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第15話 にゃんとも言えない視線の先
しおりを挟む学園祭当日の朝は、いつもより少し騒がしかった。
校門をくぐった瞬間から、空気そのものが熱を帯びているのがわかる。廊下には色とりどりの装飾が吊るされ、どこからか甘い焼き菓子の匂いが漂ってくる。音楽部の演奏が遠くで軽快に鳴り響き、行き交う生徒たちの笑い声も、普段よりずっと高く、弾んでいる。
「……なんか、落ち着かないわね」
そう言いながらも、アイリスの口元は自然と緩んでいた。
「それが学園祭でしょ」
「初参加だもん、浮つくに決まってる」
並んで歩く友人たちも、同じようにそわそわと周囲を見渡している。
毎年、学園祭は“情報戦”らしい。どこが面白い、誰と組む、誰が告白した――そんな話が飛び交うのが、この時期の恒例だとか。
(みんな、恋してるんだなぁ)
そんな感想が、真っ先に浮かんだ。毎日が忙しいのに、楽しいのに、その上で誰かを好きになる余裕があるなんて、すごい。
教室に入った瞬間、にぎやかな喧騒が一気に押し寄せた。
「ちゃんと人数分ある?」
「私これにする……」
「似合わなかったらどうしよう……」
賛否入り混じる声の中で、アイリスは黒板に貼られたメニュー表を見上げる。紅茶は数種類。焼き菓子は見た目重視だけれど、材料はできるだけシンプルに。
「材料費、ちゃんと予算内に収まってるし」
「この配置なら、回転率も悪くないよね」
誰かが言うと、すぐに別の声が続く。
「無駄がないのに、ちゃんと可愛い」
「現実的なのに夢があるの、すごくない?」
気づけば、準備の手を止めたクラスメイトたちの視線が集まっていた。
「さすがヴァレリア様」
「こういう時、本当に頼りになるよね」
「……褒められてるのよね、それ?」
確認するように言うと、教室に笑いが起きる。苦笑しながらも、悪い気はしない。無駄に豪華にしなくても、楽しいものは作れる。それが、アイリスのやり方だった。
開店準備がひと段落したところで、誰かがぽつりと言った。
「……そういえばさ」
教室の空気が、ほんの少しだけ変わる。
「今日は殿下来るみたいだよ」
ざわ、と小さな波が立つ。
王族が学園祭に顔を出すこと自体は、前例がないわけではない。けれど、実際に身近なクラスの出し物に“店番”として参加するとなると、話は別だ。
そのざわめきを切り裂くように教室の扉が開き、吸い寄せられるように全員の視線が固定された。そこに立っていたのは――ギルバート・ラカル・ルクレール、その本人だった。
「……準備は順調か」
「は、はい! 順調です、殿下!」
返事が一斉に返る。その緊張感の余波で――誰かが、勢いのままに口を滑らせてしまった。
「殿下も、例の『アレ』をつけてくださるんですよね?」
その一言が、場の空気を凍りつかせた。
「……は?」
ギルバートの声が、明らかに一段低くなる。
彼の視線が、ゆっくりと黒板の端へ向いた。そこには、にこにこと笑う猫耳姿の可愛らしいイラストが貼られていた。その瞬間、アイリスは心の中で「やっぱり」と小さく笑う。
ギルバートの肩が、ほんのわずかに強張る。視線が、一瞬だけ彷徨う。表情は相変わらず鉄面皮を維持しているが、身体は正直だ。
「……そんなものは、聞いていない」
「……っ」
アイリスの喉から、思わず声が漏れた。抑えきれなかった笑い声だ。
「……何だ、ヴァレリア」
鋭い赤色の視線が飛んでくる。
「い、いえ、その……」
慌てて口元を押さえながら、それでもアイリスは正直に、直感で感じたことを口にしてしまう。
「……きっと似合うと思うの。だって、その顔、太々しい猫みたいだ……し……」
一瞬、教室の空気が凍りつく。 ――しまった、と思った時には遅かった。
「……何だと」
