【完結】トワイライト

古都まとい

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4章(7)

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 最初は碧を監視するように起きて、デスクの後ろを陣取っていた旭陽だが、碧がふと手を止めると室内には規則正しい寝息が響いていた。
 椅子ごと後ろを振り向くと、壁にもたれかかって旭陽が眠っている姿が目に飛び込んでくる。寝顔は穏やかで、すこしあどけない。幼さの残るその顔を見ていると、碧がはじめて旭陽を目にした四年前のことを思い出すようだった。

 軽快な歩みで、原稿は進んでいる。一晩中書き続ければ、明日の朝には完成するだろう。
 旭陽を起こさないようにそっと椅子から立ち上がり、眠気覚ましに濃くコーヒーを淹れる。ずっと執筆を続けて脳を動かしているせいか、やけに小腹が空いていた。気分転換を兼ねて、コンビニに夜食を買いに行くのもいいかもしれない。ここ最近はずっと酒ばかり飲んでいて、ろくなものを食べていない。身体から栄養が枯渇している気配は、常に感じていた。

 碧はコーヒーを流し込むと、そっと部屋を出た。深夜の街は静まり返っていて、自分の足音だけが響いて返ってくる。
 旭陽が戻ってくるまで、地獄のような日々だった。地獄に足を踏み入れることを選択したのは自分だが、そうすることでしか自分の心を守れなかったのだ。もし旭陽が部屋に来なかったら――。自分はとっくに酒に溺れて死んでいたかもしれない。それはそれで、昔の文豪みたいで粋だ、と碧は意味もなく考えた。
 すこし歩くだけで、コンビニの明るすぎる明かりが見えてくる。中でチラチラと客らしき人が動いているのが見えて、無性にホッとした。深夜の街は危なすぎる。自分が、たった独りでここに残されていることを自覚してしまうから。

 コンビニで適当にサラダチキンやおにぎりを買い、外に出た。夜風はほんのりと冷たく、秋の気配が漂っている。
 ポケットに入れたスマホが震えていることに気づいたのは、もうすぐでアパートが見えてくるというところだった。サラダチキンとおにぎりを小脇に抱え、スマホを取り出す。
 見慣れない番号だった。電話帳に登録をしていないと名前が表示されないようになっているから、知らない人からの連絡ということだ。一体、こんな夜中に誰が電話をしてきたというのか。迷っているうちに電話は一度、切れた。しかしまた同じ番号から着信があり、ブーブーとスマホが手の中で震える。

「……もしもし」

 碧は意を決して、応答ボタンをタップし、電話に出た。しばらくの沈黙。いたずら電話か、それとも間違い電話だったのか――。

『野々みどり先生?』

 か細い、鈴のような声が耳を打った。下手をすれば、そこらじゅうで鳴いている秋の虫たちの声にかき消されてしまうほどの声量。側面にある音量ボタンを押し込み、通話音量を上げる。

「誰だ?」

 その声に聞き覚えはなかった。一瞬、親類の誰かが家族に代わって連絡してきたのかと思ったが、こちらをペンネームで呼んだことでその可能性はなくなった。碧が作家として活動していることを知っている、誰か。

『夢見しずくです。お久しぶりです、野々先生』

 声と、碧の記憶の中のしずくの姿が結びつかない。会ったのは、授賞式の時の一度きりだが、その時のしずくはまだ声変わり前で、中学生らしく学ランを着ていた。今、電話の向こうで喋っているのは、女性のように聞こえる。

「声変わりをしたら、女になったのか?」
『……最悪。デリカシーってものがないの?』

 鈴を転がしたような声から一転。年相応の男の子の声が聞こえてくる。あの声はわざわざ作っていたのか。そこで碧はようやく思い出した。世間一般では、夢見しずくは現役女子高校生作家ということになっている。それが出版社の意向でそうなったのか、それとも本人の意思でそうなったのかは碧は知らない。

「大先生が、売れない作家になんの用だい?」
『もし、二作目のチャンスがあるとしたら――』

 二作目、という言葉だけが碧の頭に響いた。

『あなたは全部を捨てて、それに挑戦する覚悟はある?』

 気づくと、碧は自分の部屋に帰ってきていた。旭陽はあいかわらず、すやすやとよく眠っている。碧が帰ってきたことにも気づいていないようだ。碧はまず、眠っている旭陽の身体にクローゼットから引っ張り出してきたブランケットをかけた。夜の風が思ったよりも冷たく、このまま眠っていたら風邪を引かないか心配になったのだ。
 それからサラダチキンとおにぎりを淡々と胃に押し込めると、猛然と残りの原稿に取りかかった。そして当初の目論見通り、日が昇る頃には印刷まで終えていた。
 原稿の上に、短い書き置きを残す。鍵も一緒に置いておく。

 それから碧は旭陽を起こさないよう、細心の注意を払いながら静かに荷造りを進めた。いつ帰って来られるかはわからない。もしかしたら、もう二度と旭陽の前に姿を見せることはないかもしれない。
 部屋を出る直前、碧はもう一度、旭陽の寝顔を見つめた。その顔を脳に焼きつけるように、じっと。せっかくここまで来たのに、自分から離れるのは惜しかった。それでも、やらねばならないことがある。

「さようなら、十束くん。いつかまた……会えるといいね」
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