どこまでも付いていきます下駄の雪

楠乃小玉

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三十二話 北条との合戦

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 駿河の富士川以東奪還の準備を万全に整えた義元公は
 京より聖護院門跡道増の下向を請うて
 北条氏康に詫び状を送った。

 もし、隣国と和睦をしたいのであれば
 絶対に当方より謝罪してはいけない。

 相手は当方に不利とみて要求をいくらでもつり上げてくる。

 北条も和睦に難色を示し、こちらがどれだけ譲歩してくるか要求をつり上げてきた。

 先代北条氏綱であれば今川が唐突に謝罪してくれば怪しみもしたであろうが、
 すでに天文十年に氏綱は病死しており、
 若輩の氏康にはそこまでの思慮遠望はなかった。

 相手が居丈高にでてくれは、こちらが謝罪し、
 こちらが謝罪すれば、相手はより莫大な謝罪条件を提示する。

 これは相手を油断させて攻める時に使う手段である。

 北条氏康はまだ条件がつり上がると読んだか、
 聖護院門跡道増を追い返したが、
 京都より聖護院門跡道増が駿河に帰還すると同時に
 天文十四年七月二十四日、
 義元公は兵をあげられた。

 北条方は吉原城の防備を固め、
 河の対岸で富士川を渡ってくる今川軍を
 狙い撃ちにしようと弓隊を揃えて待ち構えたが、
 後方で葛山氏元が今川方に寝返った事を知ったのであろう、
 吉原城を放棄して三嶋まで撤退した。

 このため、今川軍は易々と富士川を越えて進軍した。

 瞬く間に北条幻庵の守る長久保城を包囲した。

 北条幻庵は北条方にとって得がたい人材であるらしく、
 八月二十二日には幻庵を救うために救援の軍をしたてて攻めかかってきた。

 敵は朽ち葉色の旗指物をたなびかせた
 黒甲冑の武者揃いであった。

 旗には南無八幡大菩薩と白く染め抜かれている。

 「来たか道化の一宮」

 敵軍から声が響いた。

 顔を甲冑で隠しているので分からぬが恐らく先だって戦った孫九郎であろう。

 「ほざけ、そちらは袋の鼠よ」

 元実が叫ぶと相手も言い返す。

 「ほざけ、そちらは袋の鼠よ」

 元実はカッと頭に血が上った。

「押しつぶせ」

 元実の号令とともに実元を中心として一宮の軍勢は密集して北条軍に攻めかかる。

 敵の大将は余裕の笑顔で戦っていたが、
 伝令らしき者が駆け寄って敵の大将に耳打ちする。

 北条方の大将の顔から笑顔が消えた。

 「おのれい山猿、裏切ったな。引けい」

 北条の大将が号令をかけると北条の軍は素早く引き下がった。

 「待てい、腰抜け、臆したか」

 「この腰抜けめ笑うてやろう」

 「逃げるしか能がないのか」

 元実は罵倒のかぎりを尽くしたが、
 北条の将は一切無視して早急に撤退していった。
 元実はいままでまともに相手の言葉にかまっていた己が恥ずかしくなった。

 相手は策謀で計算した上で煽っていたのだ。こちらの罵倒は綺麗に無視する。

 しばらく夢中で追いかけていると、
 はるか後方に雲霞のごとき敵の大軍が見えた。

 それは黄色、青、赤、白、小豆色の五色段々の旗指物。
 まさしく北条氏康の本隊であった。

 「止まれい」 

 元実は叫んで立ち止まった。
 先走りすぎて周囲に味方がいない。

 敵はこちらが小勢とみて狐橋を渡って攻めかかってくる。

 ここで逃げるわけにはいかない。
 男が廃る。

 「皆の者、共にここで死のうぞ」

 「おーっ」

  郎党たちは答えて密集し外に向かって槍衾を作った。

 郎党、兵たちが答えてくれた。嬉しかった。

 敵の先鋒が突っ込んでくる。

 槍衾をぬって槍を実元の方まで突っ込んでくる。

 それを刀でなぎ払う。槍の穂先と刀が当たって火花が散る。

 後方から雷鳴のごとき馬の蹄の音が響きわたる。

 「岡部元信見参」

 岡部隊だった。

 「朝比奈の力しかと見よ」

 朝比奈泰能殿だ。

 遠州方が到着したのだ。

 敵味方入り乱れ、乱戦となった。両軍の力は拮抗し、
 いつまでも勝負は付かぬものと思われたが、
 突如として敵後方の五色段々が後ろに引き退くのが見えた。

 「何だ、何があった」

 訳もわからず実元が叫んだ。

 「関東管領山内上杉憲政公と我らとが計らって北条を挟み撃ちよ、
 すべて令兄の策謀だ、はっはーっ」

 朝比奈泰能殿が近くに寄ってこられ小気味よく笑った。

 「ゆけい、北条を押しつぶせ」

 岡部元信が叫んで突進したので、
 実元ら諸将もそれに続いて撤退する北条の将兵を
 切って、切って、切り倒した。

 武田軍はと言えば、最初北条軍を威圧するそぶりを見せたものの、
 実際には戦わず、八月十五日に大石寺に入場し、
 和睦調停が目的であるため、
 武田軍は戦わぬとの使者を今川方に送ってきたそうである。

 元実はこの武田の動きは不誠実に思えたが、
 雪斎様によると、武田がこちらにお味方しただけで意味があるとの事であった。

 雪斎様の仰せの通り、こちらの軍勢が圧倒的多数となると近隣の国人、
 小名らはこぞって今川に味方し、
 将棋倒しとなって連鎖的に北条を包囲した。

 結果、北条との停戦協定は今川有利に進み、
 今まで北条に簒奪されし駿河の富士川以東の所領は悉く今川のものになったのだ。

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