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七十話 石ヶ瀬川
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元実は駿河に赴き氏真様に信長討伐に向かわれるよう説得するため、
岡崎を発つ事を決意した。
これには関口親永殿がご同行くださる事となった。
関口殿とも長い付き合いだ。
「我が家臣となられぬか、事と次第によっては家老として取り立てよう」
松平元康殿はそう言って引き留めてくださった。
されど元実は断った。
「某が仕えるのは金輪際今川家ただ一つでござる」
「それは残念だ。もう次は無いぞ。よいな」
「ようございまする」
実元は屈託なく笑った。
仕官の誘いを断ったにも拘わらず、
元康殿は銭と馬、食料を多く下され、
旅立つ実元へ手を振って見送ってくだされた。真に心効いた御仁である。
元実は駿河へと帰還し、今川館に参上しようとしたが三浦義鎮にさえぎられ、
別室に通された。そこで、大原資良と三浦義鎮、大原の郎党多数に取り囲まれた。
「これはいかなる仕儀にてそうらわんや」
義鎮が目の前につきだしてきたのは織田の響談が配った流言飛語の書状である。
そこには一宮元実が主君今川義元公と父親を見捨てて己だけ逃げ延び、
天下に恥をさらしたと書かれていた。
しかもこの不忠者に織田信長が激怒し、
必ず成敗すると言っているという内容だった。
「これは事実無根でござる。
某は大高城に救援を呼びにまいったのでござる。逃げてはおらぬ」
「ならば何故救援が来なかったのか」
「それは、救援に向かう前に御屋形様がご落命になられました」
大高砦で縛られていたとは言えなかった。
松平元康には駿河へ帰還するさいに色々と世話になっている。
「嘘をつかれるな。大高城から援軍が出た形跡はござらぬ」
義鎮は鋭く詰め寄る。
「それよりも、氏真様にお話したき儀がござる」
「だまらっしゃい、不忠者」
儀鎮は大声で怒鳴った。
義鎮のほうが元実よりはるかに年下なのに。
一宮の家は先祖累代の家臣なのに。
しかし、義鎮は氏真様のお気に入りのご学友である。
氏真様が御屋形様とおなりにあそばしたからには大きな権力を持つ。
「今すぐ信長を討伐する兵を挙げるべきです。
今なら勝てる。信長はもう一戦する余力はござらん。
この機会を逃したら、また信長は勢力を盛り返しまする。
この好機を逃してはなりませぬ」
「御屋形様を危ない目に遭わせるわけにはいかぬ。
浅はかな言い逃れをするでない」
義鎮は明かに格下に対する言葉使いを元実にした。
怒りが腹からこみ上げてきたが、
この感情を顔に出すわけにはいかない。
表情に出しただけでも、この者は小器なので、
どんな嫌がらせをされるやもしれぬ。
我慢して頭を下げていると、頭越しに声がした。
「そなたも武家ならば見事切腹してみせよ」
「いや待たれよ、この大事の時に兵力を減らしてなんとする。
死ぬなら戦場で死ぬゆえ、
兵をお貸しいただきたい」
「君主を捨てて逃げた腰抜けが何を言うか、
ここですぐに腹を切れ。腹すら切れぬのか、この臆病者が」
「切れいでか、今川武士の心意気見るがいい」
もはやこれまで。元実は、ここで死ぬことを覚悟した。
「何をしておる」
襖の向こうから素っ頓狂な声が聞こえた。
今川氏真様であった。
「これは御屋形様、恐れ多くも
御屋形様の御父君を見捨てて逃げた不埒者を成敗せし処にてございまする」
「父上を置いて逃げたなど、
今生きている今川家臣のほとんどであろう。全部殺すのか」
「いえ、此奴は特別に不埒ゆえ、成敗いたします。ごめん」
三浦義鎮は意地でもここで元実を殺す気だった。
元実はもう観念しているので、別に揺らぐこともなかった。
「誰を殺すか」
氏真公がお部屋に入ってこられた。
「あ、」
氏真様が驚きの声をあげられた。
「これはダメだぞ。馬鹿だが面白い奴故殺すな。分かったな」
「ははーっ」
氏真様がそう言うと、義鎮、資良、その郎党が一斉に平伏した。
己等の力の源泉が氏真公であるとよく知っている所行だ。
氏真様のおかげで命拾いをした。
一方松平元康は、今川氏真様が仇討ちの兵を挙げぬことが
決定的になったと知るや、自ら兵を挙げ、
松平家単独で石ヶ瀬川で織田軍と合戦に及んだ。
松平元康の援軍要請にも拘わらず、
大原資良親子が氏真公のご心労をおもんばかって書簡を握り潰したため、
松平家だけでは力及ばず、結局引き分けに終わった。
しかし、この行動は、松平元康が口先だけではなく、
真に弔い合戦をやったのだということが今川家中に広がり、
今川家臣団の松平元康に対する信任は急激に高まったのである。
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