【完結】トワイライト

古都まとい

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3章(4)

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 橋を越えればアパートが見えてくる、といった道のど真ん中で、旭陽は橋の上に人だかりができているのを見た。橋の中央あたりに集まった人々は、橋の下を流れる川を見下ろして、興奮したようになにかを叫んでいる。その道を避けて通るわけにもいかず、旭陽は人混みに近づいた。

「なにがあったんですか?」

 しきりに橋の下を見下ろしていた中年の男性に声をかける。旭陽の存在に気づいた男性は、一度顔を上げると橋の下を指差した。

「若い兄ちゃんが川に飛び込んだんだけど……一向に上がって来ないんだよ」

 旭陽も橋の下を覗き込んだ。そして、ぎょっとした。川面から、人の手が突き出ていたからだ。
 どう見ても、あれは溺れているようにしか見えない。この川はさほど流れも速くなく、水深も浅いイメージがあったが、昨日の大雨で増水しているようだ。茶色の水が、だくだくと流れる間に、細い人の手が浮いたり沈んだりしている。
 旭陽は一も二もなく、駆け出した。橋を渡りきり、草が生い茂る土手に下りる。川に近づくと、一層その茶色い濁流が凶悪なものに思えた。

「おい! 危ないって!」

 橋の上から、先ほどの男性が叫んでいる声が聞こえる。どうする? 飛び込むか? 幸いにして、旭陽は着衣水泳の心得がある。しかしそれはプールでの話だ。川や海など、自然の流れがあるところでは一度も実践の経験がない。
 下手すれば、助けに行った自分も溺れるかもしれない。けれど、ここで消防やらが助けに来るまで待っていたら、あの人は本当に溺れて、川の底まで沈んでいってしまう。
 一瞬、川面から覗いた顔を見て、旭陽は覚悟を決めた。背中に背負っていたリュックを下ろし、ざぶざぶと川に入る。土手に近いところはまだ底に足が届いたが、中央あたりまで来ると一気に水深が深くなった。平泳ぎの要領で、じりじりと助けを待つその手に近づく。
 近くまで来て、旭陽は一度顔を川に沈めた。茶色く濁った水の中での視界は悪く、五十センチ先すら見通せない。伸ばした手が、顔面に触れた。手探りで顎を掴み、自分が浮き上がると同時に一気に引き上げる。

「っ、力抜いて! 踏ん張ったら、逆に沈むから!」

 人の身体を引っ張りながら泳ぐのは、なかなか至難の業だった。一人ならなんなく泳げる距離も、一人分余計に背負っていることで急に進みが遅くなる。そして身体にぶつかってくる波の強さ。旭陽の身体ごと押し流そうとしてくる強い流れに逆らいながら、土手を目指して必死に足をばたつかせる。
 旭陽に顔面を引き揚げられた男は、波の間で二、三度水を吐いたようだが、その後は大人しくなった。川底に足が着く浅瀬に来ても、自らの足で立つことも難しいようで、旭陽は仕方なくその身体を引きずって土手に上がった。

「……小野さん」

 上がった息を整えてから、旭陽は目の前で土手に伸びている男に向かって声をかけた。川に飛び込み、溺れた若い男の正体は隣人の小野碧だった。
 溺れているのが知り合いとわかったら、無視するわけにもいかなくなった。だから旭陽は危険を承知で、川に飛び込んだのだ。

「なにやってんすか、こんなところで」

 土のような、草のような、なんともいえない臭いを漂わせながら碧が寝転んだまま、片手を挙げる。その手にはぐっしょりと茶色い水を吸い込んだぬいぐるみが掴まれていた。

「橋の上を歩いていたら……前を歩く女の子が、ぬいぐるみを落としたんだ」
「わざわざそれを拾いに?」
「いやあ、十束くんにもできるのだから僕にもできると思ってね」

 プールですら泳いだことないけど、と碧はあっけらかんに言い放った。瞬間、旭陽の頭がカッと沸騰したように熱くなる。

「プロでも川や海では溺れることがあるんですよ!? 馬鹿でしょ、あんた!!」
「待て、そんなに怒らなくても――」
「怒りますよ! 素人がカッコつけた結果、溺れ死ぬところを見るかもしれなかったんだから!」

 碧はぽかんとした顔で旭陽のことを見たが、やがて小さな声で「すまなかった」と謝った。頭には濡れた葉をつけ、Tシャツは泥で汚れ、起き上がる気力もなく土手に寝そべっている。
 やがて土手に降りてきた幼稚園生くらいの女の子と、その母親は怯えたような表情で碧の手からぬいぐるみを取り上げていった。「もうなくすなよ」という碧の言葉に、母親がしきりに頭を下げながら娘の手を引いて遠ざかっていく。その様子を見ていると、旭陽はそれ以上、碧に対して怒ることができなかった。

「それで……大会はどうだった?」

 頭についた葉っぱを払いながら、碧が尋ねてくる。動く気力が湧いてくるまで、ここで雑談しようというのか。濡れた服に夕暮れの冷たい風が吹きつけ、すこし寒さすら覚える。

「三位でした。三位でも、入賞は入賞ですよ」
「そうか、おめでとう」

 碧を置いて、立ち上がる。つきあっていられない。さっさと家に帰って、泥水を吸った服を着替えて熱いシャワーを浴びたい。大会帰りに、こんなところでまた泳ぐことになるとは思わなかった。

「小野さんはどうなんすか。この短期間で二作目を出すなんて、無理でしょ」

 ふふ、と誰かの笑い声が聞こえた。いや、幻聴かもしれない。疲れすぎて、聞こえないものが聞こえてきて――。

「無理なものなどあるか!」

 碧はそう叫ぶと、大声で笑った。勢いよく起き上がり、口の中に溜まった砂利を吐き出し、旭陽に近づいてくる。ギラギラと光る目に宿る狂気に、旭陽は勝負の結果を知った。

「延長戦だよ、十束くん。ちょうど今日、編集部から書籍化の話をもらってね」

 汚れたTシャツの裾で、碧が顔を拭う。よくよく見ると、彼は水中で眼鏡をなくしたようだ。いつもは眼鏡の奥に隠れている瞳が、むき出しのまま旭陽を見つめている。

「僕は次の小説を十万部売ってみせる」

 君はどうする? 碧の目は、そう旭陽に問いかけていた。
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