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第5錠
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――信じられない! あなた男の子なのに、女の子より男の子が好きって言うの!?
母親の切り裂くような声がする。色を失った唇が、ぶるぶると震えるのを見ていることしかできない。なにか言いたくても、なにも言えない。言葉はすべて喉元で詰まって、出ることが許されない。
喉が締まって、息が苦しくなって――目が覚めた。
真っ暗闇に、時計の秒針の音がカチカチと響いている。思わず両手で顔を拭う。汗でびっしょりだ。
純平は寝転んだまま、枕元に置いていたスマホをタップした。時刻は午前二時。薬を飲んで、眠りに就いてからまだ二時間しか経っていない。
もう一度、すぐに寝つける気もしなくて、ふらふらと立ち上がりキッチンへ行った。冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、一気にあおる。冷たい液体が喉から胃へと流れていく。
母親の夢を見るのは久しぶりだった。最近はずっと会社に遅刻する夢とか、上山に怒られている夢とか、そんなものばかり見ていたから。まだ自分の心に、あの日のことが巣食っていることに驚かされた。
眠気はすっかり吹っ飛んでしまった。それに上手く寝つけたとして、夢の続きを見るのは嫌だった。
ぼんやりとした闇の中で、玄関のほうへ目を向ける。カーテンの外はしんと静まり返っていて、時折車の通る音が聞こえるだけ。
純平は部屋着から手近な服に着替えて、ランニングシューズを履いた。スマホと財布、それに家の鍵だけをポケットに突っ込んで家を出る。
昼間とはちがう、ひんやりとした静かな空気が身体を包んだ。人通りはなく、街灯の下にぽつんと自分の影が落ちている。一歩踏み出すごとに、ざわざわとしていた身体の内側が、徐々に落ち着いていくのを感じる。
純平は明るいほうへ、駅前を目指して歩き出した。特にやりたいことがあったわけではないし、駅前へ行きたい理由があったわけでもない。ただ、街灯の明かりしかない薄暗い住宅街を歩くよりは、多少明るい駅前を歩いたほうが気分が晴れるのではないかと思っただけだ。
駅前に行くと、人通りもすこし増えた。固まって歩いている大学生くらいの若い集団、明らかに飲み過ぎと思われるサラリーマンたち、道端に佇み、タクシーを待っている女性。それぞれに、それぞれの人生があるのだと思うと、自分の悩みがちっぽけに思えてくるようだった。
家にいる時は絶望的な気持ちだった。薬を飲んでも二時間しか眠れなくて、眠ったとしても嫌な夢を見そうで。しかし街に出てくるとこんなにも人がいる。ここにいる人はまだ寝ずに活動している。寝れないことに罪悪感を抱いたり、焦りを抱いているようには見えない。
「あれ、佐野さん?」
ふと、誰かに名前を呼ばれた気がして、純平は来た道を振り返った。遠くでパッと手を挙げた人物を見て、純平も思わず手を挙げる。
「やっぱり佐野さんだ。こんばんは」
こちらに歩み寄って来ながら、水瀬は夜に似つかわしくない明るい挨拶を交わした。薬局にいる時とはちがい、マスクはしていない。薄い唇から白い歯が覗いている。それに耳元。薬局にいた時はなかったはずのピアスがいくつか開いている。決してジャラジャラしているというわけではないが、数はかなり多い。
「俺、ここで抜けるわ。じゃあまた来週なー」
水瀬が後ろを振り返り、大きな声で誰かに話しかけた。すこし遠くのほうで「おう」とか「またな」とか、それぞれの返事が聞こえてくる。誰かと一緒にいたのだろうか? その人たちと別れて、わざわざ自分に声をかけてきたのか?
「夜の散歩ですか?」
水瀬がゆっくりと歩きながら尋ねてくる。純平も、思わずつられて歩き出す。
「薬を飲んで寝たんですけど、嫌な夢を見ちゃって。寝つけなくて外に出て来たんです。水瀬さんは?」
「俺はサッカーの練習帰りに呑んできてこんな時間ですよ。明日も仕事だっていうのに」
水瀬は苦笑していたが、本気で困っているようには見えなかった。おそらくこういう夜を何度も経験しているのだろう。そしてこんな夜が、水瀬を形作っているのだろう。
「佐野さん、明日は――」
「休みです。カレンダー通り、土日祝が休みなので」
「じゃあ今日は思いっきり夜ふかししてもいいわけだ」
屈んだ水瀬が、顔を覗き込んでくる。耐えきれなくて、目をそらした。きっと水瀬は女性にとてもモテるだろう。彼女がいてもおかしくない。
邪な想像を振り払う。自分のこういうところが嫌いだった。
「眠気は? あります?」
「いや、全然ないです。むしろ昼間より元気っていうか」
「お腹は?」
「ちょっとだけ空いてます」
そういえば今日は夕食を食べなかったな、なんて今さらながら思った。
水瀬がぴたりと歩を止めた。遅れて純平も立ち止まる。
「俺、行ってみたい店があるんすよね。でも、一人で入るのはなんか勇気いるっていうか」
「はあ……」
水瀬が指を差した方向を見る。店先で赤い提灯がいくつか揺れている。二十四時間営業。こってりラーメン。背脂マシマシ。
見えた文字に、後退りをした。深夜の二時に、こんなものを?
