございまする」
「さればじゃ、挟撃の件の風評が広まれば
道三の借書を買う者は減り、値段が安くなる」
「されど、美濃は遙かに遠く、我ら今川が与力することかないませぬ。
道三が負ければ借書は紙くず」
「されば、その借書を捨て金で全て朝倉宗滴に売るのだ」
「それでは当方は大損ではございませぬか」
「大損で構わぬ。斉藤が勝てば朝倉宗滴は大儲け、頼純が勝てば大損じゃ」
「しかし、朝倉宗滴ほどの者、それを受けましょうや」
「朝倉宗滴ならばこそ受ける。
頼純に美濃はまとめられぬ。
もし頼純が勝てば、美濃で内紛が起るたびに
朝倉は手伝い戦にかり出されるであろう。
その事は何より朝倉宗滴が分かっておる。
ついで、織田が敗れて衰亡すれば、
伊勢湾の海上の治安が乱れ、
東国への商いは朝倉らの北前船の廻船が増えることとなろう」
「なんと、先の先までお見越しになられたご明察、
感服仕りました。
早速商人頭の友野二郎兵衛などとも
示し合わせて斉藤道三の借書を買い占めまする」
「うむ、銭は我が出す故、心置きなく買い占めるがよい」
元実には話の内容が難しく、
理解しがたい部分もあったが、
何かすさまじき策謀が展開されている事が分かった。
はたして、天文十三年八月、
織田、朝倉両軍はかつての美濃守護土岐頼純を旗頭に美濃に攻め込み、
斎藤道三を挟撃した。朝倉軍は朝倉宗滴を総大将とし、
徳山谷を南下して九月十九日に赤坂にて斎藤軍と合戦におよび、
これに勝利した。
しかし、朝倉軍はここより動きを弱め、
あえて斎藤道三の居城、稲葉山には近づこうとしなかった。
対して初戦で斉藤軍を打ち負かした織田勢は稲葉山城まで攻め上ったが、
朝倉軍との合戦に余力を残して撤退してきた斉藤軍と
稲葉山城から撃って出た軍とに多方向から攻撃され、
敗れて多数一門衆、重臣を失うこととなった。
特に信秀が頼りにしていた弟の織田信康を失った事から、
織田軍の心情の衰亡は激しく、
織田軍はしばし身動きが取れなくなったのである。
是にて北条攻めのお膳立ては準備万端整った。
井伊直満、井伊直義が謀反を画策しているとの密告が入った。
義元公は両人の言い訳を聞かず、即座に切腹の命令を下した。
井伊家としても家中から出た密告であるので異議の申し立てようもない。
義元公は、今川館に小野道高を呼んで、
後顧の憂いが無くなったと大いに喜びお褒めになった。
また小野道高が己の命に代えてもと嘆願した、
井伊直盛亡きあとは次郎法師に跡目を継がせるようにとの嘆願も、
井伊家中の総意で世継ぎを決めることを許すとのたまった。
これは井伊家の考え次第では女が当主となるという事だ。
少なくとも一宮元実にとっては前代未聞であった。
米の市場を開き、座を壊し、女を君主にする。
それは凡俗の身には理解を超えた所行であったが、
これこそが新しい世を作るための改革であるのだと元実は信じた。
遠州で大きな勢力を誇った堀越氏は座を取り上げられて逼塞し、
井伊家は家中の反目収まらず弱体化した。
これにてもし北条と戦っても再び遠州で謀反を起こすだけの力は両者には残っていなかった。
「井伊家にはお気の毒なれど、これで後顧の憂いが無くなりましたな」
館においでになった義元公に
父、宗是が茶など振る舞いながら言った。
最近義元公は我が家に立ち寄られる事が多くなった。
ご心労が溜まっておられるのであろう。
「いや、まだだ、北条を攻めれば必ず織田が背後を衝こう」
「ならば先に織田を攻めまするか」
「いや、ならば北条が背後を衝く」
「ではいかがなされまする」
「さて」
実元は障子越しに耳を澄ました。茶をすする音が聞こえる。
「織田信秀は土岐頼純の借書を買い集めておるそうではないか」
「はい、土岐頼純と言えば斎藤道三に美濃を
逐われて越前朝倉に庇護されている根無し草、
金を貸した商人どもも返金を取りあぐねて借書は紙くず同然の安値になっておりまする」
「その紙くず、もし土岐頼純が美濃守護に返り咲いたらなんとする」
「それは借書が法外な値につり上がりましょうが、
徒手空拳の頼純に与力する者などありまそうか。
いくら安いからと言うて、
そのような借書に手を出されれば落ちてくる
槍を手で掴むようなもの。大火傷をいたしまする」
「そうではない、そんな紙くずを何故あの用心深くく計算高い織田信秀が
買いあさっているかという事じゃ」
「あっ、もしや、織田と朝倉で美濃斉藤を挟撃せんとする
策謀でございまするか。
これなら土岐頼純にも勝ち目はございます。
早速、頼純の借書を買い付けましょう」
「違う」
「何がでございまするか」
「頼純の借書ではない。
攻められる斉藤の借書を買い集めるのだ」
「されど、いかな斉藤道三といえども、
織田、朝倉から挟撃されれば勝ち目は薄うございまする」
「さればじゃ、挟撃の件の風評が広まれば
道三の借書を買う者は減り、値段が安くなる」
「されど、美濃は遙かに遠く、我ら今川が与力することかないませぬ。
道三が負ければ借書は紙くず」
「されば、その借書を捨て金で全て朝倉宗滴に売るのだ」
「それでは当方は大損ではございませぬか」
「大損で構わぬ。斉藤が勝てば朝倉宗滴は大儲け、頼純が勝てば大損じゃ」
「しかし、朝倉宗滴ほどの者、それを受けましょうや」
「朝倉宗滴ならばこそ受ける。
頼純に美濃はまとめられぬ。
もし頼純が勝てば、美濃で内紛が起るたびに
朝倉は手伝い戦にかり出されるであろう。
その事は何より朝倉宗滴が分かっておる。
ついで、織田が敗れて衰亡すれば、
伊勢湾の海上の治安が乱れ、
東国への商いは朝倉らの北前船の廻船が増えることとなろう」
「なんと、先の先までお見越しになられたご明察、
感服仕りました。
早速商人頭の友野二郎兵衛などとも
示し合わせて斉藤道三の借書を買い占めまする」
「うむ、銭は我が出す故、心置きなく買い占めるがよい」
元実には話の内容が難しく、
理解しがたい部分もあったが、
何かすさまじき策謀が展開されている事が分かった。
はたして、天文十三年八月、
織田、朝倉両軍はかつての美濃守護土岐頼純を旗頭に美濃に攻め込み、
斎藤道三を挟撃した。朝倉軍は朝倉宗滴を総大将とし、
徳山谷を南下して九月十九日に赤坂にて斎藤軍と合戦におよび、
これに勝利した。
しかし、朝倉軍はここより動きを弱め、
あえて斎藤道三の居城、稲葉山には近づこうとしなかった。
対して初戦で斉藤軍を打ち負かした織田勢は稲葉山城まで攻め上ったが、
朝倉軍との合戦に余力を残して撤退してきた斉藤軍と
稲葉山城から撃って出た軍とに多方向から攻撃され、
敗れて多数一門衆、重臣を失うこととなった。
特に信秀が頼りにしていた弟の織田信康を失った事から、
織田軍の心情の衰亡は激しく、
織田軍はしばし身動きが取れなくなったのである。
是にて北条攻めのお膳立ては準備万端整った。
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