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薄翅蜉蝣
第十五夜
しおりを挟む「ただいま」
水や火を扱っていなかったからというのが大きな理由ではあろうが、玄関に近い台所には、しっとりした声がよく聞こえた。
「おかえりなさい」
顔を上げると、目線の先に彼女がいた。
言っておくが、『多分、帰る頃には何ともない』なんて強がりを鵜呑みにしていた訳ではない。
しかし、数時間ぶりに会うその人は出発した時よりもどんよりした空気を背負っていて、時間が朝に逆戻りしてしまったかのようだった。
ただ、これは勘……というか主観の域を出ないが、『不調の原因が全く別の物に置き換わっている』ような奇妙な確信も同時にあった。
体調が完全に回復した訳ではないとしても、その大部分が肉体面に由来する物ではないような。
空はまだ若干明るいせいで錯覚しそうになるが、彼女が家を出てから帰ってくるまでの間に何が起こっていたとしても不思議ではない。
「手伝う事、ない?」
だが、彼女は訊いてもいないのに今日の出来事を語り始めるでもなく、台所に入ってきた。
いつものように『派手なワンピースを着せられた可愛いトイプードルがいて、撫でさせてもらった』とか、『帰り道での出来事でしょう』とツッコミを入れたくなってしまう話を聞かせてほしいのに。
手を洗った時、鏡で自分の顔をちらとでも確認しただろうか。
無理に張り付けた笑顔は遠回しの拒絶みたいで、綺麗な形のキスマークを穴の開くほど見つめても、今は寂しさが募るばかりだ。
「あ、じゃあ……このへん盛り付けてってもらえると助かります」
――――ああ、私は思い違いをしていたのかもしれない。
と、食器棚から出しておいたお洒落な――しかし、何も載っておらず、空っぽの――数枚の皿に視線を落とし、唐突にそう思った。
『開いてしまった/元々開いていた穴が寂しい』のではない。
『寂しいから、穴を開けたり増やしたり。あるいは、開い(てい)た穴に執着してしまったりする』のかもしれないと。
初めてこの家に足を踏み入れた時に彼女の耳に開いた穴が寂しく見えたのも、身体に開いた穴を埋めてくれる男を探していたのも、私が穴ばかりを見ていたせいだ。
穴以外を見ていなかったせいだ。
「どれにどれ盛るとかも全部お任せしちゃって良いですかね?」
「ん。わかった」
悲しい気付きを追い払うように追加の指示を出すと、彼女は笑顔のままで答える。
遮る髪もぶら下がるピアスもない耳は――――やはり、寂しげに私を見つめ返していた。
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