「ち、違います! 悪口じゃなくて! その、威嚇してる感じが……! 絶対似合うって! 」
低く、押し殺した声に、アイリスは慌てて両手を振った。言葉を探すほど、墓穴を掘る。猫耳がどうこう、ではない。猫という存在に対する、あまりにも分かりやすい拒否反応と、普段の冷静さとの落差が、どうしようもなくて――次の瞬間。
「……っ」
誰かが、耐えきれず吹き出した。それを合図に、教室のあちこちから小さな笑い声が広がる。ギルバートは一瞬だけきまずそうに目を伏せ、それから、観念したようにゆっくりと顔を上げた。
「……お前たち、そんなに笑うな、やめろ」
低い声。だが、先ほどまでの鋭い拒絶は消えていた。どこか、恥ずかしさを誤魔化しているようにも聞こえる。
「これ以上笑ったら、不敬罪を適用するからな」
その一言には少しの棘もなく、まるでおどけて見せるただの同級生のようで、張り詰めていた空気が一気にほどけた。
そして、生徒の一人から恐る恐る差し出された猫耳を、ギルバートはじっと見つめる。数秒の沈黙のあと、彼は深く、重い息を吐き「……一度だけだ」と呟いた。そして、ゆっくりと自ら猫耳を受け取る。
眩い金髪の上に黒い猫耳。
アイリスが茶化すように声をかけると、彼は「……じろじろ見るな」と太々しく顔を逸らした。その姿は、威厳があるのやら可愛らしいのやらで、クラスの緊張を一気に解きほぐしていく。
だが、問題は別の場所で起きていた。
「俺は嫌だぞ! なんで男まで猫耳つけなきゃいけないんだよ!」
給仕係の男子生徒の一人が、恥ずかしさのあまり衣装を投げ出しそうになっていたのだ。
「そんな軟派な格好、できるか!」
「でも、統一感出さないと……」
困り果てる女子生徒たち。空気が少し悪くなりかけた、その時だった。
「――失礼いたします」
そっと、男子生徒の背後に影が寄り添った。ルイだった。彼は恭しく頭を下げ、乱れた男子生徒の襟元に手を伸ばす。
「お召し物が少し乱れておりますよ。……左様でございますね、このような飾り物は、殿方にとっては気恥ずかしいものでしょう」
柔らかく、相手の不満を肯定する。
男子生徒は「だ、だろ? 分かるか?」と味方を得たように気を緩めた。
その隙に、ルイは流れるような手つきでエプロンの紐を整えながら、甘く囁くように続けた。
「ですが……こればかりは『器の大きさ』が問われるものかと、ギルバート殿下をご覧なさい」
「え? 器?」
「ええ。ただの学生がつければ滑稽に見えるでしょう。ですが、余裕のある方が身につければ、それは『遊び心』という大人の嗜みに変わります」
ルイは、手にした猫耳を丁寧に、まるで王冠でも捧げ持つかのように差し出した。
「誰に媚びるでもなく、ただ優雅に、場を楽しむ。……そんな『気高い黒猫』を演じられるのは、このクラス広しといえど、あなた様くらいではないかと」
その言葉は、甘い毒のように男子生徒の自尊心をくすぐった。鏡を覗き込むと、ルイの手によって完璧に整えられた衣装の自分が映っている。そして、背後には「あなたなら出来る」と信じて疑わない、美しい従者の姿。
「……そ、そうか? 俺なら、かっこよく見えるか?」
「もちろんでございます。むしろ、あなた様以外には荷が重いかもしれませんね」
殺し文句だった。男子生徒は満更でもない顔で「ま、まあ、そこまで言うなら……やってやるか」と、自ら猫耳を受け取った。
「ありがとうございます。やはり、懐が深くていらっしゃる」
にっこりと、ルイが微笑む。
それは完璧な「称賛の笑み」だった。無理強いするのではなく、相手を立てて、気持ちよくさせて、結果的に自分の思い通りに動かす。
「すごい……あんなに嫌がってたのに」
「さすがヴァレリア家の従者ね……扱いが上手すぎるわ」
優秀な黒猫が手の上で相手を完全に転がしている様子に、女子生徒たちからは、感嘆のため息が漏れていた。