水瀬が目を合わせてくる。薄い茶色がかった目が、期待できらきらときらめいている。
「今夜は俺に付き合ってもらえませんか?」
母親の切り裂くような声がする。色を失った唇が、ぶるぶると震えるのを見ていることしかできない。なにか言いたくても、なにも言えない。言葉はすべて喉元で詰まって、出ることが許されない。
喉が締まって、息が苦しくなって――目が覚めた。
真っ暗闇に、時計の秒針の音がカチカチと響いている。思わず両手で顔を拭う。汗でびっしょりだ。
純平は寝転んだまま、枕元に置いていたスマホをタップした。時刻は午前二時。薬を飲んで、眠りに就いてからまだ二時間しか経っていない。
もう一度、すぐに寝つける気もしなくて、ふらふらと立ち上がりキッチンへ行った。冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、一気にあおる。冷たい液体が喉から胃へと流れていく。
母親の夢を見るのは久しぶりだった。最近はずっと会社に遅刻する夢とか、上山に怒られている夢とか、そんなものばかり見ていたから。まだ自分の心に、あの日のことが巣食っていることに驚かされた。
眠気はすっかり吹っ飛んでしまった。それに上手く寝つけたとして、夢の続きを見るのは嫌だった。
ぼんやりとした闇の中で、玄関のほうへ目を向ける。カーテンの外はしんと静まり返っていて、時折車の通る音が聞こえるだけ。
純平は部屋着から手近な服に着替えて、ランニングシューズを履いた。スマホと財布、それに家の鍵だけをポケットに突っ込んで家を出る。
昼間とはちがう、ひんやりとした静かな空気が身体を包んだ。人通りはなく、街灯の下にぽつんと自分の影が落ちている。一歩踏み出すごとに、ざわざわとしていた身体の内側が、徐々に落ち着いていくのを感じる。
純平は明るいほうへ、駅前を目指して歩き出した。特にやりたいことがあったわけではないし、駅前へ行きたい理由があったわけでもない。ただ、街灯の明かりしかない薄暗い住宅街を歩くよりは、多少明るい駅前を歩いたほうが気分が晴れるのではないかと思っただけだ。
駅前に行くと、人通りもすこし増えた。固まって歩いている大学生くらいの若い集団、明らかに飲み過ぎと思われるサラリーマンたち、道端に佇み、タクシーを待っている女性。それぞれに、それぞれの人生があるのだと思うと、自分の悩みがちっぽけに思えてくるようだった。
家にいる時は絶望的な気持ちだった。薬を飲んでも二時間しか眠れなくて、眠ったとしても嫌な夢を見そうで。しかし街に出てくるとこんなにも人がいる。ここにいる人はまだ寝ずに活動している。寝れないことに罪悪感を抱いたり、焦りを抱いているようには見えない。
「あれ、佐野さん?」
ふと、誰かに名前を呼ばれた気がして、純平は来た道を振り返った。遠くでパッと手を挙げた人物を見て、純平も思わず手を挙げる。
「やっぱり佐野さんだ。こんばんは」
こちらに歩み寄って来ながら、水瀬は夜に似つかわしくない明るい挨拶を交わした。薬局にいる時とはちがい、マスクはしていない。薄い唇から白い歯が覗いている。それに耳元。薬局にいた時はなかったはずのピアスがいくつか開いている。決してジャラジャラしているというわけではないが、数はかなり多い。
「俺、ここで抜けるわ。じゃあまた来週なー」
水瀬が後ろを振り返り、大きな声で誰かに話しかけた。すこし遠くのほうで「おう」とか「またな」とか、それぞれの返事が聞こえてくる。誰かと一緒にいたのだろうか? その人たちと別れて、わざわざ自分に声をかけてきたのか?
「夜の散歩ですか?」
水瀬がゆっくりと歩きながら尋ねてくる。純平も、思わずつられて歩き出す。
「薬を飲んで寝たんですけど、嫌な夢を見ちゃって。寝つけなくて外に出て来たんです。水瀬さんは?」
「俺はサッカーの練習帰りに呑んできてこんな時間ですよ。明日も仕事だっていうのに」
水瀬は苦笑していたが、本気で困っているようには見えなかった。おそらくこういう夜を何度も経験しているのだろう。そしてこんな夜が、水瀬を形作っているのだろう。
「佐野さん、明日は――」
「休みです。カレンダー通り、土日祝が休みなので」
「じゃあ今日は思いっきり夜ふかししてもいいわけだ」
屈んだ水瀬が、顔を覗き込んでくる。耐えきれなくて、目をそらした。きっと水瀬は女性にとてもモテるだろう。彼女がいてもおかしくない。
邪な想像を振り払う。自分のこういうところが嫌いだった。
「眠気は? あります?」
「いや、全然ないです。むしろ昼間より元気っていうか」
「お腹は?」
「ちょっとだけ空いてます」
そういえば今日は夕食を食べなかったな、なんて今さらながら思った。
水瀬がぴたりと歩を止めた。遅れて純平も立ち止まる。
「俺、行ってみたい店があるんすよね。でも、一人で入るのはなんか勇気いるっていうか」
「はあ……」
水瀬が指を差した方向を見る。店先で赤い提灯がいくつか揺れている。二十四時間営業。こってりラーメン。背脂マシマシ。
見えた文字に、後退りをした。深夜の二時に、こんなものを?
水瀬が目を合わせてくる。薄い茶色がかった目が、期待できらきらときらめいている。
「今夜は俺に付き合ってもらえませんか?」
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