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鶯音を入る
第六十九夜
しおりを挟む「………………聴く?」
と尋ねたのち咳払いをした彼女は、どう見ても歌う準備に取り掛かっている。
「ここでですか? ……じゃあ、そうですね。目が覚めそうな歌か……コテコテのラブソングを」
別に歌えと催促していた訳ではないが、有り難い申し出に乗らない手はないだろう。
失礼ながら彼女の歌のタイトル一つ知らない体たらくなので、聴きたいテイストを図々しくリクエストした。
「……ん、わかった。それじゃ、聴いてください。『横顔』」
慣れない敬語のアテンドで、人口が可視化され始めた街がステージに切り替わった。
==============
右奥から二個目のカウンター席
マスターと話す横顔
視線の先に居られるなら
誰かの名前の付いたボトルに
なっても良いかな
==============
(……ド直球なラブソングだけど、舞台バーだよね? 朝っぽさはないけど。めっちゃ夜……というか、『右奥から二個目のカウンター席』って、私がよく座ってる席…………!)
彼女が口ずさんだのは、馴染みのない歌だった。
(作詞作曲は誰? ……作詞、紅さんだったりしない?)
恐らく、初めて聴いた歌。彼女が『マダム・ルージュ』名義で発表している歌。
(鼻歌レベルの歌なら何回も聴いてるけど……。やっぱり、軽く歌ってるだけなのに上手いなあ…………)
軽く手拍子をして聞き惚れていたら、矢庭に辺りが騒がしくなった。
「…………集まっちゃいましたね、人」
辺りをざっと確認しつつ、隣の彼女に小声で話し掛ける。
騒がしくなったとは言ったが、混沌としている訳でも大音声を上げる人がいる訳でもない。
私達から少し離れた場所から、こちらを見てひそひそ話していたり、許可も取らずにスマートフォンを構えていたりする人がいるだけだ。
――――悲しいかな、私達を取り巻くどれもが、見慣れてしまった光景だ。
自分以外の人間を無料の素材だと勘違いしている最低限のモラルさえない人間も、少し目立った行動を取る人がいると忽ち攻撃態勢に移ったり冷笑に走ったりする無個性な人々も。
(日傘差しててくれて、良かった。……もしマダム・ルージュが人気絶頂の歌姫になる未来が来たとして……女二人が並んで歩いてた所で、スクープにもならないだろうけど)
「集めちゃった…………の?」
だが、心に起こった落胆も憤りも、驚いたような、喜びが隠し切れていないような純粋な問い掛けに破られた。
「……ふ、ふふふふふ……。何驚いてるんですか? ライブの時は、もっと大勢のお客さんの前で歌うんでしょう? マダム・ルージュは」
「アタシは良い。けど、翠は…………」
「ああ、なんだ。私の心配ですか。…………まあ、確かに目立つのは好きじゃありません。でも、紅さんが人気者になるのは大歓迎です。その二つ、天秤に掛けたら、圧倒的に紅さんが人気になる方が大事だし、嬉しいです。私としては」
「でも、プライベートだし」
「それはそうですね。芸能人だからなんて理由で、業務時間外もファンの対応に追われるなんてたまったもんじゃないでしょう。……でも、今回は良かったかもしれませんよ? 現時点でも、紅さんの歌声にはこれだけの集客力があるって事がはっきりしたじゃないですか。……売上以上にあるのかもしれませんよ、需要。売れない売れないって言ってますけど、案外、事務所のプロモーションが足引っ張ってたりして」
「…………ありがと、翠」
「はい。あと、ここまで日傘、ありがとうございました。……それじゃ、追加のピアッサー買いに行きましょう」
建物の入り口で提案した時、人々の関心はすでに手元のスマートフォンに移っていた。
或いは、既にこの場を去って、目的地へ旅立っていた。
「ん。ついでに、ピアスの下見もしない?」
「良いですね! しましょうしましょう!!」
建物の影に入ってから日傘を閉じた彼女に着いて、容赦ない日差しから逃げるように自動ドアに吸い込まれた。
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