猫耳喫茶店が開くと、予想以上の大盛況となった。忙しさがピークを過ぎ、ようやく客足が落ち着いた頃。
「アイリス、休憩入っていいよ!」
「あ、うん。ありがとう」
カウンターを離れると、当然のようにルイが歩み寄ってきた。
「行きましょうか、お嬢様」
二人は喧騒を離れ、校舎裏の静かなベンチへと向かった。ルイはハンカチを広げてベンチに敷き、アイリスを座らせた。
「お嬢様、ここでお休みください。」
「え? 一緒に休まないの?」
「はい、何か口にできるものを調達してきます」
そう言って、ルイは優しく微笑んだ。西日が差し込み、ルイの黒髪を茜色に染めている。その姿は、とても綺麗だった。
アイリスの返答を待たず、彼は踵を返し、人混みの中へと消えていった。その背中を見送りながら、アイリスはベンチに一人残り、ぼんやりと周囲の様子を眺めた。
「あの二人付き合ったらしいよ」
「学園祭で告白とか、王道すぎない?」
隣のテーブルから漏れてくる会話。恋愛。告白。特別なパートナー。
アイリスは一瞬だけ、自分でも予期せぬ思考に捕らわれた。
(ルイにも好きな子が、できたりするのかな)
次の瞬間、慌てて首を振る。弟みたいな存在。ずっと一緒にいた。そう思ってきたはずなのに。なのに、胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。
――その時。
「お疲れさま、アイリスちゃん」
聞き慣れた、どこか掴みどころのない声。顔を上げると――そこにいた。ロイド・ウィステリア。……だったのだけれど。
「……ロイド様?」
思わず、目を瞬かせる。
白衣は着ていない。その代わり、鼻にかけられているのは――青く光る眼鏡。レンズの縁が、不規則に明滅している。手には、やたら立派なステッキ。軽く振るたびに、「ピヨ!」と間抜けな音が鳴った。さらに、もう片方の手には。淡い水色の、ふわふわした綿飴。
「……その格好、なんですか」
思ったままを口にすると、ロイドは悪びれもせず答えた。
「学園祭仕様」
即答だった。
「メガネ研究部の新作だよ。光るし、視界がちょっと補正されるし、テンションも上がる」
「テンション上げる機能、いります?」
「いるでしょ」
真顔で言われて、返す言葉を失う。
「それと、この杖」
ステッキを軽く振る。
「ピヨピヨ音が鳴るんだ、意味はないけど」
「意味ないなら余計にいらないです!」
アイリスが突っ込むと、ロイドは実に楽しそうに肩を揺らした。
「でね」
彼はそう言って、水色の綿飴をアイリスの口元に少しだけ差し出してきた。
「アイリスちゃん、食べる?」
「食べません!」
反射的に拒絶すると、ロイドは心底残念そうに眉を八の字にする。
「残念、間接キスだったのに」
「っ!? な、なに言って――!」
顔が一気に熱くなるのを感じ、アイリスはベンチから腰を浮かせた。
「冗談だよ」
にやり、と悪戯っぽく笑ってから、彼は自分で綿飴を一口かじった。
「……甘いね」
これは、完全に遊ばれている。ロイドの雰囲気に飲み込まれないように、アイリスは腕を組んで睨む。
「学園祭の準備も、本番も、ずっと姿を見なかったじゃないですか」
「そうだっけ?」
ロイドは肩をすくめる。
「僕、そういうのあんまり興味ないからね」
――そう言いながら。光る眼鏡に、謎の杖。綿飴片手に、満喫している姿。
「……全然説得力ないんですけど」
「そうかな?」
ロイドは楽しそうに首を傾げた。
生徒たちのざわめきと、甘い香り。ピヨピヨと音が鳴るステッキはどこか楽しげで、これからの時間が特別なものになることを予感させる。
学園祭は、まだ始まったばかりなのだ。
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